第10話 セキュリティは先手を打たないとダメね(深く反省)、あるいは、琥珀色で芳醇な液体
「え、システムがクラックされたですって? それで、説明を、ですか?」
唐突に、あたしのところにもたらされたクレーム。
昨今、実店舗の書店が不調な中で、他ではあまり仕入れないような専門書を中心にした品ぞろえで差別化を図って成功している書籍の販売会社からだった。
時流に乗り、実店舗だけでなくECサイト、要するにオンライショッピングのサイトを開設するにあたって、その開発から運用まで一通りを弊社が請け負ったというわけ。
導入にはあたしも関わってるから、直接電話が掛かってくるのもまぁ、解るのよね。
因みに、そのプロジェクトのトップが販売部長の
なんというか、自分の地位を笠に着て人を見下すタイプ。高圧的で何かあればすぐに文句を言うので辟易とさせられてたんだけど、悪いことに、電話の相手はその房居部長だった。
どうやら、「不審なアクセスがあった」というメールが来たこと自体が許せないらしい。
システムの内容は全く理解していなくても販売部長という立場上、責任者になっている人だ。当然、警告メールの通知先に入っている。
だから、突然のよく解らないメールが届いて不信感を抱くのは解らないでもないんだけど。
でも、これは、外部からの想定外のアクセスを通知しているメールだ。
インターネットに公開している以上、不正アクセスを試みられる可能性は排除できない。だからこそ、不正アクセスをしようとされたことを通知して、被害がなくとも攻撃の予兆として知るための機能が、この警告メールだった。
だから、このメールは被害があったことを意味しない。むしろ、正常に警告が通知されるということは、セキュリティ機能が健全に機能していることを意味する。
そもそも、こういうクレームがこないように、このメールが侵入されたり被害を受けたことを通知するものではないってことは予防線としてシステム仕様書に明記してあるし、その仕様書の表紙には房居という判も押されて承認されている。
ま、いくら説明しても伝わらないところを見ると、その判は読まずに押されたものだったんでしょうけどね。それでも、判を押してくれるだけマシだったと思わないとやってられないわ。
それからも、言葉を重ねて電話口で説明したんだけど。
「不審なアクセスがあること自体、信じられない。クラックされた事実を隠蔽して仕様書に定めた問題ないというメールを送信しているんじゃないか」
という曲解にもほどがある論調で追求してくる。
そのうち、電話口ではラチが開かない。直接こちらへ来て説明しろと言い出した。それも、上を出せとかじゃなく、電話に出ているあたしをご指名で。
電話口と直接の会話で何か変わるかしら? とは思うんだけど、保守料金はしっかりいただいているから、無碍にはできない。
ま、仕方ないか。
今は比較的スケジュールに余裕があるし、メールが問題ないことを解ってもらうだけの簡単なお仕事ぐらい、さくっと行ってさくっと済ませられるでしょ。
関係者に状況を報告して、説明に必要となりそうな資料を持ち出し用の暗号化機能付き USB メモリに収める。
社内外の打ち合わせで使用するノートパソコンも鞄に入れて、準備完了。
先方までは電車で三十分程度。今は昼一だから、定時までには帰ってこれそうね。
さて、でかけよう、としたところで。
「あの部長、妙な噂があるんですけど、一人で大丈夫ですか?」
今沢くんがあたしのところに気遣わしげにやってきた。
「妙な噂?」
「はい。女好きで、取引先の女性に立場を利用して手を出しているとかそういう感じの」
販売部長で営業力は抜群。顧客の開拓して会社の拡大に多大なる貢献をしたことで今の地位にあるって話は聞いてるわね。
仕事ができる人なのは確かなはず。
ただ、それで少々思い上がっているというか、人を見下すところがあるのはさっきの電話でも感じてるんで、人間性には少々疑問があるのは確か。
でも。
「さすがにそんな犯罪行為はないでしょう。あったら、とっくに捕まってるはずよ」
フィクションでは散々落とされてネガティブな報道ばかりされてマイナスイメージが大きいけど、日本の警察って基本的に優秀なはずだものね。
「でも、火のないところに煙は立たないし、泣き寝入りさせられてる可能性もあるから、用心はしておいた方が……」
「はいはい。ありがとね」
軽く流して、あたしは出かけていったんだけど。
忠告を受けたにも関わらずのうかつさを後悔するまで、あまり時間はかからなかった。
客先へ到着すると、二席ずつが小さなテーブルを挟んで並ぶ小さな会議室に通された。
システム開発から導入にかけての打ち合わせで何度か利用したけど、ここの会議室は機密保持のために防音になっているのよね。だから、狭い会議室は、ちょっと息苦しい。
少し待たされて、幅の大きな身体を揺らして房居部長が現れた。どうやら、向こうは一人らしい。
まぁ、この人の思い込みというか感情的な問題っぽいから、無駄に人を使わないのは賢明な判断じゃないかしらね。
房居部長は扉にしっかり鍵をかけてからあたしの対面に座り、
「では、説明してもらおうか」
横柄な態度で説明を求める。
それは、なんとも不毛な時間の始まりだった。
「仕様書にも記載されている通り、このメールは通常と違うアクセスがあったことを示すだけで、攻撃を受けたことを意味しません。そこは、仕様書にも明示しております。そもそも、インターネットに公開している以上、不正な方法でのアクセスはさけられませんから……」
向かいに座る房居部長に持ち込んだパソコンの画面を示しながら、出来る限り丁寧に説明を繰り返してるんだけど、
「それを避けるのが君たちの仕事じゃないのか?」
「いえ。避けられないからこそ、未然に防ぐための手立てとしてですね」
「警告が発生したということは、未然に防げていないということだろう?」
ああいえばこう言う、って感じで、説明に被せて文句を挟むばかりで、全く理解しようとしない。
それでも根気よく説明を続けていたんだけど、しまいには、こんなことを言い出した。
「いいか? 君がどう考えているかはどうでもいいんだ。私が問題だといったら問題なんだよ。このシステムの最高責任者は私なんだから。私が納得しない限り、この件は終わらないと思ってくれたまえよ。まったく、下請けごときが屁理屈をこねるんじゃない」
屁理屈をこねているのはそっちだろうに。
いい返したいけど、悪い意味での『お客様』にうかつなことはできない。どういう報復をされるか解ったものじゃないからね。
でも、本当に、こんな権力をかさにきてやりたい放題な人っているのね。
自分が関わらなければ、笑い話になりそうなんだけど、笑えないわね。
「ともかく、私が納得いくまで、しっかりと説明するんだ」
一言一言区切って協調しながら、更に説明を促してくる。
と、巨体を揺らして唐突に席を立った。
何事かと思ったら、わざわざこちらに回ってきて、隣の椅子に座ってくる。
何しろ横幅が広い。この距離だと肩が当たって、ちょっと嫌な感じね。
でも、あたしの見積もりは甘かった。
「まぁ、説明がうまくできなくても、別のことで納得してもいいんだが。むしろ、そちらの方が嬉しいがね……ぐふふ」
すぐ横で、房居部長は下卑た笑いを浮かべていた。
何を言ってるのこの人?
本気で、意味が解らなかった。
構わず、
「あの、説明の続きを……」
と言ったところで、身体を寄せてくる。
あたしは壁側。前は机。
よく考えたら、ここ、逃げ場がない。
その上、ドアも鍵を掛けられてたし、すぐには開けられないし。
外から人が入ってくることはない。
そこでふと、今沢くんの言葉を思い出す。
――女好きで、取引先の女性に立場を利用して手を出しているとか
え? まさか、よね。
でも、不気味なんで、少し手を打っておく。
パソコンに詳しくなさそうだから、気付かないわよね。
あたしの方ばかり見てるのをいいことに、説明用の資料のウィンドウの裏で、最小化してソフトを一つ立ち上げておく。
何事もなかったら問題になるかもしれないけど、最低限の手は打っておくにこしたことはないわよね?
それとほとんど同時に。
「導入のときから目を付けていてね。何かインシデントがあれば、君を指名しようと心に決めていたんだ。実現して、本当に嬉しいよ」
そんなことを言い出した。
「え、ど、どういう、ことですか?」
間抜けにも、そう聞くしかなかった。
「解らないのかい? このインシデントはあくまで口実だということだよ。君をここへ呼びだすためのね。これぐらいの簡単な説明だけなら、一人でノコノコやってくるんじゃないかと思ったら案の定だったというわけだ」
何を、言ってるのかしら?
困惑するあたしの隣で、じょじょにじょじょにその大きな身体をこちらへ傾けてくる。
思わず払いのけそうになって思いとどまる。
房居部長の性格を考えると、手を出したら更に状況が悪くなりそうな予感がしたのよ。
「な、何をする気ですか」
だからただ、素直に尋ねるしかなかったんだけど。
「それは、ほら、男と女が密室で二人きりなんだから、ぐふふ」
え?
あれ?
もしかして、これって、すごいピンチなんじゃない、あたし。
こんな風に、体温感じるぐらいの距離から男性に迫られると、ちょっと……ううん。
ガチで、怖い、わ、ね。
あ、あれ、なんか、身体が、震えて……嘘。
「じゃぁ、お楽しみといこうじゃないか」
悲鳴も、出てこない。
肩が触れあう距離に座る太った男。
そこから自分の肩を抱くように伸ばされる手を、震えながら見詰めるしかできない。
そっか。
あたし、昔から男性から向けられる好色な目を無視してきたけど。
克服したんじゃなくて、本当に、『無視』だったのね。
自分が感じてる一切合切の感情を、無かったことにしてるだけの、無視。
今まではそれでよかったし、それがあたしだって開き直ってたけど。
こうして直接的に欲望を向けられると、抵抗もできないぐらい、弱かったんだ……
今更気付いて、遅いけど……やだ。
やだやだやだやだやだやだと心の中で while(1) で繰り返しても、あたしの身体に備わった発声器官から音声は全く出力されない。
やだ。
どうして、仕事で出張してきただけで、こんな目に合わないといけないのよ。
せっかく忠告してくれたのに、流してごめんね、今沢くん。
視界が滲んでくる。
助けはこない。手を打つのが遅すぎたのね。
システムのセキュリティはバッチリでも、自分自身の身に対するセキュリティが後手後手じゃ、いけないわね。
自虐的になり、諦めそうになってたんだけど。
ガチャリ、と唐突にノブを捻る音がした。
瞬間、房居(もう呼び捨てでいいよね?)の動きが止まり、あたしから身を離す。
ギリギリ、助けが来たのかしら?
ほっとしたところで、分厚い扉が解錠されてゆっくりと開かれる。
「房居くん。何をしていたのか説明してもらえるかね?」
現れたのは、ロマンスグレーがよく似合う五十ぐらいの紳士。
無駄な肉が付いておらず、背筋も伸びていてスマートな印象。
整った顔立ちの中にある、なんだか既視感のある太い黒縁眼鏡が目立つ。
いや、顔立ちも、既視感、ある? なんでだろ?
ともあれ、見るからに出来る人って感じの佇まいね。
「社、社長が、どうして……」
なるほど、これが、この会社の社長なのね。
深く息を吐く。
実のところ、安心して腰が砕けてるけど、座ったままでいっか。
「質問しているのは私だ。何をしていたのかね?」
有無を言わせない、毅然とした態度。
「そ、それは、オンラインシステムに外部からの悪意あるアクセスの形跡があったので、担当者に説明を求めていまして」
「そうか……本当に、それだけか?」
「は、はい。勿論です。あの、それで、社長は、どうしてここへ?」
自分の悪事がばれやしないか、ビクビクしているのが露骨に態度にでてるわね。
「実は以前、房居くんと二人で会議室に入った下請けの女性がセクハラにあったという噂を耳にしてね。証拠がないので追及しようもなかったから不問にしていたが、聞けば、今、君が女性の来客と二人でこの会議室に入ったと受付で聞いてたもので、まさかとは思ったが念のため様子を見に来たんだ」
あれ? さっきのチャットがちゃんと伝わって、うちの会社から通報を受けたわけじゃないのね。
でも、どういう理由であれ、あのタイミングで現れてくれたのは、本当に感謝してます。
まだ、ホッとした反動で全身に力が入らなくって、声も出せないんだけどね。
「い、いえいえ。こうして狭い会議室ですので、わたくし、この通り少々体積が大きいモノで、うっかり体が触れてしまうことはあったかもしれませんが、セクハラなど、滅相もありません」
嘘よ。あれは、どう考えても痴漢よ。いえ、もう強制猥褻よね?
でも、あたしが何を言っても、すっとぼける気満々なのが感じられるわ。密室でのことに証拠はない。仕事でも、書面に残さないと言った言わないの問題になってすっとぼけられることなんて日常茶飯事だものね。
これで、社長さんが納得しちゃったら、この場は収まるかもしれないけど、あたしが味わった恐怖だけが、残る。
そんなの、やりきれないけど……どうしようも、ないのかな?
悔しいやら哀しいやら色んな感情が押し寄せてきて、泣きそうになっていると。
「残念だ……正直に言えば、処分を軽くすることも考えたんだがね」
「そ、それは、どういう」
房居は社長の言葉に真っ青になっていた。
嫌な予感がしているのだ。
それはつまり。あたしにとっては吉兆。
涙を収めて、成り行きを見守る。
「さっきの話は作り話だ。本当は、彼女の会社から通報があったんだ。君の声の録音付きでね」
やった! あれ、ちゃんと会社に届いてたんだ。
「え、ど、どうして……」
そこでようやく、デスクの上のパソコンが付けっぱなしなのに気付いたようだ。
「ま、まさかこのパソコンから送ったのか……か、会議の内容を外部に中継するなんて、悪質な情報漏洩だ! そんな違法行為で手に入れた証拠、裁判でも無効だぞ!」
う、そういえば、違法行為で入手した証拠って証拠能力失うんだっけ?
「録音に、業務に関する内容は一言も含まれていなかった。また、この内容を受信していたのは君が担当するシステムに従事する者だけだ。出張してきた担当者だけでは判断に困る部分について、社内の同業務の担当者に意見を求めるなど、よくあることじゃないか。これは、弊社と彼女の会社のオンライン会議とみなせる。議事の録音についても、議事録のために録音したものにたまたま君の醜態が入っていただけだ。このどこに違法性があるのかね?」
この社長、凄いわね。
理屈を付けて、録音を正当化しちゃったわ。なんだか、学生時代に『屁理屈女王』とか呼ばれてた、ずぼらな癖に頭の回転だけはとてつもなく速い腐れ縁を思い出すわね。
形勢が有利になってきて、ようやくそんなことを考える余裕も出てきた。
「あ、え、そ、れ、は……」
房居は、立ち上がろうとしてバランスを崩し、その無駄にでかい身体で会議室の床に無様に尻餅を付いていた。
権力を笠に着るだけに、より権力のある者にやり込められれば、惨めなモノね。
そんな部下の醜態を前に。
「部下が大変申し訳ないことをした」
顧客のトップが、一介の平社員に深々と頭を下げていた。
房居とはえらい違いで、人間ができているのが伝わってくる。
「いえ。あの、社長さんのお蔭で大事には至りませんでしたから、お顔を上げてください」
慌てて言う。思わずだったけど、房居がやりこめられたことで、ようやく声が出せるようになってたみたいね。
とはいえ、名前を知らないので、思わず社長さんと呼んじゃったのはあまりよろしくないわね。
と思っていたら、それだけで事情を察したようで、
「そうか、名乗っていなかったね」
社長は懐から名刺を出して、丁寧に差し出してくる。
「社長の田島です。宜しくお願いします」
「オンライン販売システム保守を担当させていただいている
こちらも名刺を出して、妙なタイミングでの名刺交換を行った。
まだ立てないんだけど、それも察してか、わざわざこちらに来て渡してくれた。
その名刺には、
代表取締役社長
とある。
ん? 田島?
どうも立ち居振る舞いと黒縁眼鏡に腐れ縁の姿が見え隠れすると思ってたんだけど、こんな偶然、あるのかしらね?
半信半疑で顔を上げると、向こうもあたしの名刺を見て、驚いた顔をしていた。
「
あ、そんな偶然、あったのね。
「はい。ということは、田島社長はいくのん……郁乃さんのお父様、ということですか?」
「そうだとも。郁乃はわたしの可愛い娘だ」
ああ、凄い、安心したわ。
助かったってだけじゃなくて、助けてくれたのが親友の父親だなんてサプライズが、さっきまでの恐怖を完全に払拭してくれていた。
このやり取りに、唖然としているのは未だ床に崩れ落ちている肉塊……もとい、房居だ。
一転して鋭い視線を、田島社長はそちらへ向ける。
「さて、房居くん。私情は挟みたくないが、悪いことに彼女は娘の親友でね。毅然と対処しないと娘に怒られる。会社ではトップでも、愛娘には叶わない。当社の不祥事として騒がれるのは知ったことではない。彼女が警察に突き出すというなら、今から警察を呼ぶ」
親馬鹿な台詞も混ざってるけど、これ以上ないぐらい毅然とした対応を示す。
あたしが被害届を出すかどうかに、房居の命運がかかっているってことか。
なんだか、気分がいいわね。
「申し訳ございません。二度と、二度とこういう真似はしませんので、どうか、警察だけは、警察だけはお許しください」
先ほどまでの偉そうな態度は完全に鳴りを潜め、平身低頭あたしに懇願してくる変わりよう。
種類が違えど、あたしが味わった恐怖とは別の恐怖を味わってるんでしょうね。警察沙汰になって、仕事を追われ、路頭に迷う先のない人生でも想像して。
いい気味としか思わないわ。
でも、
「解りました。警察へは通報しません」
あたしは、そう答えた。
「寛大な対応をありがとう、サバエちゃ……小枝葉さん」
房居の代わりに頭を下げる田島社長。慌てて房居も床に額をこすりつけて「ありがとうございますありがとうございます……」と繰り返している。
お陰で、あたしの溜飲もすっかり下がったわ。
「いえ。事情聴取とか面倒ですし、マスコミに面白おかしく騒ぎ立てられるのも勘弁願いたいですからね」
ま、寛大というよりは、正直これが本音ね。被害者にも厳しい世界よね、今の日本って。
助けが来なければどうなってたかと想像するとゾッとするが、助かった今はそっとして欲しいのよ。
「では、警察沙汰にはしないが、それでも、君には相応の処分をせねばならない」
「解雇だけは、解雇だけは勘弁してください」
さっきから土下座しっぱなしね。路頭に迷う恐怖に晒されていればいいわ。
そんな房居の姿に少し思案し。
「そだな。人間性に問題はあれど、販売部に君の力は必要だ。相応の処分は行うが、解雇はしないことにする。降格とそれに伴う懲戒を含めた大幅な減給、および、女性との会議室の使用禁止を命じる」
「は、はい。謹んで処分をお受け致します」
涙を流して額を床に擦りつける。
これで、一件落着だった。
元々呼びだされたクラッキングについてはなんだか有耶無耶になっちゃったけど、今回のインシデントは「顧客担当者の勘違い」ということで報告した。房居部長の名前で勘違いと認める内容の書面も頂いたので、仕事としてはこれで解決だ。
とはいえ、それは公にした対処の話。
自社に帰って事情の説明と、通報のお礼はちゃんとしないとね。
「よかった、よかったです……」
無事に戻ったあたしに、泣きながら腰に抱きついてきたのは、ウエノちゃん。
他のみんなも、一様に無事を喜んでくれている。
「心配かけてごめんなさい。でも、気を利かせて通報してもらったお陰で大事には至らなかったから」
「はい。社長さんとのやりとりまで、全部中継されていましたから。もう、それまでハラハラしてたものだから、連絡してすぐに社長さんが来てくれた瞬間、事務所で拍手喝采だったんですから」
そういえば、音声チャットツール繋ぎっぱなしだったわね。
「今回は、今沢くんの忠告を聞いておくべきだったわね」
「いえ。こうしてまたその立派なものを拝ませていただければそれでいいんです」
視線を少し落として、ごくごく自然な所作で手を合わせる。
「ええ。いいわ。少なくとも今日は好きなだけ拝んでいいわよ」
ま、減るもんじゃないしね、というか個人的には減って欲しいんだけど。
「そういうのがダメなんですよ。もっと、警戒してください」
ウエノちゃんが、そういいながらあたしの胸を隠すように腰から前に回ってきたんだけど。
そのまま、胸に思いっきり顔を埋めてきた。
「って、ウエノちゃん、くすぐったいからやめて!」
そんなやりとりを、男性陣がなんだか羨ましそうに見ている。
「あ、そっか」
ようやく、ちょっと自分が無防備過ぎるんじゃないかって気がしてきた。
ま、でも。
「あたしはあたしよ。できる範囲で臨機応変に対応するわ」
無理に変わるより、それぐらいでいいよね?
というわけで、簡単なはずが大ピンチだった仕事は終わったのだった。
「しかし、まさか、あの会社の社長がいくのんのお父さんの会社だったなんて……世間は狭いわね」
その夜、あたしはいくのんの家に押しかけて呑んでいた。
グラスの中身は、いつも挨拶代わりに呑んでるものとは似て非なる、とってもとっても香り高い琥珀色の液体だった。かなり高級なブランデーらしい。
さすがに、一気に飲むのは惜しいので、チビチビと。
あたしにも、それぐらいの節度はあるのよ?
「うん。急にパパから連絡があってびっくりした。市中引き回しの上で獄門にして欲しかったけど、パパを人殺しにはできないから、思いとどまった」
同じく、芳醇な液体を呑みながら、物騒なことを言ういくのん。
因みに、このお酒はいくのんパパからのせめてものお詫びの品らしい。値段は想像を超えるらしいので考えないことにする。
「そういえば、この専門書の山の仕入れ先って」
空いている壁全てを埋め尽くす本棚を見回しながら、思ったことを口にする。
「うん、パパの会社。元々は街の本屋だったんだけど、頑張って大きくして今の規模になった」
あの会社、マイナーな専門書を揃えることで教育機関を中心としたニッチな需要を捉えて成長したってことだったわね。
「あたしが本を好きになったのも、それが理由。本は、なんでも教えてくれる」
なるほど、ね。
「でも、サバエちゃんの危機は解らなかった……無事に済んだあとだったけど、すごい心配だった」
一転して、言葉通り不安げな表情を見せる。
「田島社長のお陰で助かったんだから、いくのんに助けられたようなものよ」
安心させたくて、ことさらに軽くいったら、
「そうね。娘とお揃いの眼鏡をしたてうるぐらいには、あたしに近づこうとしてるパパだから」
そんな風に軽口で返してきたので、想いは伝わったようだ。
って、眼鏡が同じだったのは、そういう理由だったのか。
それはそれでいいけどね。
こうやって、気心の知れたいくのんと、美味しいお酒を呑みながら過ごして、ようやく全てが元に戻った気がしてきていた。
「それで、落ち着いたの?」
いくのんにはお見通しだったようだ。
こうして今日、仕事の後にいくのんのところに来たのは、いくのんパパに助けられたから……じゃない。
あたしの平常を思い出したかったからだ。
溜飲は下がったけれど、ヒヤリハットだったのは違いない。
経験したリスクの記憶は、残っている。
それとどう向き合うかが、どうにも掴めなかったんで、ここで日常を過ごしたかったのよ。
その効果はあったみたいね。
「うん。正直、あの恐怖は忘れられないけど、忘れてもいけないんだろうなぁ、と思えるぐらいには」
「よかった」
にへら、と弛緩した笑みを浮かべる。
この日常の中、どこにだって予期しないリスクは潜んでる。
システム上のリスクには気づけるのに、自分に対するアナログなリスクには気づけない。
「これからは、システムをセキュアにするだけじゃなくて、自分もセキュアにしないとね」
「そういうことなら、協力するよ」
「ありがと、いくのん」
琥珀色の液体は、心許なくなってくる。
非日常な、滅多に飲めないお酒を呑み終えたら、またいつものお酒が待っている。
こうして、日常に戻って。
「また、明日からはお仕事頑張らないとね」
全てを飲み干し、いくのんの家を出る。
「付き合ってくれてありがと」
「どういたしまして」
挨拶を交わして。
でも、足りないことに気付いて、こう付け足した。
「お酒、ごちそうさまでした」
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