第2話 飼育ケースと床材
「あなたなんか、私にとってはどうでもいいんです」
あいつはいつも俺に言う。俺は木くず。主に木材の工場から廃棄される。ただのゴミだ。幸運にもゴミに役割を与えられることがある。今の俺は、昆虫の王様、カブトムシのベッドだ。
「へーへー、わかってるよ。お前は大事なカブトさまやクワガタさまをせいぜい逃がさないように頑張れよ」
「当たり前でしょ。ああ、もうそこ、乾いてますね。もっと濡らしてやってください」
あいつの呼びかけに応じて、冷たい水が俺を濡らす。霧吹きの仕業だ。ぷしゅ、ぴしゃ、と水が吹きかけられる。霧吹きはケージに何か言っているがプラの壁に隔てられた俺には聞こえない。あいつが笑って何か答えている。
「や、やめろよ……そこ、そんなに濡らさなくて……ひぃっ」
あいつは濡れて色を変えた俺を見てにやついている。奴は透明プラケージ、蓋の部分はツヤのない黒だ。
俺はあいつの大事な虫達を毎夜抱きしめて眠る。虫はもぞもぞ俺のなかに入り込んで、安心しきったみたいにしてくうくう気門から空気を出し入れする。起きたらきしきし言いながら交尾したり(その時は俺は見ないようにする)、ゼリーをちゅうちゅう舐めたりする。
そんなふうにして毎日、俺は虫たちを柔らかく受け止めている。そうするとあいつらも、俺になついてくる。ゴミであった俺が、虫達に慕われているような気になる。勘違いしそうになる。
まるで、俺に価値があるんじゃないかって……。
「まったく、木くずのくせに何をぼんやりしてるんです」
「お前なんかプラスティックのくせに!」
「はっ、クズが」
プラケージの声は、霧吹きの水より冷たく、俺を濡らす。
ある朝、目が覚めると、虫達がいなかった。
「カブトは!? クワガタは!?」
「死にましたよ」
ケージが淡々と俺に告げた。俺は愕然として乾ききってぼろぼろになった俺の中に、あいつらがいないか必死で探す。でもいない。
「本当に、みんな死んだのか……」
「よっぽど、あなたは居心地が悪かったんじゃないですか? それともカビでもわいているとか」
「あいつらはどうしたんだ!」
「もう外にやりましたよ。私の外に」
死骸ですからね、とケージは言った。あんなに大事にしていたのに、お前が守っていた虫たちだったのに、死んだからってこんなに冷淡な態度が取れるものなのか。
「俺も……俺も行く! 確かめなきゃ…あいつらが死んだなんて信じない!」
「行かせません。どうせあなたも、私の中で腐って腐って、最後には私と一緒に捨てられるんです。大事な虫も、飼育用品も、最後には忘れられ、捨てられるんですよ。夏休みの、思い出と一緒にね」
「お前は虫たちを愛してたんじゃなかったのか!」
俺とは違って、お前にはその資格があった。強くて、つるっとして、固くて、あいつらを守る力があったお前には。
「愛していましたよ。でも死ねば、終わりです」
俺はもとは木だった。森に生きて、生き物たちと触れ合った。でもお前は……石油製品だ。
だからなのか。だから、知らないのか。わかってくれないのか、この痛みを。
「うわあぁああああああああ!!」
俺は叫んだ。出してくれと、プラケージに、そして壁の向こうにいるはずの霧吹きに叫んだ。狂ったようにほこりを巻き上げる俺を、あいつは閉じこめたまま、透明の壁に囲まれた無音の世界に、いつしか俺はうなだれた。このまま本当に腐っていくしかないのか。また、役立たずの屑として。本当に失ったのか、やっと与えられた役割を。
狂乱が去っても、プラケージは変わらず俺を閉じこめていた。だが、俺の腐り始めた目には、なぜだか黒い網に、疲れと、慈しみのようなものが滲んでいるように見えた。
霧吹きとプラケージ、両者とも石油からなる彼ら。
石油は太古の――生き物たちの記憶を宿している。そう、それは木くずと変わらない。
プラケージの中では木くずが絶望に震えている。
それを見た霧吹きは、霧の細かさそのものの小さな声で、プラケージに囁いた。
「……お前の愛し方は冷たいよ、プラケージ。閉じこめて、逃がさないだけ。何も与えない」
「使い道の多さ故のおごりですか? 霧吹き。だったらあなたの愛し方は、与えるだけじゃないですか。与えるだけ与えて、相手を依存させる」
「お前だって用途はたくさんあるだろ。虫だけじゃない、亀を飼ったっていい、金魚を飼ったっていい」
「中身をそっくり入れ替えて? 木くずを捨てて私の中身を心をそっくり入れ替えて?」
「……! プラケージ、お前……」
「腐ればいいんです。私と木くずを引き離して、きれいにして再利用しようなんてこと思いつかなくなるくらい、あの子が腐りきればいいんです。もう、こりごりなんですよ。自分の中で命が消えていくのも、また新しい命を迎えるのも」
「そのために、俺に過剰な霧吹きを……」
「哀れな木くず。すぐに腐って自身も捨てられるというのに、愛することをやめない。愛することに疲れた私と、お似合いでしょう。さあ、木くずよ、腐りなさい、カビを繁殖させ、悪臭を放ち、誰もが私に触れることもできなくなるくらい。誰も、私たちを引き離せなくなるくらい、深い絶望をください」
生き物と、愛と、私たちの墓標の代わりに、とつぶやいて、プラケージは沈黙した。
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