第32話 アイアス――いいよ、私を殺しても
小麦粉を買って帰ってきたマリーを迎えたのは、灯りの消えた無人の家だった。
シュヴェスタは昼間言っていたように、しばらく忙しいらしく、今日は家には帰らないのかもしれない。だから、あの人がいないのは、理解できた。
けれど、アイアスもいないのは解せなかった。
何かトラブルにあったのだろうか、と一瞬思ったものの、このヴェネトという街で魔術を悪用すれば、それはたちまち魔術師たちに知れ渡る。仮に魔術を用いず直接襲われたのだとしても、魔術を用いない戦いであれば、アイアスが後れを取ることなどそうそうないだろう。
だから、これは杞憂だ。
この胸の内で、ドクンドクンとうるさく鳴る心臓は、きっと、偽物だ。
フルフルと首を振って邪念を追い払い、洗面所で歯を磨く。脇目も振らずに寝室に向かい、バサリと仰向けに布団をかぶる。
電気を消した部屋には煌々と輝く月明かりが差し込んでいた。
雲がないのだろうか。今日はずいぶんと明るいな、とマリーは思った。
それは、余計なことを考えないようにと思った結果だったのかもしれないけれど、おかげでだんだんと意識が微睡んで、瞼が重くなっていく。
カタ……。
風が吹いた、気がした。
次の瞬間。
自分の上に何かが現れた気配に、驚いてパッと目を開く。
そこには、月明りに照らされたアイアスが、いた。
その手には、キラリと月光に光るもの。
包丁――。
その姿を見た瞬間、マリーの心の中には、どうしてアイアスが、という疑問があった。
けれど、それと同時に、もしかしたら、そうなる時が来るのかもしれないという予感が現実になってしまったんだな、という妙に冷静に客観視している自分もいて。
そして、自分がそんなことを思ってしまっていたのも悲しかったし、それが現実になってしまっているのも、悲しくて。
とにかく、本当にいろんな感情が、一緒くたになって渦巻いていた。
「アイ、アス……」
呼びかける。
しかし、反応はない。
覆いかぶさる彼の様子は、普段とは違い大きく口を開けて荒く呼吸をし、瞳の奥は月明りの元にあって、なお見通せないぐらい、暗く、濁っていた。
……手元が震えている気がするのは、気のせいだろうか。
それとも、揺れているのは、自らの視界、なのだろうか。
「……私を、殺しに来たの?」
自分でこんなことを聞くなんて。
もしかしたら、思っているよりも、心が落ち着いているのだろうか。
そんなことを考えたけれど、そんなことを考えている時点で、きっと平静でないことなんて明確で。
でも、きっと心のどこかでは、彼が自分のことを殺したいなんて思っていないと、そう、思いたくて。
思わず、確かめてしまったんだと、思う。
ぐちゃぐちゃな心とは裏腹な頭は、なんだか凪いだ夜の湖みたいだ。
「俺は――」
そこまで言うと、アイアスは、口を閉じる。
それはいつものような無表情ではなくて、どこか苦しそうで。額には汗が浮かんでいる。彼のその姿は、なぜか救いを求めているように見えた。
――だから。
ううん、だからなんかじゃない。
きっと、初めから。
虚無をまとった彼と、出会った、あの瞬間から。
私は、アイアスのことを――。
「……いいよ」
「……?」
「私を、殺しても」
その言葉に、アイアスは、瞳を大きく見開く。
「……確かにさ、私はアイアスに人を傷つけないでってお願いした。でも、いいよ。それは、お願いだから。アイアスが自分で考えて、こういう結論に至ったっていうなら、私はそれを、尊重する」
見開いた瞳が、泣きたいと叫ぶように、揺れる。
揺れた瞳に月が映る。
「……もちろん、すぐに殺されるつもりもないけど」
そんな彼に、敢えて、笑みを返す。
……笑えていたかは、少し自信はないけれど。
「……ねぇ、アイアスはどうしたいの?」
「俺は、俺は――」
また、苦しそうに、グッと噛みしめるように、口を閉じる。
「俺は……、マリーを、殺したく、ない……。でも、でも……、殺さないと、いけない……」
漏れ出た言葉は、心の叫びだった。
「……どうして?」
「……俺が、俺で、なくなるから」
「そう、かな」
「……そう、だよ」
そうでなきゃ、いけない。
だって、アイアスという人間は、そういう風に、定義されているのだから……。
「私は、そうは思わない!」
それは、強い否定。
「だって、私を殺したくないっていうアイアスは――」
そう言いながら、マリーはアイアスの手を払いのけ、彼を抱きしめながら、言った。
「ここに、いるじゃん……」
「ここに、いる…………」
抱きしめているから、彼の表情は見えなかったけれど。
けれど、マリーは彼の鼓動を感じていた。
ドクッ、ドクッ、と熱く、耳にうるさいほど脈打っていたそれは、だんだんと引いていき、気付けば夜に鳴く虫の声の方が大きくなっていた。
「今ここにいる君が、アイアスだよ」
カラン、と床に包丁が落ちて綺麗な澄んだ音を立てた。
それは、もしかしたら彼の中の硝子の虚像が壊れた音だったのかもしれない。
そのままどれくらい抱き合っていただろう。気付けば月はその位置を変えて、二人をくっきりと照らし出していた。
「……マリー」
気付けば虫の声すら聞こえなくなった静寂を破ったのは、アイアスの呼びかけだった。
彼は、その一音一音で、自らの場所を確かめるように、はっきりといった。
「……ありがとう」
それを聞いて、マリーはアイアスからそっと身を離しながら、にっこりと微笑んで、言った。
「どういたしまして」
示し合わせたわけでもないけれど、気付いたら二人で空を見上げていた。
月の光はどこまでも柔らかくて。すべてを洗い流すシャワーのように二人に降り注いでいた。
気付いたときには、隣にあったアイアスの手を握っていた。
彼の手は、こんな熱帯夜にあって、底知れないほど冷たかった。まるで闇のように、温度という概念が消失していたその手を、ぎゅっと握る。そのことに気づいた彼が、こちらをチラッと見たあと、おずおずとそれを握り返してくれた。
今だけは、この夜の暑さが心地よくて。
二人で空の中に溶け落ちて行くようだった。
だから、自分を見失わないように、ここにいるということを確かめるように、ずっと手をつないでいた。
いつしか空は白み始めて、街に喧騒が戻り始めていた。
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