第25話 便器の魔人
「日高政宗の起源であり深淵の象徴」
ドラゴンが奇妙なことを言った。
「深淵の象徴?」
「貴様を表した最初の深淵。その時点で、貴様はもう答えを出していたということだ。だからこそ癒しは侵す魔法へと反転した」
痛みで意識が遠のいていく。
気が付くと俺の口元には笑みがあった。
行き詰った時に出る笑みだ。
「それでいい、笑え。確かに人は変わる。環境が人を変えるからだ。冒険を通して変わったものもあっただろう。だがどうだ、あの日々を忘れられたか。むしろ怒りは強くなっていったはずだ。それが貴様なのだ!」
そうかもしれない。
あの日々を思い出すたびに暗闇に引きずり戻されるような感覚があった。
誰かと一緒にいても、今でも心が孤独になる時がある。
その度に、最後にはあいつらへの殺意がよみがえる。
怒りで震える。
「善悪とは貴様の大嫌いな人間が生み出した都合のいい表現だ。道徳や倫理は常に変化する」
ドラゴンは畳み掛けるように言った。
「影響を受けやすい貴様は、すぐに世間の都合に合わせ考え方を変える。だが世界は貴様が思っているよりも利己的だ」
「嫌というほど見てきたよ」
「ではなぜ疑う、なぜいつも拒む! 深淵は貴様自身なのだぞ、貴様が愛してやらねば誰が愛する、貴様を理解できるのは貴様だけだ、貴様だけは己を見捨ててやるな!」
これは自分で考え乗り越えるべきものだ。
そう思ったからみんなにも相談してこなかった。
今でもその選択は間違っていないと思ってる。
すぐに答えを求めるべきでないものもある。
「お前は敗者だ」
「まだ負けてないぞ? だからこそ俺は今もあいつらを憎んでる」
ドラゴンのギラついた目が俺を見降ろす。
敵意も悪意も感じない。
こいつの攻撃を避けられない時があるのはそのせいか。
「みんな死ねばいいのに……」
「それでいい」
「わずらわしいものを排除する」
「そうだ、願うだけでは、祈るだけでは何も変わらない」
「でもこれはお前にも関係のない話だ。俺はやりたいようにやる。お前にも惑わされない」
ドラゴンは鼻息を激しくもらし、「それでいい」と答えた。
「これが俺の魔法だ」
侵蝕を全身に展開する。
何が変わったのか分からない。
ただドラゴンと会話しただけだ。
だが不思議ともう迷いはなかった。
何をすべきなのか分かる。
ドラゴンが足と腕で地面を強く掴む。
地割れと共に衝撃波が起こるほどだった。
「お前はヴェルなのか?」
ずっとそんな気がしていた。
「我はこのダンジョンの一部であり、お前自身だ」
俺が飛びかかるのを待っている。
「これで最後だ」
そう呟いてすぐ、ドラゴンへ向けて最初の一歩を踏み出した。
翼を広げたドラゴンは、耳が痛くなるほどの叫びを披露した。
体育館の壁と屋根が吹き飛んだ。
2発の炎の塊が奴の口内から飛んでくるのを確認しつつ、トアたちへ落下物が当たらないよう侵蝕の範囲を拡大する。
赤黒いオーラは3人ごと飲み込んだ。
不安はもうなかった。
3人は侵されていない。
ドラゴンが侵蝕のオーラを爪で切り裂いた。
驚きはしたが不思議なことじゃない。
《神速》を使いながら2発の炎をかわす。
「《
ドラゴンの足元に魔法陣が現れた。
無数の血の雨が奴の体に降り注ぐ。
見えないビーカーでもあるように血が満たされていく。
ドラゴンは閉じ込められた。
上空の女神の姿が消えるとビーカーが砕け散った。
爆発するように流れ出した血の中から、赤い鱗の手が飛び出した。
「《
さらに自分の全身を赤黒いオーラで包み込む。
先ほどオーラを破壊した爪を避け、俺はドラゴンの腕の上を走った。
ドラゴンの胸元――心臓に向かって全力で飛び込んだ。
「お前は特別ではない」
地上へ着地するなり声が聞こえた。
振り返ると背中に大きな風穴の開いたドラゴンの姿があった。
「誰もがダンジョンに辿りつけるわけではない。深淵とは求める者のみに与えられるものではない。それもまた理不尽な偶然が引き起こした産物なのだ」
ドラゴンは消滅し、辺りに光る粒子が散る。
粒子の中から声が聞こえた。
「しかし……流石ですな、我が王よ」
――『ドッペラー【Lv:1262】討伐により《女神の加護》を発動しましたが戦利品はありません』
――『経験値獲得により【Lv:2009】にレベルアップしました』
最後だけ口調が違った。
その理由を聞く前にドラゴンはいなくなってしまった。
ネムを真ん中にして3人は手をつないでいた。
足元が揺れ始め嫌な予感がし、俺はすぐに3人と合流する。
「ご主人様、血がたくさん出ているのです!」
「大丈夫だ、傷は癒した」
能力は元に戻っていた。
治癒の魔術がしっかりと機能している。
深淵を疑っていない証拠だろう。
「また何か起きそうですね」
「揺れが大きくなっていくわ」
突然、部屋の電気を消したみたいに辺りが真っ暗になった。
と思えばすぐに明るくなる。
俺たちは真っ白な世界に立っていた。
「ここはどこ?」
「また魔物の仕業でしょうか?」
「明るくても怖いのです」
「心配しなくていい。ここは俺のためにある」
それがダンジョンの真実だろう。
「ニト様のため、ですか?」とス―フィリア。
「俺に関係のあるものしかここにはない」
周囲の景色が電波障害のように乱れた。
世界すべてがモニターのようだ。
そして何かの映像を映し始め、音声も聞くことができた。
3人は言葉を失い映像に目を細めている。
「あれは誰?」
トアが俺の顔を見た。
「小さい頃の俺だ」
モニターの一つに小学生の頃の俺が映し出されていた。
他のモニターにも小学生当時の俺が映っている。
ただ笑っている姿は一つもない。
すべての俺の表情は暗く、うつむいている。
泣いている。
悲しそうだ。
周りには誰もいない。一人だ。
またあるモニターには、ばい菌だと罵られる俺の姿が映っていた。
それを笑って誤魔化している。
だが最後には一人になり、泣いている。
「これ、全部小さいころのマサムネ?」
仲間外れにされ一人で泣いている俺。
そうだ、これらが俺を変えた。
幼少期に見るものはすべて教育という洗脳。
そうなり得る。
これが今の俺の人格を作りだした。
「何で自分が王女なんだ、他の奴でも良かったじゃないか――ス―フィリアはそう思ったんだろ?」
繰り返される映像。
その中の俺はいつまでも泣いたままだ。
そいつは立ち上がろうとしない。
いつまでも、ひるんでいる。
「みんな勝手だよな。勝手に俺のキャラクターを決め、虐められる側におとしいれた」
「そうですニト様。皆、勝手なのですよ」
「それでいい」
常に都合が人を動かす。
「俺には3人の支えが必要なんだ。もうあの頃には戻りたくない」
「ご主人様、悲しいのですか?」
「もう大丈夫だ、みんなが傍にいるからな」
「私も傍にいるわ」
「トア……」
ぐずぐずとすすり泣く少年の声が辺りに響いている。
「わたくしもです。いつまでもニト様のお傍におります」
3人が俺の手を掴んでくれた。
俺がなぜ偽名を名乗っているのか。
昔の名前が広まると、俺が生きていることが知れると都合が悪いからだ。
それを少しずつ、一つずつみんなに話していけばいい。
これまでは2つの世界を生きていた。
前の世界と今の世界。
この世界は幻想そのもので、俺にとっては夢だった。
心のどこかで現実だと認められていなかった。
痛みは感じても命を感じなかった。
それもここまでだ。
異世界は終わりだ。
そもそも異世界なんか最初からなかった。
初めから夢を見る必要なんかなかったんだ。
魔法も現実だ。
ここが俺の世界だ。
俺はニトになる。
「そのために」
あいつらを全員殺そう。
もう迷わない。
――『状態異常【異世界症候群】を完治しました。ステータスを正常に戻します』
《名前》ヒダカ マサムネ
《レベル》2009
《職業》ヒーラー
《種族》人間
《生命力》190855(60→95)
《魔力》170765(50→85)
《攻撃》42189(10→21)
《防御》36162(10→18)
《魔攻》50225(10→25)
《魔防》48216(10→24)
《体力》40180(10→20)
《俊敏》36162(10→18)
《知力》46207(10→23)
《状態》異世界症候群
《称号》転生者/復讐神の友人/蛇王神の友人
《装備品》聖女の怒り/ブロードソード/執行者の斧
《スキル》
王の箱舟/ミミックの人生/真実の魔眼/熱感知/浄化/索敵/鑑定/研磨/洗浄/料理/調合/生命探知/水中呼吸/打撃耐性/斬撃耐性/裂傷耐性/裁縫術/落下耐性/毒耐性/麻痺耐性/痛覚耐性/空腹耐性/疲労耐性/威圧耐性/解体術/養殖術/狩猟術/建築術/付与職人/執筆術/薬学/隠密/連射/剛射/威圧/詐欺/掏摸/罠職人/心眼/会心/見切り/鍛冶職人/忍耐力/肉体強化/念動力/魅了/速読術/言語理解/軽量化/暴食/聴覚過敏/臭覚過敏/咬合力上昇/統率力
《固有スキル》
女神の加護/復讐神の悪戯・反転の悪戯【極】/神速
《魔術》
《召喚魔法》
頭の中にいつものアナウンスが聞こえてステータスを確認した。
状態異常が完治している。
さらに生命力や魔力といった、基礎値が微妙に上がっている。
どういうことだろうか。
病気が治ったくらいの理解でいいのだろうか。
3人が不安そうに俺の様子を見ていたからなんでもことを伝えた。
周囲の映像が乱れ始めた。
すべての映像が一度に消えた。
「見て、あそこ」
トアがある方向を指差した。
映像もモニターもなくなり辺りは白い世界だ。
ただ遠くに霧が見えた。
「何かあるのです!」
ネムも指をさす。
霧が晴れ、そこに一件の住宅が現れた。
「なにか建物のようですね」
スーフィリアにも二人にも見慣れないものだろう。
だが俺にとってはそうじゃない。
「俺の家だ」
日本にいたころ住んでいた家だった。
突然、転移したときのように辺りの景色が変わった。
俺たちは日本のよくある住宅街にいた。
生暖かい風とカラスの鳴き声。
俺の大嫌いな夕日があった。
3人は周りの建物や景色を目で追いながら驚いていた。
見慣れた、変わり映えのしない退屈な景色。
「俺が前にいた世界を再現してるんだろう」
「なんだか殺風景な場所ね」
校舎に続き、住宅街にも関心が薄いトア。
「それより、あの家から何か感じないか?」
俺の家だ。
中に何かいる。
間違いない。
「何も感じないけど」
「ネムには分からないのです」
「わたくしも感じませんが」
「ってことは俺だけか」
魔力の波動とは違う。
肌がぞわぞわする感覚だ。
家の目の前まで来てインターホンを押してみる。
「それは?」
「呼び鈴だよ」
返事はない。
家の中から足音も聞こえなかった。
ただ気配はする。
「とりあえず入ろう。どうせ俺の家だ」
鍵は開いていた。
扉をそっと開けて隙間から中を覗く。
靴のない玄関。
階段。
リビングへと続く廊下。
何か微かにザーという異音が聴こえる。
「入るぞ」
小声で言った。
4人で中に入った。
習慣から玄関で靴を脱いでいた。
どちらでもいいことに気づいたが、3人も俺の真似をして靴を脱いでいた。
「あっちだ」
人さし指を唇の前にそえて静かについてくるように言った。
リビングだ。
そこから気配がする。
リビングの扉を開けるなり、つけっぱなしのテレビが見えた。
異音の正体はこれだったらしい。
画面に波が流れている。
誰かここでテレビを見ていたようだ。
部屋を見渡すが誰の姿もない。
テーブルの上に並んだ幾つものビール。
中身のないスナック菓子の袋。
やけに生活感がある。
誰かがここで堕落した生活を送っていたらしい。
ここもダンジョンだろう。
ならばいるのは魔物か。
「ここじゃないみたいだな」
「さっきから何を探してるの?」
「気配がするんだ」
「気配?」
「もしかしたら魔物がいるかもしれない」
家に入ってから気配が大きくなっている。
俺しか感じないというのも気になる。
もしかしたらドッペラー以上の強力な魔物かもしれない。
洗面所を確認した。
ただここにも生活感があった。
バスタオルが乱雑にカゴの中へ放り込まれている。
一階にはいないのかもしれない。
残るは二階。
階段を上がる前にトイレを確認しておこうと扉を開く。
「は?」
思考が止まり言葉を失った。
後ろ向きに生えた捻じれた2本の角。
尖った耳。魔女のような鼻。整えられたあご髭。
赤い体。ボディービルダーのような体格。
そんな異形の姿をした者が、洋式トイレで両手に新聞を広げくつろでいた。
頭が天井すれすれにある。
「ちょ、ちょちょちょい!?」
便器でくつろぐ大男は、俺に気づくと慌てながら変な声を上げた。
個室で騒がれると耳がうるさい。
俺は微動だにせず、頭の中で状況を整理していた。
「あれー、マスターじゃん、お疲れちゃん」
マスター。
俺をそのように呼ぶ奴には心当たりがある。
「まさかお前、ヴェルか?」
「なに言ってんだよ。それより、とりあえず閉めてくれね?」
便器の魔人は鼻をほじりながらそう言った。
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