第191話 旅立ち

 「――深淵じゃ」


オズワルドは静かにそう言った。

佐伯はその話を黙って聞いていた。

サブリナはオズワルドがそう呟いたことに、もう反対しなかった。


「わしが深淵について知ったのは、フィシャナティカの校長となった時じゃ。そして知った。あの時、カイルが見せた魔法の正体を……」


「正体?」


「つまり……それが深淵じゃよ。その存在は深く閉ざされておる。ハイルクウェートとフィシャナティカの校長は、就任と同時に深淵について知る。そして前校長から深淵を監視するように言い渡されるのじゃ。それがこの2校の真実であり、掟じゃ。すべては深淵の愚者を誘き寄せ、監視するためにある」


「ちょっと待ってください。深淵の愚者って何ですか?……」


するとオズワルドは隠すことなく答えた。


「――ニトじゃ」


「え?」


「ニト……あの者が深淵の愚者じゃ。喋る杖にあの異常な力、間違いなく深淵じゃ。深淵の特徴は様々じゃが、歴代の校長が残した資料によれば、深淵は宿主の表層と深層を映すらしく、大抵の場合、それは異形であり異様な波動をしておるそうじゃ。そして、常人には感知することも出来ぬ。じゃがニトの場合、感知できぬのは、その魔力にも理由があると思うがのぉ」


だが、そんな説明で深淵を理解することはできない。

佐伯は説明を聞いても、疑問符を浮かべたままだった。


「その……中級魔法とか上級魔法とか、そういう話ですか? ニトの使う魔法は、さらにその上ってことですか?」


「ちと話が違う。確かに以前も申したように、あ奴の魔法は『喋る杖ワンド・スピーク級』のさらに上をいくじゃろう。じゃがのお? 考えてみてほしいのじゃ。そもそも何故、『喋る杖ワンド・スピーク級』などという位が生れたのかを――」


「……どういう意味ですか?」


「杖が口を開き、言葉を返すはずがない。つまりこの位に定義された魔法は、それほどまでに、常軌を逸しておるということじゃよ。じゃがニトは、その常識の外にあるはずであった『喋る杖』を、当然のようにたずさえておった。この意味がお主には分かるかのお?」


「……」


「喋る杖など、わしも初めて見た。わしらは深淵を監視するよう伝えられてはおるが、その正体については殆ど聞かされておらぬ。“深淵は暗黒を再起させる”……“深淵に呑まれた愚者は愛を失い、世界に混沌をもたらす”……そして、喋る杖。すべてこの世界にある、おとぎ話じゃ。じゃが喋る杖は、実在した……」


「それが何だって言うんですか? たかが杖じゃないですか」


「“たかが”か……」


オズワルドはそれ以上、どう説明していいのか分からない。

知らぬものを教えるというのは難しい話だ。

喋る杖が実在することについては、オズワルド自身、つい最近知ったことなのだから。


「佐伯よ、アーサー様についてけ。そして学ぶのじゃ、世界には深淵の記述がいくつも存在する。じゃがその多くに、“深淵”の文字はない。じゃがよくよく考えてみれば、どこか“そこに”通ずるものがあるような気がすると、そう思わせるようなモノばかりなのじゃ。そういう物語や歴史書は多くある。誰が書いた物なのか、それすら分からぬ物ばかり。じゃがそこには、共通してある意味が読み取れる」


「意味?」


「そうじゃ、形は違えど、読み解くことで浮かび上がる思想のようなモノがある。そしてそれは多くの書物に共通して記述されておる」


「それって」


「“深淵は裏切る”……ということじゃ」


「裏切る?」


「それが何を意味しておるのかは分からぬ。それらを後世に残した者たちは、少なからず、わしらよりも深淵について知っておったのであろう。母親は子にこれを読み聞かせ、友人や人を大切にするようにと、そうしつける」


オズワルドは多くを語らない。

だから佐伯には断片的にしか伝わらず、余計に混乱するばかりだ。

だがオズワルドも言ったように、深淵については分からない。

直接、目にしたことのあるオズワルドでさえ、知らないことの方が多いのだ。


「思ったんですけど、先生ならニトを殺せるんじゃないですか? だって先生は一度……」


「無理じゃ」


オズワルドは即答した。


「あ奴は異質過ぎる、もはやわしの魔法など及ばんよ。見たじゃろ? わしは魔族軍にすら遅れをとった。魔導師をかばいながらの戦闘は老体に響いたわい。一騎打ちならば、老体であっても幹部くらいはどうにかできたやもしれぬが、ブラームス様でも敵わぬ以上、わしに出来たかどうかは怪しいところじゃ。確かなことは、魔王には、まず及ばぬということじゃ。それをニトは容易く葬った。次元が違い過ぎるのじゃよ」


だがブラームスは、あの時、一条とフィオラの様子を窺いながら戦っていた。

とは言え、知能の低いモンスターを相手にするならまだしも、魔族の、それも幹部クラスとなると、足止めが限界だった。


「そうですか……」


ということは、殺せないということだ……佐伯の希望がまた絶たれた。

佐伯の中の、自身へ抱いている期待や可能性が崩れ始める。


「わしはまだ諦めてはおらぬ」


「え……」


「終焉の学院ビクトリア、今そこへ、孫のゼルスを向かわせておる。じゃが、終焉の学院は誰も寄せ付けぬ。フィシャナティカとハイルクウェートの校長でさえ入れぬ場所じゃ。快い返事をいただけるかどうかも分からぬ。じゃが、わしはまだ希望は捨てておらぬ」


佐伯は“終焉の学院”についての情報を知らない。

だが佐伯は、オズワルドの「諦めない」という言葉だけを聞いていた。


「これは王にも知らせておらぬ。わしとサブリナとゼルスのみで話し合い、行ったものじゃ。故に、ここだけの話にしてほしい」


そう言われても、では何故、自分にそんな話をしたのか?

佐伯の中は疑問で溢れていた。


「佐伯よ、強くなるのじゃ。“その時”は必ず訪れる。もちろん危惧したまま、何も起こらぬことを願うばかりじゃが、世の中、すべてはなるべくしてなる。深淵を見たわしが今、このフィシャナティカの校長であるようにのぉ」


長く生きた者の視点だ。

オズワルドにはこの先の景色が見えていた。

その中心にいるのはニト。

オズワルドはそう、確信していた。


「佐伯よ」


「はい」


「わしの知る物語の“勇者”は、“魔王”を滅ぼす。お主らがいつか、わしらの……いては世界の希望になることを願っておる」


オズワルドは、表情の困惑した佐伯に、優しく微笑む。

その微笑には、一体どのような意味があるのか?

だが佐伯はその意味を、言葉では言い表せないが、何となく理解した。


するとオズワルドは、戸棚から一つのローブを取り出した。

それは以前、オズワルドが生徒たちに話していた、国宝ヒストリー級のローブだ。

対校戦の代表に選ばれた3名に送られる。

深淵の件や、何かとバタバタしていたオズワルドは、3人に渡し忘れていた。


「この世には、触れてはいけぬ領域というものがある。およそ人の手にあまる力じゃ。人が手にしてよいものではない……」


オズワルドは綺麗にたたまれたローブを手に、改まったようにそう言った。


息子の魔法とニトの魔法。

程度は違えど同じ深淵。

オズワルドは、深淵というものに辟易していた。


オズワルドは息子を殺した時、それまで自身の中にあった『正義』という概念が崩れた。

それは徐々に崩れ、それまで“単純な純粋”であった正義は複雑化し、この世の闇というものがよりはっきりと見えるようになっていったのだ。


それはある種の病気だ。


それまでも、それからも、オズワルドが息子を殺したからといって、世界が変わったことはない。

常に光があり闇があった。

だがそれ以来、オズワルドの目には闇ばかりが見えるようになる。

校長という座への就任は、その末でのことだった。

そしてオズワルドは、八岐の王と出会い、さらに闇へ浸かった。

もうそこに、かつてのような純粋な正義はない。


「遅くなったが、これを渡しておく。代表入り、心より嬉しく思う」


オズワルドがローブを手渡した時、一瞬、その表情がどこか悲しいものに見えた。


佐伯はそれを受け取ると、オズワルドの顔を確認するように、まじまじと見つめた。

だがそこにあるのは、生徒を思う校長の顔だ。


「達者でな」


オズワルドは最後に微笑んだ。







 佐伯が去った後、そこには、やはり暗雲が立ち込めていた。


そしてしばらくすると、また部屋の扉が開く。


「お爺様――」


するとそこへローブを纏いフードを深く被った者が現れる。

その者は部屋に入ってくるなり、フードを取った。

すると、そこに現れたのは、顔を覆うほどの、短い赤毛の髪が綺麗な女性。


「ゼルス、戻ったか」


そこに現れたのは、オズワルドの孫。――ゼルスだった。

しばらくの間、生徒会長の任を降り、学校を離れていたゼルス。


「して、どうじゃった?」


言伝ことづてと、こちらを預かってきました」


「ようやった」


ゼルスの手にあったのは、一枚の折りたたまれた羊皮紙と、縦長の小さな箱だ。


するとオズワルドはそれらを受け取り、テーブルに箱を置くと、羊皮紙を開く。

そしてそこに書かれた文字を目で追った。


「……これは」


オズワルドは手紙を読み終えると、言葉を詰まらせた。


「中へは入れませんでした。門の前でこれを渡され、そのまま帰還しました」


「そうじゃろうな、ビクトリアは閉ざされておる。入ることは許されず、一度入れば、出ることも許されぬ」


故に『終焉の学院ビクトリア』は、場所は知られていても、誰もその内情を知らない。

大魔導師ですら侵入は愚か、どれほどの強力な魔法も寄せ付けないのだ。


するとオズワルドは、先程テーブルに置いた箱を手に取り開けると、中身を取り出した。


「それは……杖ですか?」


サブリナは興味深そうに尋ねる。


「そのようじゃな……」


するとオズワルドは杖をしまった。


「ゼルス、支度じゃ。直ぐに出る」


「はい」


するとオズワルドは、暖炉に魔法で火をつけると、しまった羊皮紙と箱を取り出し、そして暖炉に投げ入れ、燃やした。


「オズワルド、そこにはなんと?……」


言伝の内容を求めるサブリナ。

だが……


「サブリナよ、学校を頼む。わしにはやることが出来た」


「やること?……」


サブリナは疑問符を浮かべたままだ。

オズワルドは手紙の内容を語らない。


「わしが突然、学校を離れれば、王たちが勘付くじゃろう。そうなれば、次に疑われるのはお主じゃ。何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通すのじゃ。あるいは……」


だから内容は教えない。

オズワルドはそう言っているのだ。

そして、あるいは……逃げろ。

オズワルドは覚悟を決めていた。


シュナイゼルは、ニトの件を自分に任せるようにと、そう言った。

不必要に煽る必要はないと、そう説明したのだ。

だがオズワルドは納得しなかった。

深淵に呑まれた者を目の前で見たオズワルドにとって、ニトの件は、他人に任せられるほど、安易なものではなかった。

だがシュナイゼルとて、何も安易に決めた訳ではない。


「では、どこへ?」


するとオズワルドは、余所行きのローブを纏い、フードを被った。


「――世界じゃ。わしは行かねばならんぬ。ゼルス、――準備は良いか?」


「はい、お爺様」


するとオズワルドの足元に、魔法陣が現れる。


「オズワルド……」


サブリナは訳も分からず、困惑していた。


墓穴はかあなを掘りに行く訳ではないが、あの日、息子を殺し、失った正義を取り戻すとするかのお」


オズワルドは弱々しく微笑む。


「サブリナよ、後は任せた。生徒たちを頼む」


瞬間、オズワルドとゼルスの姿が、光と共に消えた。

同時に暖炉の火も消える。


サブリナが一人、薄暗い部屋の中に残された。

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