Layer 0

ゐゑ

1 序章 - Unknown -

 ドメイン紛争を処理した翌朝、男は疲れた様子で椅子いすにもたれ、右手をダラリと下げた。左手で目と目のあいだを押さえる。目を固くつぶる。何もかもをこの一点に集中させてぬぐい去ってしまいたいという気持ちが見てとれた。それほどまでに疲れていたし、もう何もしたくはなかった。


 男、蔵本正一郎くらもとしょういちろうは、中堅システムインテグレータに務める壮年の営業マンだ。上期かみきの営業成績では例年を超える数字をたたき出し、執行役員から注目を受け、同年代からも一目置かれる存在となった。


 ……だが、下期しもきに入って、その歯車がみ合わなくなってきたのだった。逆境ぎゃっきょうとはいわないまでも、得体のしれない瘴気しょうきが、おのれに段々と浸潤しんじゅんしてきているような錯覚にとらわれてならないのだ。


 その第一波ともいうべき事件が、過日かじつ発生したドメイン紛争であった。




 インターネットを使うなら、誰でも必ずといっていいほど、ドメインのお世話になる。パソコンでも、タブレットでも、スマホでも、フィーチャーフォンだって、確実に利用する。


 どこで利用されるのかといえば、身近な例であれば、Webブラウザだ。Webブラウザは大なり小なり、各端末が兼ね備えている、Webサイト閲覧用のアプリケーションである。こんにちでは、広く普及しているため、詳述する必要性はあまりないだろう。


 ひと昔前は、このように手近なところに情報通信技術が存在し、それをスマートに活用する構造体系を、神が遍く存在するユビキタスシステムなどと呼んでいた。UBIQUEウビークエというラテン語の宗教的なことばに由来しているが、いかに便利であるかという面を強調したことばとしては言い得て妙である。


 今では「ユビキタス」ということばは、もはや風化している。ことばがかすんでしまうほど、インターネットが普及して、あたりまえの世界になったということがわかる。


 ドメインもそんなインターネットとともに歩んできたものだ。


 ……さて、Webブラウザを開いたあと、いったい何をするか? 検索エンジンをホームページにしている人であれば、入力フォームにキーワードをいれて検索するだろう。はたまた、WebブラウザのアドレスバーにURLを入力する人もいるだろう。


 ――そう、このURL、ここにドメインが含まれている。


 たとえば「https://www.layer_0.com/index.html」というURLがあるとしよう。


 ドメインは、最初のプロトコルと呼ばれる部分「https://」と、その後ろのホスト名「www.」、末尾のファイル名「/index.html」を除いた残りが該当する。すなわち「layer_0.com」だ。


 厳密にはドットやスラッシュはであるため、ホスト名やファイル名としては含めないが。


 また、アンダーバーもドメインには使えない。よって、例に挙げたドメインは取得できないがあしからず。


 つまるところ、「~.com」や「~.net」や「~.org」のようなものをドメインと呼称しているわけだ。


 ところで、このドメインだが、手に入れようと思えば誰でも手に入れられる。自分の好きな名前を決めて、「.com」や「.net」や「.org」などのトップレベルドメインとあわせてもらい受けることが可能だ。年間、数百円から数千円前後の費用がかかるが。


 この「自分の好きな」という点が、問題を引き起こすのだ。


 例えば、有名人の名前や、はやりモノ、有名企業の名前に似せることもできる。


 トップレベルドメインの数だけ似通った名前が付けられるので、「layer_0.net」や「layer_0.org」などもつくれてしまう。


 そうやってつくられたドメインを利用し、ユーザのアクセスを誘導して商品を買わせたり、ドメインそのものを高値で転売するといった行為もありうる。


 ただ仮に、それらの不正によって被害をこうむったとしても、法的に訴訟そしょうを起こすことができる。


 ドメインの取得は早い者勝ちという考え方があるが、犯罪やトラブルにつながるような行為については、かたくなにて置くようなマネはしない。


 そうならないように、企業は通常、複数のドメインを一括して取得しておくことがほとんどだ。




 蔵本くらもとが任されたのは親会社、日鳴製薬ひなるせいやくに関するドメイン取得問題だった。


 日鳴製薬は、従業員数約二万人、総売上高そううりあげだか約二兆円という大手製薬会社である。


 日鳴製薬では、「hinaru.com」や「hinaru.co.jp」といったドメインは取得済みだった。が、経営戦略部門の不手際で「hinaru.jp」ドメインの取得がされていなかった。ここを突いた無関係な企業によって、これを取得されてしまったというわけだ。


 取得したというだけなら支障はないが、当該企業は、「hinaru.jp」ドメインを利用してWebサイトを開設していた。そこで、日鳴製薬のブランドを利用してダイエット用品や美容サプリメントを売り出し、もうけを出していたのである。「日鳴製薬」という直接的な企業名は用いられていなかったものの、「日鳴ひなる」という名称や酷似した企業ロゴがWebサイト上には並べられていた。


 自社製品のまがい物を売る行為に遺憾いかんを覚えた親会社は、システムの専門部隊である、子会社の日鳴ひなるイノベーションサービスに調査依頼を出したのだ。


 自社内で解決すればいいじゃないかと思われる。が、親会社の主張によると、いちど第三者の目で会社ドメインの取得について洗い出しをして、総合的に確認し直したほうがいのではないか。――と、重役らの集まるで決まったらしい。


 しかし、依頼がきたときは、大半のエンジニアが二重三重にじゅうさんじゅうの仕事をかけもちしており、法に詳しい者も皆無であった。また、企業のグループ内部の仕事とあってか、熱をもってあたろうとする者はいなかった。


 そんなわけで、ちょうど手の空いていた蔵本のところに仕事がまわってきたという経緯だった。


 引き受けたことのない仕事であったため、正直ためらいがあった。自分には荷が重いように感じられた。


 だが、上司の励ましや推薦、専門的な部分はエンジニアの補佐も得られるということ、さらに自身の営業成績が追い風となってやる気が湧いてきたのだった。


 ……けれど、それも最初のうちだけだった。始めのうちは協力的だったエンジニアには「今は別件で忙しい」とあしらわれ、上司はこの依頼からすっかり興味を失っていて、「そんなものは後回しだ。例の件、商談を進めてくれ」と別の仕事を優先させようとする有り様だった。


 けっきょく、ほとんど一人で紛争の対応をするハメになった。


 そして、この紛争はいまだに解決にいたっていない。


 ――いや、ドメイン紛争自体はこちらが勝訴して終結したが、親会社の狙いはこの結果をもとにした損害賠償そんがいばいしょうの請求にある。


 相手側は格下企業ということもあって、多額の請求は望めないだろう。が、親会社は賃金をむしり取りたいわけではない。ここでしっかりケジメをつけておかなければ、同様の事象が繰り返される可能性が否定できないためだ。以降は、経営層も本腰を入れて事にあたるだろう。


 だが、ここで新たな問題が浮上した。とある私立病院のシステムを運用・保守していた、日鳴イノベーションサービスの社員が情報漏洩じょうほうろうえいを引き起こしたというのだ。


 システムに関わるパスワード情報などがれており、外部からの侵入を許してしまった。そのため、ネットワークを外部と一時切断することを余儀なくされる事態に陥ってしまったというのだ。


 病院側の怒りは最高潮で、運用・保守契約を打ち切るとまで言い出す始末だった。


 医療現場は常に命と隣り合わせにある。不正侵入したハッカーに医療機器や電子カルテを停止させられるようなことがあれば、取りかえしのつかない事態となることは目に見えている。


 病院はこの事態を非常に重くみており、日鳴イノベーションサービスに対して訴訟そしょうを起こす構えだ。


 ニュースになりそうな大事に発展し、経営陣は慌てて対策を練ることを求められた。


 もはや、ドメイン紛争の延長で他社に損害賠償などをしている余地はなくなった。こちらが損害賠償を受けかねなくなったのだ。


 ドメイン紛争で疲れていた蔵本は新たな問題に頭を抱えた。


 昨日は、部長からふっかけられた別件の提案資料作りで徹夜てつやだった。机の上には、エナジードリンクの空きびんが転がっている。さらに近くには、印刷済みの資料が山のように積まれていた。共に手伝ってくれる部下はおらず、皆そそくさと帰っていった。


 左手で右肩をみほぐす。ただの気休めだ。


 午前七時―― 定時にはまだ早い。少し眠ろう。


 蔵本は、座を回転させるとキーキー鳴る椅子にもたれたまま再び目をつむった。



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