第3話 邂逅――魔術師と、少年
生暖かい風に吹かれて転がっていく紙屑以外に動くもののない空間で、二人はにらみ合う。そして、無限にも思える数秒間の後、構えたまま動かなかったナンバー2と呼ばれた少年が、ついに口を開く。
「わかった」
短いけれど、確かな一言。
言った瞬間、銃器を捨て、地を蹴り、少年はマリーに肉薄する。
「っ!」
早い。
一気に懐に入られる。
いきなり、弱点を見抜かれた。
しかし、その時、マリーの顔に浮かんでいたのは、まぎれもない焦り……ではなかった。
そもそも、魔術師というものは近距離戦闘が苦手だ。もちろん全くできないわけではないものの、マリー自身はただの少女だ。ゆえに、純粋な武力というものを持ち合わせていない。
だが、彼女には策があった。
反撃の策が。
魔術を知り得ないこんな小さな少年には、防ぎようもない。
「風を纏え。全てを無に帰せ」
彼を倒したら何と言ってやろう。私をはめようとした罰だ、とでも言ってやろうか。いや、それともここは王道に、ざまあみろ! だろうか。
詠唱を行っているというのに、思わず笑みがこぼれそうになる。
しかし、その考えはすぐに儚く打ち砕かれた。
「いくぞ」
マリーに肉薄し、小さく飛びながら左手を前にし右手を大きく引き拳を構えた少年は、そう言うや、クッと指を引き、マリーの術式を、消し去った。
「えっ」
ありえない! 一体なにをしたっていうの!?
そう、心の中で叫ぶ。
形にならなかった
消えた、というよりも、霧散した、という表現が適切かもしれない。そんな現象だった。
敢えて言うとしたら、建物の土台の要石をつぶしたような……いや、消し去った? とにかく、その瞬間に、魔術式が消え去ったのだ。その時に何故か一瞬、彼の
けれど、そこまで考えたところで、ハッとする。目の前に、彼の拳が迫っている。
一瞬で血の気が引く。
――こんな場所で、終わってたまるか。
天才たるもの……策などなくても、躱すぐらいは、できる……っ!
瞬間、風を巻き起こし、体を相手の渾身の拳の軌道から逸らす。
ドン! という重い音とともに、その拳が地を穿つ。地面に軽くひびが入ったのを見て、うすら寒い思いを抱きながら、マリーはさらに一歩下がり少年と対峙する。
「……あなた、魔術が使えるの?」
地面から拳を離し、少年はゆらりと立ち上がる。その様は無防備なようでいてしかし隙がない。
「…………使えない」
「でも、知ってるのね」
その言葉に、少年は変わらぬ無表情を貫きながら、返す。
「うん」
「不思議だわ。キミ、魔術も知ってて、実力もあって……それなのにこんな場末の路地裏で、こんな連中の中でナンバー2なんて呼ばれてこき使われているのね……。……何か、理由でもあるわけ?」
それは、落ち着くための時間稼ぎでもあったけれど、それ以上に純粋な疑問だった。
……時計島で天才と呼ばれたマリー。それを、上回るかもしれない、魔術の資質が、もしかしたらこの少年には――。
「……理由なんて、ない。俺は、ただ、命令に従う。それだけ……。」
「さっきから命令、命令って……。じゃあ、キミ、私がボディーガードをしなさいって言ったら、してくれたりするの?」
「ああ」
「じゃあ、死ねって言ったら?」
「クライアントに、そう言われたなら」
「…………呆れた」
マリーは、いつの間にやらこの自分のことを襲ってきた少年のことが可哀想に思えてきていた。
あわよくば自分よりも
別に優しくしてやろうとか、そんなことを思っていたのではない。ただ、純粋に興味があった。つまりは、ただの気まぐれと、好奇心。けれど、この出会いが、二人の運命を大きく変えることになるなど、この時はまだ彼女は知らなかった。そう、この時は。
「……ねぇ、キミ、私についてこない?」
それは、本当にただの気まぐれ。
「それは、出来ない」
「どうして?」
「……今、俺は、お前を、殺さないといけない。殺したら、ついていけない」
「ふーん、そう……。でも、私は殺せないから、それは諦めなさい」
「それは、わからない」
「あーもう! じゃあわかったわ。私があなたに勝ったら、ついてきてもらう! 負けたら、キミは私を殺せる。これでいいでしょう!?」
そのあまりの暴論に、彼はしばらく押し黙っていたが、何か折り合いがついたのか、口を開く。
「………………わかった」
「よっし! 交渉成立ね! あ、そうだ。あんたこの辺詳しいんでしょ? 勝ったらついでにここに連れて行ってもらうから」
右手に住所の書かれた紙を掲げながら叫ぶマリーに心なしか不服そうな視線を向けながら、少年は重心を落とし戦闘の体勢をとる。
「そして――」
しかしそんな彼とは真逆に、マリーは一層脱力しながら、こう告げた。
「私の勝ちは、もう決まってる」
詠唱。
「静寂を空に刻め!」
ビシィ! と、そんな音とともに、少年の体が大の字に、何もない空間にはりつけにされる。
「
少年は逃れるために腕を動かそうとするが、その拘束はびくともしない。
「痛いからお腹に力入れなさいよ!」
そう言いながら、マリーは右拳を突き出す。
「風を纏え。全てを無に帰せ!
数メートル離れた少年のお腹に空気の拳が当たる……その直前。
「負けるわけには、いかない」
そう、小さく少年が呟き、再度力を込めようとしたその瞬間、パキッという乾いた音共に、少年の足と手を固定していた拘束が、解けた。
「えっ!?」
少年が地面に崩れ落ちたのを見て、事態が飲み込めず困惑するマリー。
「この魔素……まさか……」
一瞬。
一瞬、彼女は考えるそぶりを見せた。
それが、命とりだった。
いつの間に移動していたのだろう。彼女の背後で振りかぶる少年に。彼女が気づくのは、余りにも遅すぎた。
「しまっ……!」
「いくぞ」
遅すぎた。遅すぎたけれど。
「風を着込み! 我を包め! 傷すら入らぬ彫像となれ!」
その程度では、魔術師とただの少年との差は、埋められない。
「
ガンッという、まるで素手で鋼鉄を殴ったかのような、そんな音が鳴り響く。
「ふー。……言ったでしょう? 私の勝ちは、もう決まってる、って」
そして彼女は手を振り払いながら振り返る。そこには、変わらぬ無表情で右手を左手で押さえながら俯き片膝をつく少年。そんな彼に、腰に手を当て見下ろし、ニッコリと微笑みながらこう告げた。
「だから、ここに連れて行ってよね」
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