第三節 アイアス

第31話 アイアス――人形でしかない自分

「今日は食事、ありがとうね、フェリィ」

「ど、どういたしまして」


 少し頬を引きつらせながらのフェリィに見送られ、クルースニク邸をマリーとアイアスは後にする。


「はー……、今日はいい日だったわ」


 そう言って、街灯に照らされる石畳を歩く。


「おいしかった」


 アイアスも、満足感と共にそう呟く。

 しばらく通りの華やかに飾り付けされた店店を眺めながら歩いたところで、ポン、とマリーが手を打つ。


「あ、そうだ、家の小麦粉とかが切れてたの、忘れてたや。ごめん、私、お店に寄っていくから、アイアスは先に帰っといてよ」


 それが、近頃魔術を習うため、日々忙しそうにしている自らへの気遣いだとわかったから、アイアスは素直に「わかった」とうなずいた。

 明るい店内へとドアをくぐり入っていくマリーを見送ったあと、アイアスは一路マリーとシュヴェスタの自宅であり、自分が居候している場所でもある、サンキューさんの菓子店、フランボワーズへと歩き始めた。


 数十分後。


「……」


 彼は、迷っていた。


 ヴェネトはただでさえ大通りの隙間を小さな道が縦横無尽、至るところに走っている町だ。そんな事情に加えて、始めて行ったフェリィの家からの帰り道、という条件がつけば、迷わない方が難しいというものだろう。


 微かに見える時計塔の遠景から、方角に見当をつけ、見知らぬ道を歩く。

 初めての道は、時間感覚を狂わせる。今、どれくらい歩いただろうか。

 十分? 一時間? それとももっと? ずいぶん歩いたような気もするし、歩いていないような気もした。

 そうしていると、ここがどこだかわからなくなっていって。まるで自分が自分でなくなるような、そんな感覚すら感じる。


 そのまま、どれくらい当てもなく歩いただろう。

背後に気配を感じたアイアスがバッと振り向くのと、腕を締め上げられ、壁に押し付けられたのはほぼ同時だった。


「何……者……っ!」


 頬が壁に潰されているのと、極められた腕の痛みが、アイアスを苦しめる。それでも、なんとか掠れた声を絞り出す。


「……飛行機で会った、といえば、すぐわかるかい? それとも、こう言った方が、驚いてくれるかねえ? あんたにイヌビアで仕事を依頼したクライアント、と言った方が!」


 ――っ!!


くぐもっていたけれど、その声は確かに飛行機ジャックの際に戦った、あの女の声に他ならなかった。そして、アイアスを驚かせたのは、彼女がイヌビアでナンバー1が言っていた、仕事のクライアントにあたる者であったということだった。


 心で驚いてはいたけれど、相変わらずそれが声に出ることはなく、いつも通りの声音で、尋ねる。


「……なん、の、用だ……」

「この状況で冷静たぁ、つまらない男だねえ。……何の用かって? え? わからないのかい? それとも、とぼけてるのか」

「……」

「はっ! だんまりかい。まぁいいさ。しっかし、あんたの腕も鈍ったもんだねえ。私相手に腕、極められて薄暗い路地裏で、壁とキスしてるなんて。……ねぇ、こうしていると思い出さないかい? あのイヌビアの空気を!」

「…………」


 その言葉を聞いても、アイアスは無言だった。

 それが、彼が喋ることができないからなのか、あえて無言なのか。側からは、わかるはずなどなかった。


「チッ……。お前の仲間だったあいつらは、今もあの街で、のこりカスみたいなもんを食らってるよ。……それに比べて、あんたはお屋敷でディナーたぁ、良い御身分になったもんだねえ!」

「……っ! そんなつもりは……」


 思わず、声が出ていた。


「あんたにそのつもりがあろうとなかろうと同じことさ。――でも、あんた自身はどうだい? あの頃と、全く変わっちゃいない。あんたの価値は、命令に従って命令を遂行すること、それ以外になんてありゃしない! そうだろう!?」

「……違う……っ!」


 小さな声で、否定する。


「違わないね! こんな街にきたところで、あんたの本質は、お人形以外になんてないんだよ! あんたに、人格なんてものは必要ない! 

 ――そして、あんた自身もそうでなくちゃ、

「…………違う! 俺は、俺は――っ!」


 今度は、もっと大きな声で。


「へぇ、そうかい。じゃあ、どう違うのか言ってみなよ? 今も、あのお譲ちゃんの操り人形じゃないって、そうあんたは自信をもって、言えるのかい? え?」

「俺、は…………」


 その質問に、なぜか、確信をもって答えることができなかった。


 アイアスには、わからなくなっていた。


 本当に、自分は人形なんかじゃないと、そう、言えるのだろうか?

 自分は、いつだってだれかの命令に従って動いてきた。

 マリーは確かに「もう、あなたは自由なんだから」と、自分にそう言った。

 けれど、それは自分自身が変わったわけでは、決してない。

 今、俺は自分でできるだけ考えて行動しているつもりだ。……でも、それがマリーが、「命令に従うな」と、そう言ったからだという保証が、一体どこにあるというのだろうか。


 俺が変わっていないなどと、一体どうしていうことが出来るのだろうか。


 俺は……、俺は――。


「ふふ……。ほうら、やっぱりあんたは、変わらないのさ! いいかい? まだ、命令は続いている。マリー・L・フライツェルクを、殺せ。……これは、命令だ」


 今のアイアスが、そのに、逆らえるはずなど、なかった。


「……………………は、い」

「ふふふ。いい子だね。作戦が終わったら、また、あんたに居場所をあげるよ。……この街は、生きづらいだろう?」


 バッという風切り音を残して、背後の女は消えていた。

 その後もしばらく、アイアスは路地裏に立ち尽くしていた。


 ……俺は、一体、どうすれば、いいのだろう。


 彼には、さっきまでわかっていた気がしていたことが、何も、わからなくなっていた……。

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