豊葦原の旅の話

佐倉 杏

第1話 鬼が出る山

 蒸し暑い山の中、小さな男の子が半べそをかきながら歩き回っていた。周囲に両親や乳母やと思しき人影はない。


 男の子は長いこと、山の中を歩き続けていた。裸足の足は豆だらけ。足元の新緑に男の子の薄い皮膚は耐えきれず、あちこちに小さな傷ができていた。傷はとうに乾ききり、血が流れることはなかったが、見ていて痛々しいことこの上ない。

 息は切れ、くたびれ果てて、とうとう男の子はしゃがみ込んでしまった。ぐすっと鼻をすする声が響く。


「どうしたんだい?」


 その時、男の子の背後から声がかかった。男の子は、はっとして声の方を振り向く。つい先ほどまでは誰もいなかったはずのその場所には、旅人だろうか、若い男が立っていた。


 旅人は整った顔を優しげにこちらに向けている。着痩せするのか、青い着物をまとった体は男の割にはほっそりとしていた。荷物といえば、たいして大きくもない風呂敷一つと、腰につけた脇差だけだ。


 山歩きには向かないのではと思うような上等な着物を身につけた旅人は、着物の裾が汚れることなど御構い無しにその場にしゃがみ込んだ。


「とと様や、かか様は一緒じゃあないのかい?」


 その言葉に、男の子はじんわりと涙を浮かべた。今にも泣き出しそうになる。


「はて、迷子になっちゃったのかな」


 旅人のそんな声を聞いて、男の子はきっ、と男を睨みつけた。


「我は、迷子なんかじゃない!」

「おや。じゃあ、どうしたんだい?」


 男の子は困ったように眉をハの字にすると、なんといったら伝わるのかと悩み始めた。そして何かを期待するように、ちらちらと旅人の方を見る。


「我は、その、うーんと……。

 行きたいところがあるんだけれど、我一人では、行っても意味がなくて……。だから、誰か一緒に来て欲しいんだけれど……」

「それは困ったねえ」


 旅人は大して困っていなさそうに、のんびりとそんなことを言う。寸の間だけ視線をふらふらさせると、やがてぽんと手を打った。


「よし、私がお前さんを、そこまで連れて行ってあげよう」


 男の子は、目を輝かせて男を見上げた。掠れる声で「ほんとうに?」と聞く。


「ああ、ほんとうだとも。

 私はミツキ。お前さんの名前は、なんていうんだい?」

「我の名前は、タツ」


 タツは差し出されたミツキの手を、きゅっと握った。





 タツはミツキの前をひょこひょこと歩く。一人ではないということが、驚くほどにタツに力を与えた。先ほどまでの疲れが嘘のようだ。飛ぶように木々をすり抜けながら、タツはぐんぐん進んでいく。


「おおい、タツ」


 少し遠くから、ミツキの声が聞こえた。怪訝に思って立ち止まると、離れた草陰の間から、ミツキが顔を出した。なぜだか真後ろではなくて、少し右手にある草陰だ。


「タツは足が速いね。悪いんだけど、少しゆっくり歩いておくれ」

 情けなさそうに頭をかきながらミツキが言う。


「ミツキ兄ちゃん、どうして我の後ろじゃなくて、そっちにいるんだ? もしかして迷ったの? 我の後をついてくるだけなのに」


 呆れ果てたようなタツの声に、ミツキは憤るでもなく笑っている。照れ臭そうに頭を掻くその姿は、どこまでも頼りなかった。


 タツとミツキは、それからしばらく山中を歩いた。時折ミツキは道を外れ、恥ずかしそうに笑いながら戻ってきた。それを何度か繰り返した後、タツの耳に轟々と流れる水音が聞こえてきた。その音は後ろのミツキにも届いたらしい。


「川の音?」

 タツは頷いた。

「大丈夫。渡れるよ。

 我はよくここに来るけど、服が濡れたことだってないもの」


 タツは構わず進み、川岸までやってきた。川は大地を削りながら、すごい勢いで流れ去っていく。あちこちに苔むした石が露出しており、飛び石は向こう岸まで続いていた。

 ここまで近づくと、もはや水の音は耳よりも心臓に直接響いてくるようだった。重低音が織りなす和音が、川の流れの凄まじさを物語っている。


 タツはひょいと飛び上がると、石の上をぽんぽんと進んでいく。


「タツーっ!」


 気分良く進んでいると、ミツキが大声で叫んできて、危うく転びそうになった。文句の一つでも言ってやろうと振り返ると、驚いたことにミツキは一つめの飛び石に挑戦することさえなく、まだ元いた側の岸にいた。


「なにやってんだよ、ミツキ兄ちゃん。早く!」

「ごめんよ、私は橋を見つけて渡ることにするよ。少しそこで待っていておくれ」

「ミツキ兄ちゃん、本当に運動できないんだなあ。

 ……仕方ないなあ。あっちに橋があるから、まわってくれよ。我はここで待っているから」


 ミツキは分かったというように手を振ると、くるりと方向転換をして橋の方へ向かった。さて、ミツキが来るまで、少しばかり時がある。タツは退屈なので、地面に絵でも描いていようかと、木の枝を拾おうとした。しかしその時、妙な感覚がして、タツはつい木の枝から手を離してしまった。


 まるで熱いものに触れた時のような、とっさの反応だった。しかし当然、木の枝が触れぬほどの熱を発しているわけもない。タツは不思議そうに落ちた木の枝と自分の手を見比べた。


「どうかした?」


 気づけば、もうミツキがタツに追いついていた。足が速いんだか遅いんだか、いまいち掴めない。


「なんでもない。行こう。もうすぐだ」

 




 やがてタツとミツキは、可愛らしい花が咲き乱れる花畑にたどり着いた。そこには穏やかな日差しが差し込み、風は木々に邪魔されて、柔らかく流れるようだ。決して広くないその花畑は、息を飲むほど綺麗だった。


「わあ、すごいね」

 ミツキが言った。タツは得意げに胸をそらした。


「そうだろう。我はよくここに来るんだ。かか様の好きな花が、咲いてるから」

「へえ、どの花がお好きなの?」

「あれだ」


 タツが指差したのは、花畑を賑やかす花ではなかった。その向こう、崖の中腹に咲く薄紫の小さな花。


「我はどうしても、あの花が欲しかった。でも、我の背丈では届かない。

 だから、ミツキの兄ちゃん、我の代わりにあの花を取っておくれ」

「もちろん、いいとも」


 しかしミツキが手を伸ばしても、花のところには手が届かない。その時、不思議なことが起こった。不意に崖がぽろりと崩れたのだ。薄紫の花を根ごと取り外すように、そこだけが落ちてきた。


 ミツキは「おっと」と言いながらそれを受け止めると、タツにそれを差し出した。


「兄ちゃん、ものすごく運がいいんだな」


 タツは戸惑いながらも、ミツキから花を受け取ろうとする。しかし。


「あつっ」


 またしても不可解な感覚がして、花から手を離してしまった。花はぽとりと地面に落ちる。


「……ああ、やっぱり触れないか」


 ミツキが何やら訳知り顔で言う。ひょいとかがみこんで花を拾うと、そのあたりの地面を調べ始めた。


「お、おい。兄ちゃん……?」


 戸惑うタツに見向きもせずに、ミツキは地面を調べ続ける。それを見ていると、何やらゾクゾクするような、怖いような嬉しいような、不思議な気持ちになった。なんとも形容しがたい気持ちでいるタツは、やがてその気持ちの正体を知った。いや、思い出した。


「それ……骨?」


 ミツキが花をかき分けて見つけたのは、人間の子供の頭蓋骨だった。もう死んでからずいぶん時間が経っているのに違いない。人間がいったいどれほどで白骨化するのかは知らないが、数日でなるものではないだろう。

 骨の窪んだ眼窩からは、白い花が一輪咲いていた。ひび割れた後頭部の骨を縫うように、陽の光を求めて伸びてきたらしい。


 ミツキがさらに調べると、頭だけでなく体の骨も、まるまる子供一人分だけ見つかった。ぼろぼろになった古着も同じ場所から見つかる。その柄は、タツにはよく見覚えのあるものだった。


「かか様のところには、きちんと連れて行くよ。もちろん、この花も一緒に。

 ……だから、安心してお行き」


 木の枝にも、花にも触れることができなかったタツの小さな手を握って、ミツキが優しく目を細めた。それを見た途端、タツはふっと体の力を抜いた。

 タツの体が、淡く暖かい光に包まれていく。何色とも呼べないそれは、しゃぼんのようにタツを包み込むと、タツの体もその泡と同化して、緩やかに天へと登っていく。


 ミツキは天を眺め、タツがきちんと成仏していくのを、実に穏やかな目で見送っていた。





「そうですか、あの子は成仏しましたか」


 ミツキはタツの生まれた村に戻ると、村長の家を訪れた。村で一番大きな家だが、その作りは実に適当で、あちこちから隙間風が吹いてくる。この季節はそれでもいいだろうが、冬はきっと辛いだろう。


 真新しい畳と煙を上げる線香の匂いが、ミツキの鼻を刺激した。死者は、線香の霞を食うという。成仏したばかりのタツが腹を空かせないように、線香の煙を捧げたのだろう。


 ミツキの前で正座した村長は、縁側の向こうの雲ひとつない青空を見上げ、タツを想うように目を細めた。


「タツは、私の兄の友人でしてね。かわいそうに、たった五つの時に死んでしまった」


 タツの母は生まれつき体が弱く、タツを産んでからは、それに拍車がかかったらしい。いつも布団で横になり、辛そうに咳をしていたという。タツは母を憐れみ、見舞いの花を母に贈っていた。

 しかしあるとき、いつまでたってもタツは山から帰ってこなかった。母は失意のあまり意識を失い、息子の後を追うようにして、そのまま目を覚ますことはなかった。優しい親子に起きた悲劇に、村中が悲しみにくれた。


 そしてその日を境に、山には鬼が出るようになった。


 鬼は五つほどの子供の姿をしており、旅人を惑わすのだという。危険な山道を子供がひょいひょいと進むものだから、旅人が油断してついていくと、崖に足を取られ、あるいは激流に飲み込まれ、そのまま帰らぬ人となった。

 なんとか一命をとりとめた旅人が、恐怖に震えながら「あの山には鬼が住む」と言いだして、噂を聞いた旅人たちは山に入ることをやめた。鬼子のことはいつしか忘れられ、とうとう五十年もの月日が流れた。


 タツの魂はもう救われることはないのかと、半ば諦めていたところに、ミツキと名乗る旅人が村を訪れた。


「鬼の子供がいるのですか」


 事情を聞いたミツキは驚きに目を皿のようにしたあと、迷うことなく鬼子を救うと約束してくれた。これには事情を話した村長たちの方が慌てた。危険であることを、何度も念押しする。


「大丈夫。こう見えても、私はとても強いのですよ」


 荒事などとは無縁そうな、ほっそりとした体つきのミツキの言葉に、村長たちは半信半疑ながらも頭を下げた。もしや犠牲者を増やしただけではないかと、気が気ではなかったのだが、やがてミツキが無傷で村へと帰ってきた。


「あなたには、なんとお礼を申し上げればよいか」


 畳に両の手をついて、深々と感謝の言葉を述べる村長に、ミツキは笑って手を振ると、気にしないでくれと言う。


「その代わり、ひとつお願いが」

「何でしょう」


 ミツキは背負っていた風呂敷を村長の前に置くと、するすると解いた。中から現れたのは、子供の骨だった。


「これを、タツの母君と同じ場所に、埋めてもらえませんか」


 村長は息を飲んだ。ミツキは続ける。


「それから、この花も。この花は根が付いていて、まだ生きています。きちんと世話をすれば、きっと一面に咲き誇るでしょう。タツと母君の墓に、植えてあげてください」


 村長は唇を噛み締め、タツの遺骨を受け取った。


「ありがとうございます……」


 涙をにじませながら礼を言う村長に、ミツキは微笑みを返した。線香の香りが村長の想いを乗せ、天高く登っていく。

 ミツキは死んだことがなかったから、死後の世界がどのようなものなのか、知るはずもない。しかしその表情は、タツの元に村長の祈りが届いたのだと信じているように、満たされた様子であった。

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