ムジカ・マジカ
ムジカ・マジカ(上)
うとうとして目が覚めたら
寝過ごしたのかと思ったのだ、初めは。だから電車がすいているのかと。だが、首都圏を走るこの路線が、夕暮れ時に無人だなんて普通じゃない。
秋葉原駅直前の高架の上、そこに自分ひとりを乗せて沈黙している車両。
「うそ……」
その呟きを耳にした者は、本人も含めて、誰もいない。
「非常の際には中のハンドルを手前に引けば」を実際に引く日が来るとは思わなかった。高架の上を歩くのも、プラットフォームへ登るのも初めての体験だ。
動きやすい私服で良かった。
高架から見渡した風景は、森ばかりではなかった。森や平原と、見慣れた街がまだらに入り組んでいる。そして、すこし先に見慣れたサイネージがあった。
ビジネスホテル。子役時代に泊まったこともある所だ。
駅構内、補聴
立ち止まって助けを待つのは、結依のやり方ではなかった。
白樺だ。
北海道だとかの、寒い土地の樹が千代田区に生い茂っている。
結依は二つのバッグを肩にかけなおした。
片方は私物、もう片方のトートには、今日華子から受け取ったばかりの衣装が入っていた。これだけは無くすわけにいかない。
木々の隙間から見えるホテルを見失わないように、木の根に
歩みを進めながら、思いつく限りのナンバーを全力で歌っていた。空気が喉を通って胸
バッグを持ち替えようと、左肩から下ろす。
──あぶない
VRレイヤーに文字が出た。
──うしろ
振り返れば、折れ飛ぶ枝と、迫る
青光りする塊が、枝葉をなぎ倒し迫ってくる。
「────ッ!」
刹那。
見えない何かに抱きすくめられ、猛烈な勢いで後ろに引っ張られた。
慣性に従って、手に持ったバッグが遅れる。手に衝撃が走る。
私物の方がはね飛ばされるのが見えた。
そして、トートが、衣装の入ったトートが、飛び去る黒粒に引っかかっているのが見えた。
どん!
背中が何かにぶつかる。
「だめっ! 返して!」
駆け出そうとして、後ろから腕をつかまれた。
「っ離してください!」
叫びながら振り返ると、日焼けした、南アジア系の青年が口を動かしているのが見えた。
──だめだ、戻ってきたらどうすんだ
男性のデフォルトカラーで表示された文字に、別の色で文字が加わった。
──だいじょうぶ。あいつ、もう行っちゃった。
もう一度振り返る。
枝の払われた林の切れ間には、ぽっかり口を開けた宵の空しか見えなかった。
****
「どこかで会ったか?」
ビジネスホテルの自動ドアを手動で開けながら、青年が訊いてきた。
もちろん、結依に肉声は届かない。
「いいえ。ありません」
短くそう答えた。
昔のキャンプで使うような鞄にコートだなんだをくくりつけ、長い木の杖を持ち、腰に皮袋をぶら下げた南アジア系の知り合いは、いない。
「そうか。どっかであんたを見た気がするんだけどな……」
補聴
「他人の空似じゃないですか?」
出自は伏せた。会って間もない相手に「子役出身」だの「スクールアイドル」だのと明かすのは危険すぎる。
「かも知れない」
青年が中に入っていく。日がくれてほぼ真っ暗なホテルのロビー。
「ここにも、誰もいないみたいだなぁ」
青年の指から細く碧い棒が伸び、その先端が光っている。キャンプ用品だろうか。
「ずいぶんヘンな所に来ちゃったよね」
VRレイヤーに別の文字が映る。
青年の足下から、黒猫がチェックインカウンターへ飛び乗った。青年は黒猫と向き合い、いくつか言葉を交わしている。
文字色のバグと思いたかった。
「あなたたちは……」
動揺は表に出さないように
「誰なんですか?」
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