しょーとしょーと

高梨 千加

雨と嘘(恋)

「はい、どうぞ」


 カフェで夢中になって本を読んでいたさちは、コトンと音がして、顔を上げた。

 目の前に生クリームを浮かべたカップが置かれている。


「あの、頼んでないです」

「うん。でも、ほら」


 この店の店長だという若い男性、石橋いしばしは窓の外を指さした。いつの間にか雨が降り出していた。


「雨」

「そう。お客さん、傘をもってないでしょ? もう少し飲んでいきなよ」


 彼はそう言うと、空になったカップの方を下げる。


「ありがとうございます」

「いえいえ」


 カップを持ってカウンターに戻る背中を見ながら、ドキドキしていた。

 話しかけられちゃった。嬉しい。

 でも……と幸は横の座席に置いた鞄に目をやった。

 いやいや、気にしない。


 幸は石橋の入れてくれたウインナーコーヒーを口にした。生クリームに砂糖が入っているのか、砂糖を入れなくてもほんのり甘い。

 土日が仕事休みの幸は、金曜日の夜に会社近くのカフェに寄るのがいつもの楽しみになっている。


 大通りから外れた小道に面した店は隠れ家的存在なのか、いつ来てもガランと空いている。これで店をやっていけるのか心配になるけど、石橋が言うにはランチはそこそこ混み合うそうだ。ランチは同僚の女性と一緒に食べるので、ここには来たことがなかった。他の女性に教えたくないのだ。


 幸は読みかけの本のページをめくる振りをしながら、カウンター内でカップを洗う石橋の姿を盗み見た。

 石橋の顔は整っていた。すっと通った高い鼻筋に意思の強そうな目、何かスポーツでもしているのか引き締まった体つき。


 幸はこのカフェに初めて来たときから石橋のことが気になっていた。でも、石橋にとってはただの客でしかない幸。デートに誘ったり告白する勇気はなく、見ているだけだった。

 だいたい、告白も何も、お店で見る彼しか知らなくて、本当は彼がどんな人かも知らない。そんな状態で好きと言えるのかは幸自身、疑問だった。彼のことをもっと知らなくては、恋となりうるのか判断ができない。

 ああ、もう。こんなこと考えても仕方ない。

 本に目を落とすと、続きを読み出した。



 本を読み終わり、閉じた。

 時間を確認する。

 やばっ。


「すみません、もう閉店時間過ぎてますね」


 幸は石橋に頭を下げると立ち上がり、伝票をレジに持って行った。


「うん。だけど、まだ雨が止んでないんだ」

「え?」


 ガラスの玄関ドアの向こうを見ると、確かにまだ降ったままだ。もしかしたら、さっきよりも雨脚は強くなっているかもしれない。


「本当だ。でも――」


 石橋は「ちょっと待ってて」と奥へ消えた。

 どうしたんだろう。

 すぐに戻ってきた石橋の手には黒い傘が握られていた。


「よかったらこれ、使って」

「でも、それじゃ店長さんが困るんじゃ……」

「俺はここの2階に住んでるから、とりあえずは大丈夫。雨の日にちょっと困るかもしれないから、できれば次の雨の日までに返しに来てくれると助かるかな」

「わかりました。ありがとうございます」


 お会計を済ますと、石橋に再度、頭を下げて店を出る。すぐに傘を広げた。

 暗い空に黒い花が咲いたみたいだな、と思いながら、傘をクルクル回す。雨が降ると憂鬱な気分になったりするものだけど、幸の心は軽かった。


 彼から傘を借りることができた。

 梅雨の今の時期、次の雨が明日になる可能性もある。今まで会社帰りにしか立ち寄ったことのなかったお店だけど、明日、お店にうかがう口実ができた。

 明日は晴れているといいな。

 次の雨が降る前に、彼に会いに行こう。


「彼には結局言い出せなかったけど……」


 幸は鞄から折りたたみ傘を取り出し、眺めた。


「ま、でも、時にはついていい嘘もあるよね」


 うん、とうなずくと折りたたみ傘を鞄に戻した。

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