ムジカ・マジカ

ムジカ・マジカ(上)

 して目が覚めたら電車リニアは止まっており、窓の外に森が見えた。UVカットガラスの向こうに七月の夕陽が見える。

 寝過ごしたのかと思ったのだ、初めは。だから電車がすいているのかと。だが、首都圏を走るこの路線が、夕暮れ時に無人だなんて普通じゃない。

 秋葉原駅直前の高架の上、そこに自分ひとりを乗せて沈黙している車両。

「うそ……」

 むら結依ゆいは思わずつぶやいた。

 その呟きを耳にした者は、本人も含めて、誰もいない。


 

 「非常の際には中のハンドルを手前に引けば」を実際に引く日が来るとは思わなかった。高架の上を歩くのも、プラットフォームへ登るのも初めての体験だ。

 動きやすい私服で良かった。

 高架から見渡した風景は、森ばかりではなかった。森や平原と、見慣れた街がに入り組んでいる。そして、すこし先に見慣れたサイネージがあった。

 ビジネスホテル。子役時代に泊まったこともある所だ。

 駅構内、補聴眼鏡グラスのVRレイヤーに動きはない。このまま無人の駅に居続けるか、それともホテルまで行ってみるか。

 

 立ち止まって助けを待つのは、結依のやり方ではなかった。




 白樺だ。

 北海道だとかの、寒い土地の樹が千代田区に生い茂っている。

 結依は二つのバッグを肩にかけなおした。

 片方は私物、もう片方のトートには、今日華子から受け取ったばかりの衣装が入っていた。これだけは無くすわけにいかない。

 木々の隙間から見えるホテルを見失わないように、木の根につまづかないように。大した距離ではないはずなのに、ひどく遠く感じられて──気が付けば歌っていた。


 歩みを進めながら、思いつく限りのナンバーを全力で歌っていた。空気が喉を通って胸くうや頭蓋を震わせるのは心地が良かったし、この状況にも立ち向かえる気がした。

 バッグを持ち替えようと、左肩から下ろす。


 ──あぶない


 VRレイヤーに文字が出た。


 ──うしろ


 振り返れば、折れ飛ぶ枝と、迫るうんの如き黒粒の塊。

 青光りする塊が、枝葉をなぎ倒し迫ってくる。

「────ッ!」

 刹那。

 見えない何かに抱きすくめられ、猛烈な勢いで後ろに引っ張られた。

 慣性に従って、手に持ったバッグが遅れる。手に衝撃が走る。

 私物の方がはね飛ばされるのが見えた。

 そして、トートが、衣装の入ったトートが、飛び去る黒粒に引っかかっているのが見えた。

 どん!

 背中が何かにぶつかる。

「だめっ! 返して!」

 駆け出そうとして、後ろから腕をつかまれた。

「っ離してください!」

 叫びながら振り返ると、日焼けした、南アジア系の青年が口を動かしているのが見えた。


 ──だめだ、戻ってきたらどうすんだ


 男性のデフォルトカラーで表示された文字に、別の色で文字が加わった。


 ──だいじょうぶ。あいつ、


 もう一度振り返る。

 枝の払われた林の切れ間には、ぽっかり口を開けた宵の空しか見えなかった。



****



「どこかで会ったか?」

 ビジネスホテルの自動ドアを手動で開けながら、青年が訊いてきた。

 もちろん、結依に肉声は届かない。

「いいえ。ありません」

 短くそう答えた。

 昔のキャンプで使うような鞄にコートだなんだをくくりつけ、長い木の杖を持ち、腰に皮袋をぶら下げた南アジア系の知り合いは、いない。

「そうか。どっかであんたを見た気がするんだけどな……」

 補聴眼鏡グラスの文字で口調まではわからない。この男がわざといるのか、本心で言っているのかは判断できなかった。

「他人の空似じゃないですか?」

 出自は伏せた。会って間もない相手に「子役出身」だの「スクールアイドル」だのと明かすのは危険すぎる。

「かも知れない」

 青年が中に入っていく。日がくれてほぼ真っ暗なホテルのロビー。携帯ミラホのライトをつけようとバッグに手を伸ばした時、頭上に弱い明かりがともった。

「ここにも、誰もいないみたいだなぁ」

 青年の指から細く碧い棒が伸び、その先端が光っている。キャンプ用品だろうか。

「ずいぶんヘンな所に来ちゃったよね」

 VRレイヤーに別の文字が映る。

 青年の足下から、黒猫がチェックインカウンターへ飛び乗った。青年は黒猫と向き合い、いくつか言葉を交わしている。

 文字色のバグと思いたかった。

「あなたたちは……」

 動揺は表に出さないようにつとめた。

「誰なんですか?」

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