第7話、夢と現実との境界線。【その2】
己の絶叫によって目覚めてみれば、そこはもはやすっかり見慣れてしまった学園の保養地のコテージの自分の寝室で、いまだ夜が明けきれぬ中、僕は全身を寝汗でぐっしょりと濡らしていた。
しかし、そんなことなど、気にしている余裕はなかったのだ。
「──りん! どこだ、どこにいる⁉」
僕はベッドを飛び降りるや、りんの姿を求めて大声でその名を呼びながら、コテージ中を探し回り始めた。
なぜなら、僕は思い出してしまったのだ。
自分には、
けれどもいくらコテージ中を探し求めても、彼女の寝室を始めとして、その姿はどこにも見つからなかった。
「……これほど探してもどこにもいないということは、こんな夜更けに外にでも出ているのか?」
まさにその時、コテージのすぐ眼下にある湖から、ざぶりと、結構大きな水音が聞こえてきた。
──まさか⁉
嫌な予感がして慌てて戸外へ飛び出せば、月夜の
「──っ。りん⁉」
濡れるのも構わず湖へと踏み込んでみれば、それはけして白いワンピースをまとった幼い少女なぞではなく、
少々小ぶりの、白木造りの棺桶であったのだ。
「……は? な、何でこんなものが、湖に──って、うわっ⁉」
その時ひとりでに棺桶の観音開きの蓋が開き、露になった中身を見て、僕は思わず息を呑む。
無理もなかった。
そこに目を閉じて横たわっていたのは、かつてメアによって見せられた夢の中で『主人公』を演じていた女性で、その夢を僕自らの手で小説化することによって昏睡状態にさせてしまった、人気SF小説家の
「……この人に限らず現在昏睡している人たちは全員、
そう。確か二十代半ばだったはずのそのプロの小説家は、何と今やどう見ても十二、三歳ほどの年齢となっていて、しかも僕の勤め先の
まったくの不可解極まる有り様に、ただ呆然と湖の中で立ちつくす、休暇中の青年教師。
だが、異常極まる事態は、それだけでは済まなかったのだ。
「ちょっ。おいおい、冗談だろう⁉」
気がつけば、僕の周囲は、まったく同一の棺桶だらけとなっていた。
いや、それどころか、今この時もどんどんと湖底から新たに浮かび上がってきて、そしてこれまた同様に蓋が自然に開いて、そこにはどこか見覚えのある面々が皆一様に、実際の年齢とは異なる十二、三歳ほどの年ごろとなって胡蝶の森女学園の制服を身にまとっていたのである。
「こっちは【ステージ4】の夢の中に登場したミステリィ小説家の
今や周囲の棺桶の数は四十ほどにも及んでいたが、まさしくそれは僕がメアに見せられた夢を小説にすることで昏睡状態に追いやった犠牲者の数と、ぴったり一致していた。
それは奇しくも僕の受け持ちのクラスの生徒数ともほぼ同数であったが、全員うちの学園の制服を着ているものの、見渡す限りあくまでも現在昏睡中の人々しかおらず、僕の教え子の姿のほうはただの一人も見受けられなかった。
「……本来は年齢がまちまちだったはずなのに、何で全員中学生くらいの年齢になって、うちの学園の制服を着て棺桶なんかに入っているんだ? ──いやそれともまさか、まさにこの異常なる
もはや何が何だかわけがわからなくなり、僕が思わずそうつぶやいた、その刹那。
「──いいえ、これは現実よ。少なくとも、
そんなあまりにも聞き覚えのあり過ぎる幼い少女の声が唐突に真後ろから聞こえてくるとともに、すぐ目の前の水面にまたもや棺桶が一つ浮かび上がってきた。
「──! りん⁉」
そう。そこに横たわっていたのは、周囲の女性たち同様に僕の勤めている学園の中等部の制服をまとった、自称僕の妹のりんその人であったのだ。
「いや、違う。本当はこの子は僕の妹なんかじゃなかったんだ。こうして他の昏睡者と同じように胡蝶の森女学園の制服を着ていることからして、僕の受け持ちのクラスの生徒──それも、唯一の空席の
そう言いつつ、先ほど声が聞こえたほうへと振り返れば、そこには純白のワンピースを華奢で小柄な肢体にまとった日本人形そのままの端整な小顔の少女が、僕同様に湖水に足下を浸からせてたたずんでいた。
目の前の棺桶の中の少女とまったく同一の黒水晶の瞳に、蠱惑の笑みを浮かべながら。
「ええ、御名答。さすがは私のお兄ちゃん♡」
けして物言わぬはずの鮮血のごとき深紅の唇から紡がれる、涼やかな声音。
それはネット越しに散々聞いてきた、かの夢魔を名乗る少女の声そのものだった。
「やめろ! 何がお兄ちゃんだ、僕には妹なんていない! 確かに、りん──
もはや我を忘れて矢継ぎ早に責め立てるばかりの成年男性であったが、幼い少女のほうは微塵も動じることはなかった。
「……まったく、失礼しちゃうわね。確かにそっちの『私』はあなたの受け持ちのクラスの生徒であるけれど、私だってれっきとしたあなたの妹なのよ? ──あくまでもこの世界こそが現実であるとしたら、だけどね。なぜなら何が夢か現実かは、相対的なものでしかないのだから」
「はあ?」
「やれやれ。この前ちゃんと言っておいたでしょう? もし仮に平行世界が現実的に存在し得るとしたら、そのすべては多元的な夢の世界でしかあり得ず、しかもここで言う『世界』の中には私たちの現実世界も含まれるのであって、まさにすべての平行世界が夢かも知れないし現実かも知れないという二重性を常に有しているのであり、それぞれの世界の中に存在している者の視点に立てば、自分の存在している世界以外はすべて夢のようなものになるのであって、すなわちまさに世界というものが夢なのか現実なのかは相対的なものに過ぎず、現に私が存在しているこの世界では私は間違いなくあなたの妹であることが現実なのであり、そっちの『私』が存在している世界ではあなたの生徒であることが現実だというだけのことなの。それでどうして別々の世界の『私』がこうして二人同時に存在しているかというと、さっきも言ったように実はこの湖が現実と夢との交わる場所──言うなれば現実とか夢とかにかかわらず文字通りすべての『無限に存在し得る別の可能性の世界』たる多世界が交差する場所だからで、例外的に他の世界の『私』や昏睡者たちが
なっ。同一人物でありながら、世界によっては僕の妹になったり、また別の世界では受け持ちの生徒になったりするだと?
……それに昏睡者たちの
「いやいや、確かに何だか記憶があやふやなんだけど、あくまでもこの世界限定としても、僕には妹なんかいなかったし、『麟』というのは生徒のはずだぞ?」
「いいえ。こうして夢か現実かを問わずすべての世界が交わっている状態──量子論で言うところの『重ね合わせ』状態にあるゆえに、あなたの意識も他の世界の『あなた』の意識と入り混じってしまっているだけなの。言うなれば現在のこの湖こそ、かのスイスが誇る高名なる心理学者カール=グスタフ=ユングの唱えた、個々人の精神の最深層において存在しているという、あらゆる世界のあらゆる存在の無意識が繋がり合った超自我的領域たる、いわゆる『集合的無意識』を具象化したようなものなのよ。何せその者にとっての『世界』に対する認識とは、脳内において自覚的か無自覚的かにかかわらず蓄積されている『記憶』そのものとも言え、あらゆる世界のあらゆる存在の無意識──すなわち無自覚的なものを含む記憶がすべて集まってきている集合的無意識においてはまさしく、量子論で言うところのこの現実世界を含む無限の可能性の世界たる『多世界』のすべてが──現実的に言えば多元的な夢の世界のすべてが存在しているようなものなのですからね。よってこの湖においては、あなたの意識が『別の可能性の世界のあなた』の意識と混じり合ってしまうのも仕方ないことなんだけど、それでもあくまでもあなたはこの『永遠の夏休みの世界』に専属している登場人物なのであり、そして私は間違いなくあなたの妹の『りん』なの」
はあ? この目の前の湖が今や、量子論で言うところの多世界であり、心理学で言うところの集合的無意識になってしまっていて、僕の意識が『
しかも言うに事欠いて、いきなりメタっぽいことまで言い出したりして。
「な、何が『永遠の夏休みの世界』だ、『登場人物』だ⁉ わけのわからないことばかり言いやがって! ──もういい! とにかくこっちの『おまえ』をたたき起こしてやる!」
そう言って僕が目の前の水面に漂っている棺桶の中の少女の華奢な肩を揺すって起こそうとした、まさにその時。
「駄目え! それだけは駄目よ! お願い、やめて!」
何とこれまでは余裕綽々だった白いワンピース姿の少女が、血相を変えて僕につかみかかってきたのであった。
「──うわっ。何だ何だ、いきなり慌てふためきやがって⁉ ……ははーん。やはりこっちの『おまえ』を起こしたら、よほど都合の悪いことがあるんだな? ようし、今すぐ起こしちゃる」
「だから、駄目だって言っているでしょう! 消えてしまってもいいの⁉」
「へ? 消えるって、何が?」
「何もかも、すべてよ!」
「すべてって……」
「この世界を始めとしてすべての平行世界がその中に存在している森羅万象を一切合切含めて、全部消えてしまうって言っているの!」
「なっ⁉」
そしてその自称『僕の妹』は、本日最大の爆弾発言を投下した。
「──そう。実はその『私』こそは本当は夢魔なんかではなく、あらゆる世界を夢として見ながら眠り続けているととも言われている、中国の伝承上の神様、『
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