地区中学校音楽会

『8時40分にバスが出ます。遅れたら会場まで自力出来ていただくことになるので、絶対に遅れないように本人にも伝えてあります』

 電話口で担任の先生に言われた時間を、何度も反芻しました。

 余程のことがなければ次女がひとりで起きることの出来ない時間です。

 本当に気が気でなくて、次女には何度も、

「明日こそ大丈夫なの? バス乗れなかったら私が連れて行かなきゃならないんだよ?」

 と言いました。

 けれど次女はあっけらかんとして、

「大丈夫だよ。多分行けるっしょ」

 何の根拠もなく、とんでもないことを平気で言います。

「本当に、絶対早起きしなきゃいけないんだからね?」

 10月3日、学校から久々に歩いて帰ってきた次女に、とにかく早く寝るようにと、私はコンコンと言い聞かせました。



 4日木曜日。

 私は早めに起きて弁当の支度をしていました。いつも寝坊の次男を、いつもよりずっと早く幼稚園に連れて行かなければならなかったので、普段より気合いを入れて支度をしていました。

 子どもたちは夜遅く寝ることもあって皆早起きが苦手で、6時には声をかけて起こすのですが、実際全員が降りてくるのはその30分近く後になることが多いのです。それどころか、一階に降りてきただけで安心して寝直す子が多いこと。酷いときは下三人、気持ちよさそうに7時近くまで寝息を立てているときもあります。

 弁当を詰め、朝ご飯の支度をしてバタバタしていると、長女が降りてきて一言。

「あれ、次女起きてる」

 ――起きてる!

 起きているのにも気が付きませんでした。

 弁当、次男、それから次女の順番で身構えていたので、かなり驚きました。

「ええっ! いつから起きてたの?」

「4時50分くらいかなぁ」

「寝たのは?」

「1時過ぎだけど、何か早く目が覚めて。寝たら起きられないと思って起きてた」

 まさかまさかの早起きでした。

 みんなと一緒に朝食を取り、それから8時10分過ぎに車で学校へと送り届けました。

 学校へ乗り付けるとソーシャルワーカーの先生が丁度昇降口で出迎えてくださいました。まさか次女がこの時間にとかなりびっくりした様子でした。


 次男を幼稚園に送り届けてから、私も会場へと向かうことにしました。

 地区の中学校3年生が集まって行われる音楽会に次女の中学が参加するのは本年度が初めてでした。それに、次女のことも心配だったので、様子を見たかったのです。

 次女の中学校はプログラムでは一番最後です。

 会場は沢山の人で溢れかえっていました。

 学校ごとに固まって座っているのですが、前方に、音に合わせて拍手をしたり身体を揺り動かしたりする一団が混じっていました。プログラムを見て、「養護学校だ」と直ぐに分かりました。彼らも一緒に歌うようです。


 まずオープニングの全体合唱、そのあと合唱部の演奏、その次が養護学校の演奏でした。

 他の学校の演奏ではまず見られないのですが、椅子や目印のシートなどが会場に次々に設置されていきました。どうするんだろう、と見ていると、手拍子をしながら校歌を歌って養護学校の生徒たちが入場してきました。

 ――驚きました。色んな障害の子がいるのは知っていましたが、間近で見たのは初めてでした。

 手を繋がれて歩いてくる子、車椅子の子、寝たきりの子、飛び跳ねる子。様々な子どもたちが、先生たちに誘導されて入ってきました。そして、一生懸命に歌っていたのでした。

 椅子は付き添いの先生用の補助椅子でした。シートは立ち位置の目印でした。

 他に二曲演奏したのですが、その間どうしてだろう、涙が止めどなく出てきてしかたありません。私だけがおかしいのかなと思いましたが、辺りを見まわすと、手で涙を拭っている人、ハンカチを取り出す人がいました。

 彼らの中に、お祭りで見かけた近所の発達障害の男の子も混じっていました。大きな身体を揺さぶって、楽しそうに歌っていました。


 次女が保育園の頃のことです。

 園の解放日に、その子はお母さんと一緒に遊びに来ていたそうです。その頃は未だ小さくて、お母さんは自分の子供が発達障害なのに気付いていなかったようなのですが、言葉を喋れないその子に、次女は声をかけて一緒に遊んでくれていたそうです。いつもいつも優しく遊んでくれたと、後になってお母さんに聞きました。

 発達障害とわかり、同じ幼稚園に行けない、同じ小学校にも入れないと残念がっていたのを思い出しました。

 本当は、歩いて5分もかからないところに住んでいるのに、その子とは、地域行事でもまず殆ど一緒になることはありません。

 小学校の時には、先生方の配慮で年に何度か交流させて貰っていたようで、次女はその子のことをよく分かっていました。時折お母さんのことは見かけたり、仕事でお世話になったりもしましたが、私にはかける言葉もありませんでした。

 何年前だったか……、

「身体は大きくて、私の背を越したんですけど、できることは幼稚園の子と変わらないんですよ」

 と話してくださいました。言葉も喋れない、意思疎通が難しい息子と、一体どんな時間を過ごしているんだろうと思うと、子どもが沢山いて、五体満足ならこれ以上の贅沢はないと思ったのを思い出しました。


 ただ、一生懸命に歌う姿がこんなにも心を揺さぶるのかと、私はその時初めて言葉に言い表せない震えを感じました。


 その後、プログラムは順調に進み、最後に次女の学校の演奏が始まりました。

 夏の間家の中でグッタリしていた次女は、一人だけ日焼けしていなくて、直ぐに見つかりました。最後まできちんと歌い、本当に安心しました。


 帰り道、信号待ちをしていたときに、偶々バスに向かう生徒たちと鉢合わせました。

 担任の先生が反対車線の向こう側から手を振ってくださいました。

「次女さん、頑張りましたよー!」

「ありがとうございますー!」

 私も手を振って帰しました。

 その列の後ろに、直ぐ次女の姿がありました。私の姿を見つけると、誇らしげに手を振り返していました。

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