第1話

「──あきらさん、今日はクッキーを焼いてみたの。どうぞ、召し上がってみてくださいな」


 私がノックをするのももどかしくドアを開けるとともにそう言うや、ベッドの上で上半身だけを起こしていた眉目秀麗ながらも異様に痩せ細った青年が、戸惑いがちな笑みを浮かべながら振り向いた。


「そ、それは、ありがとう。──ええと、ところで君は……」

「もう! よ、未来、明日奈あすな未来よ。いい加減ちゃんと覚えてちょうだい。これでいったい何度目よ?」

「す、すまない!」

 私が冗談半分にいかにも恨めしそうに睨みつけるや、そのとたんベッドの上で縮こまってしまう青年。

 そんな愛しい男性ひとのいじましい姿を見せつけられては我慢することなぞできず、私は態度を一変させるや、彼の首っ玉に飛びつくようにして抱きついた。

「……未来、さん?」

「ああ、冗談よ、冗談。何せあなたは、なのですからね。恋人の私のことを名前すらも忘れていたって、しかたないわ。──でも大丈夫。私たちがこれまでどんなに愛し合ってきたか、私が必ず何から何まで全部、思い出させてあげますからね」

 そのように耳元で優しくささやきかけるや、美しく整った白皙のかんばせが、真っ赤に染め上げられた。

「……申し訳ない。記憶喪失でしかも身よりの無い僕に、こんなにも何から何まで親切にしてくれて。──未来さん、君が僕の恋人でいてくれて、本当によかったよ」

「まあ、未来だなんて。恋人同士だというのに、他人行儀な。どうぞ私のことは、未来と呼んでちょうだい」

「ああ、……み、未来」

「うふっ。晃さあん♡」

 そしてどちらからともなく、私たちは口づけを交わした。

 ──幸せだった。

 そう。私は幸せなの。


 だってこれは過去の事実をまでして手に入れた、私たち二人だけの世界なのだから。


 その時私は晃さんと抱き合ってベッドへと倒れ込みながら、ほんの一瞬だけサイドテーブルの上に置かれている、愛用のコバルトブルーのスマートフォンへと視線を向けた。


 ──『ナイトメア』という名の悪魔から与えられた、この世界を現在過去未来にわたって意のままにできる、神をも畏れぬ絶大なる力を秘めた、魔法のスマホを。


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 私の恋人のあきらは、かつて一度


 突然最愛の人を失い一人残されてしまった私は深い悲しみに暮れ、涙が枯れ果てるまで泣き通した。

 もちろんいくら泣こうがわめこうが、一度死んでしまった者が還ってくることなぞ、けしてあり得るはずがなかった。

 ──ただしそれは、もしもこの世界が超常的な出来事なぞ絶対に起こり得ない、いわゆる『完全なる現実世界』であった場合の話であるが。


 だがしかし現在私たちが存在しているのは、『ナイトメア』という名の絶大なる異能の力を有する超常の存在に支配されている、言うなれば『SF小説的世界』であったのだ。


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 実は世界というものには、大きく分けて二通りの種類があるのだ。


 一つは、「タイムトラベルや平行世界などという非現実的なものなぞ、けして存在しない」とする、いわゆる『完全なる現実世界』であり、もう一つは、「ひょっとしたらタイムトラベルはいつの日か実現するかも知れないし、平行世界だって人知れず本当に存在しているかも知れない」とする、言うなれば『的世界』である。

 それでは、我々が現在存在しているこの世界は、完全なる現実世界なのかというと、さにあらず。


 実は何と紛う方なく、SF小説的世界なのである。


『小説的世界』と言っても、別にメタ的な存在というわけではない。むしろこれは物理学を始めとする科学的には、至極当たり前な世界に過ぎないのだ。

 例えばほんの数十年前までは、月へ人間が赴くことはもちろんのこと、誰もが小型のコンピュータを携帯し一瞬で世界中の人々とアクセスできることなぞ、SF小説の中だけの夢物語でしかなかったろうが、何と現在においてはれっきとした現実の出来事なのである。

 このことからもわかるように、言うなればこの現実世界においては常に、SF小説的な出来事が現実化する可能性が秘められているわけなのだ。


 ──だから、私たちがまさに今この時存在しているこの世界が、自らを『ナイトメア』などと名乗る謎の超常的存在によって密かに支配されていて、読心や未来予測はもちろんタイムトラベルや異世界転移や果ては世界そのものの改変に至るまで、あらゆる超常的現象が実現可能であろうとも、何らおかしくはないのである。


 もちろんナイトメア──すなわち俗に言う『』の類いなぞといったいかにも眉唾物の存在が、この国の歴史上において太古の昔からその実在を公然と認められていたわけではなかった。

 あくまでもいわゆる魔術的な存在として、一部の呪術者や秘密結社のみが密かに接触に成功し様々な異能を与えられて、歴史の裏舞台で暗躍したり逆に異形の存在を退治したりしていた等々と、伝承やおとぎ話の類いとして細々と伝えられていただけであったのだ。

 このようにナイトメアとはいわゆる『都市伝説』的存在に過ぎなかったのであり、この我々の世界は表向きには『異能』の類いなぞ一切存在せず歴然として現実性リアリティを守り抜いていたのであるが、ここ最近になってインターネット網が急速に発展し電脳の世界という『もう一つの世界』が万人に認識され、『理論上れっきとして存在し得る別の可能性の世界』──量子論で言うところの『多世界』の一つとして確固として位置付けられるや、状況が一変してしまったのである。

 それは今からほんの数年前の出来事であったのだが、何とインターネット上に突如『NIGHTMAREナイトメア』というサイトが現れ、そこに公開されている超難解なSF小説的なノベルゲームをクリアできれば、『MARE』と名乗る謎の管理人によって異能の力を与えられて、いかなる願いでも叶えられるようになると、まことしやかに噂されるようになったのだ。

 当然これぞ伝説の魔術的な存在たるナイトメアがネットを介してついに我々人類に大っぴらに接触してきたのだという見解を示す者もいたが、ほとんどの人たちは単にナイトメアを騙る愉快犯の所業であるに違いないし、異能を与えられて望みを叶えられたというのもネット界隈にありがちなデマの類いに過ぎないと見なしていたのである。

 だがしかし、ナイトメアに異能を与えられたと自称する本来はただのSFマニアに過ぎなかった者たちが、実際に異能の力を行使して様々な超常なる騒動を起こすようになってからは、もはや誰もが認めざるを得ない公然たる事実と化してしまったのだ。


 そう。その瞬間私たちの世界は『完全なる現実世界』から、常にどのような超常現象でも起こり得る可能性を秘めている、いわゆる『SF小説的世界』へとなり変わってしまったのである。


 とはいえ、実際に人々に異能が与えられることによってSF小説そのままの騒動が起こるようになったと言っても、文字通りにSF小説やライトノベルのように物理法則を無視した『何でもアリ』な、現実性リアリティが完全に崩壊した世の中になってしまったわけではなかった。

 例えば読心能力や未来予測能力等の超常の力をもたらされたと言っても、あくまでもそれはそれぞれのSFマニアが所有するスマートフォンにおいて利用できる、少々風変わりながらも現実的に十分あり得る特殊機能としてであったのだ。

 というのもそれらの読心や未来予測等の各種特殊能力は、けしてSF小説等に見られるような唯一絶対の解答をもたらすものではなく、あたかもいわゆるギャルゲ等のゲームの選択肢画面そのままに、実現可能性に応じて上位四つほどの候補がリスト表示されることになっており、スマホの持ち主はそれらをあくまでも参考データにして、自分の願いを叶えるために何らかの超常的行動を行っていく際に役立てていくことになっていた。

 つまりは、ナイトメアなどと名乗る全知全能の存在が現れたと言っても、あくまでもそれはネット上限定の話であり、超能力が使えるようになったと言っても、個々人のスマホにおいてのみなのであり、我々のこの世界の現実性リアリティは微塵も損なわれてはいないのだ。

 ところで、何ゆえ私が本来なら『謎の存在』であるはずのナイトメアについて、これほどまでに詳しいのかというと、元々私自身も幼い頃より生粋のSF小説愛好家だったこともあり、それが高じて現在はプロのSF小説家ともなっていて、こういったSF小説的な都市伝説には目がなく、その動向を完全に把握すべくネット界隈を中心にして常に情報を収集しているからでもあるが、それに付け加えて実はナイトメアから異能を与えられた個々のSFマニアによる文字通りSF小説そのままの超常的騒動の一部始終が、ネット上の人気小説創作サイトである『SFしょうせつこう!』において、『白日夢デイドリーム』というタイトルの小説としてしたためられて無料で公開されていたことこそが主要な理由であった。

 このネット小説はいわゆる短編連作型小説として、基本的日常編であるまさに当の『白日夢デイドリーム』の作者自身とナイトメアとの関わり合いを描いている【ステージ1】を始めとして、現在すでに【ステージ30】辺りまでがネット上に公開されているのであるが、なぜだか【ステージ2】と【ステージ3】と【ステージ4】だけは欠番となっていた。

 ただしナイトメアから異能を与えられた者たちが超常なる騒動を起こすようになったと言っても、あくまでもそれは例外中の例外の話でしかなく、これまで課題ゲームのクリアを果たした者たちは一人残らずいわゆる『筋金入り』のSFマニアばかりだったのであり、逆に言えばそのように特殊な嗜好を持つ者ではない限りクリアできないほど、難解極まるゲームであったわけなのである。

 それでもかく言う私自身においても、見事にクリアを果たすことができたのであり、ある異能をナイトメアから授かるのに成功したのであった。

 なぜなら私には、どうしても叶えたい願いがあったからだ。


 そう。自殺してしまった最愛の恋人を甦らせて、再び自分の許へと取り戻すという、この上なき悲願が。


 実はどんなに難解なノベルゲームであろうともSF小説の類いであるならば、SF的事象イベントや量子論を始めとする現代物理学に明るいプロのSF小説家や筋金入りのSFマニアであったら、SF小説ならではの『お約束パターン』というものを把握しているゆえに、クリアするに当たっては一般の者よりも遥かに大きなアドバンテージがあったのだ。

 しかしその一方で、自分自身SF小説家だからこそ──それも主に過去改変を扱った作品を創っているからこそ、私はすでに亡くなっている者を生き返らせるといった過去の出来事の改変はもちろん、過去へのタイムトラベルの実行そのものが、この現実世界においては物理的にも論理的にもけして実現不可能であることを、骨身に染みて知っていたのであった。

 このことについて順を追って詳しく説明すれば、まず物理的理由としては何と言っても、『質量保存の法則』と『一つの場所に複数の物質は同時に存在し得ない』が挙げられよう。

 質量保存の法則とは、一概に『氷が溶けた』と言っても本当に消えてなくなったわけではなく、液体や気体となって存在し続けているように、この自然界においては物質が質量的に消滅することはないという法則のことなのであり、その結果SF小説等において、例えば西暦2300年の未来から現代にタイムトラベルした場合、当然のごとく未来においてはいきなりが丸ごと物理的に跡形もなく消え去ってしまうことになるわけで、質量保存の法則と矛盾してしまうことになるのだ。

 これは現代世界への到着時も同様で、何せこの世界には『一つの場所に複数の物質は同時に存在し得ない』という物理法則もあるのだからして、地上においてはどんな場所でも少なくとも空気が存在していることを鑑みれば、SF小説等でお馴染みの『瞬間移動』などといったものはけして為し得ないことになり、その結果当然のごとく他の時代から現代へと突然やってくるという『時代を超えた瞬間移動』であるタイムトラベルに関しても、完全に実現不可能になるといった次第であった。

 続いて論理的理由であるが、これは言わずと知れた『タイムトラベルにおけるタイムパラドックスの存在』の一言に尽きよう。

 中でも特に「タイムトラベラーが自分がまだ生まれていない過去へ行って自分の父親を殺すことができるか?」という問題が最も有名だが、答え自体は非常に簡単明瞭で、「そんなことはけしてできない」のであり、すなわち当然の結果として、「タイムトラベルによる過去の改変なぞ論理的に実現不可能」という結論に至ることになるのであった。

 事実『いかなる異能でも実現可能』と豪語しているナイトメアにおいてもすでに述べたように、課題テストをクリアした個々のSFマニアに対して与える異能はすべて、基本的にスマホ上で使用することを前提にしたあくまでもに限られていて、つまりは読心能力や未来予測能力等のいわゆるシミュレーション系の異能が関の山といったところであろうし、タイムトラベルや異世界転移等の多世界解釈量子論で言うところの多世界転移系の異能や過去の改変等の、まさしく『世界そのものを移動したりつくり換えたりする』といった神をも畏れぬ所業なぞ、とてもじゃないが実現不可能かと思われた。

 ──しかしそれでも私は、一縷の望みを託していたのだ。

 もしかしたら自ら万能であることを標榜しているナイトメアなら、物理的かつ論理的に完全に否定されていようが、文字通り不可能を可能にして、過去の改変すらもなし得て、私の唯一絶対の願いを叶えてくれるのではないかと。


 そう。愛するあの人を甦らせることだって、きっとできるはずだと。


 だからこそ私はそのわずかな希望にすがって、『NIGHTMARE』サイト上の課題ゲームへと、果敢に挑んでいったのだ。

 途中何度もクリアすべき課題の多さとこの上ない難解さに、思わず音を上げ心が折れそうになったものの、必死に歯を食いしばって取り組み続けて、どうにかこうにか一つ一つクリアしていったのである。


 そしてついにすべての課題のクリアを果たしたその瞬間、スマホから軽快なファンファーレが鳴りだすと同時に、自らをナイトメアの端末エージェントだと名乗る、涼やかなる幼い女の子の声が聞こえてきたのであった。

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