壊れそう、壊れる

 研修会の内容は、提携している他社の新商品についての説明会。直接提携会社の社員さんが仙台からいらっしゃって、普段聞くことの出来ない商品のおすすめポイントや、新商品と既存商品との違いについて説明してくださるという内容。質問時間もあるので、是非聞きたいことがあったらこの機会に聞くようにというものでした。

 もし私がこのことを知っていたら、予め夫に相談して、仕事の都合を付けて貰い、子どもの送り迎えをお願いしていたでしょう。夜ご飯のこともあるので、出来るだけ迷惑をかけないよう、作り置きをしておくか、子どもたちだけでも作れるような簡素なメニューにして、作り方を長女や次女に伝えておいたかも知れません。

 そしてもし、当日研修会がスーツ着用なのだと知っていたら、私は普段着でいつものように通勤していなかったと思いますし、資料を目に通し、質問事項を考えていたかも知れません。


 ……打ち震えました。


 今更彼女を責めてもどうにもならないことは分かっていました。

 自分が置かれた立場、自分の最大限とは何かを必死に探りました。


 泣きたいのを我慢して接客をこなし、その合間に計算しました。

 着替えに何分、家まで何分、3ヶ所目までスムーズな送り迎えが出来たとして、その所要時間。着替えてそれから会場に向かうまで何分。どの部分をカットすれば効率的にかつ確実に、そして雪道を安全に会場に向かえるのか。

 必死に計算して計算して、導き出した答えがありました。


 昼休みの一時間を利用して、自宅に帰り、スーツを用意する、これしかない。


 それならば、子どもたちを家に置いてそのまま会場へ向かうことが出来ます。

 片道20分から25分。昼ご飯を食べる時間は少なくなりますが、どうにかなるのではないか。

 夜はパスタでも茹でて適当なパスタソースを絡めて食べて貰うしかない。幸い、前日に作り置きしたサラダがある。野菜も食べさせることが出来る。夏ならば、最悪、夫にハンバーガーでも買ってきて貰うかという選択肢もあるけれど、冬道で寄り道させると、私がもし仮に間に合わなかったとき、誰も子どもを迎えに行けなくなってしまう。

 余興練習は、行けなくなったが、それはまた別の日に参加して覚えるしかない。

 そんなことより、とにかく今日は参加しなければ、色々な意味で危ういと思いました。


 私は覚悟を決め、部長に言いました。

「先ほどは取り乱して申し訳ありません。今日の夜は出ます」

「懇親会も大丈夫?」

「大丈夫です」

「よかった。未だ欠席の連絡はしてないから。今日は早めに終わらせるよう、頑張ろう」

「はい」

 どうやって仕事をしたのか。とにかく早く昼になれ昼になれと、そう願いました。

 少しでも彼女の態度を思い出すと、涙が溢れそうになり、それをぐっと堪えて笑顔で接客しました。


 昼休みに入ると、ダッシュで更衣室に行き、ロッカーから鍵と防寒着を取って駐車場に走りました。朝より道の状態が良く、スムーズに自宅に戻ることが出来ました。

 自宅では、家族LINEへの書き込みを見た次女が起きて待っていました。

「大丈夫? 間に合う?」

「間に合わせる」

「ホント酷いね」

「泣きそう」

「泣かないで」

 スーツは、偶々少し前に使ったばかりで一階にあったので、それを袋に詰め込んで、大急ぎで会社に戻りました。

 運転している間も思い出すと涙が出そうで、私、何でこんなことになってるんだろう、いつそんな話をされたんだろう、私が全て忘れてしまってるんだろうかと、そんなふうに頭の中でグルグルと問い続けていました。

 昼休みの終わる10分前くらいにどうにか滑り込みで休憩室に入り、奥にある更衣室のロッカーに持ってきたスーツを投げ込んでから、お弁当を広げました。

 休憩室には既に総務のパートの皆さんがお昼休憩を取っていました。

「外行ってきたんだ」

「はい、ちょっと、緊急事態が起きて」

 お弁当を広げ、食べながらことの経緯を簡単に話しているうちに、涙がボロボロと出始め、私は自分で自分の涙を止めることが一切出来なくなっていました。

 最初は気丈に話していたのに、途中からもう、思っていたことが次から次へと出てきました。今まで我慢していたこと、これまでに言われてきたことを、とにかくどんどん話して話して、どうにかして自分の気持ちを伝えようと、誰かに気付いて貰おうとしていました。

「酷すぎる」

「なんでそんなこと。謝りもしないなんて」

 慰めて貰うと、またどうしたら良いのか分からなくなっていって、涙が出ていきます。

 お弁当が、食べられません。毎朝長女の分と同じものを作って、いつもなら全部食べるのに、半分も食べられません。食べようとしても、箸が進まなくなって、ただ涙だけが止めどなく出ました。

 私の異常な泣き方に、背中を擦ってくれたり、励ましの言葉をかけてくれたり。

 総務のパートの皆さんは、いつもいつも同じ建物の中に入るけれど、正社員でないからと、チームリーダーの彼女に蔑まれている存在なのでした。

 でも、私は知っています。

 同じ仕事をしながらも、少ない給料で頑張ってくれていること。総務の皆さんがいなければ、会社が回らないこと。私も総務出身だし、夫も別会社で総務の仕事をしています。営業だけが仕事だ、総務なんてお金を稼ぐことが出来ない不要な存在だと言うチームリーダーとは対極的な立場にいる彼女たちが、私を慰めてくれました。

「自分が言い忘れたことを、認めたくないんじゃないの」

 ある人が言いました。

「自分だって、早朝清掃のとき遅れて来たのに、あの人、素知らぬふりで参加してた。知らなかったとか、聞いてなかったとか、誰かのせいにしたいんじゃないの。前からそういうところあったよね。認めたくないんでしょ、天崎さんに言い忘れたの」

 ――そうかもしれません。認めたくはない。

 だからって。

 その分、どこにしわ寄せが来るのか。

 私じゃない、私の家族が、一番困るってのに。

 ……と、そんな現場とは知らず、同僚の一人が休憩室に入ってきました。私が泣いてるのを見て、

「どうしたの?」

 とびっくりしていましたが、他の方々が誤魔化してくださいました。

 気が付くと、休憩時間が少し過ぎていました。でも、涙が全然止まりません。

「大丈夫、誰も何分から休んでるかなんてチェックしてないから。落ち着いてから戻った方が良いよ」

 そう言ってくれた人がいました。

 私は弁当を残して、メイク直しをしました。目も鼻も真っ赤です。いつもより厚めにメイクをしました。顔の赤いのを、営業の方々には悟られたくありませんでした。

 休憩室を出る前に、

「顔、赤くないですか」

 と尋ねると、みんな、

「大丈夫大丈夫」

 と答えてくれました。

 それどころか、休憩室から廊下に出るまでの間に、思い切り励ましてくれたのです。

「頑張って! 皆天崎さんの味方だよ!」

「応援してるから!」

 また、涙が出てきました。

「そんなこと言われたら、またメイクが崩れるじゃないですか」

 私には、支えてくれる人がいる。それが分かっただけでも、少しだけ、救われた気がしました。


 そうして仕事を終え、どうにか計画通り会場に滑り込んだのは、開会の10分前。上出来でした。

 流石私。頑張った。

 笑顔で席に着きました。

 朝と昼のドタバタなんて、間に合ってしまえばどうにかなるものです。

 娘たちも事情を察して、晩ご飯や小さいこの入浴を快く引き受けてくれました。感謝の限りです。

 遅番で遅れてくる人がいるときいていたので、同じテーブル席の二つが空いているのは気にしません。

 とても有意義な研修会で、私は必死にメモを取りました。

 と、研修の途中で一人、遅番の方がやって来ました。資料のここまで来てるよと、隣の人に教えて貰いながら研修を続けます。

 しかし、もう一席、私の隣は未だ空いています。

 名簿によると、チームリーダーが出席するはずなのですが、彼女の姿だけ、会場のどこにもありません。

 おかしいな。

 そういえばさっき、更衣室で私がスーツに着替えているとき、彼女は私服に着替えていた。そして、凄まじい勢いで更衣室から出て行った。私には何故知らないのと言っておきながら、どうして彼女は私服だったのだろう。参加しないのかな、と思ったら、参加することになってる。

 はて。

 私の自宅より、彼女の自宅の方が遠い。まさか、家に戻ってる? 私と同じことをしてる?

 まさかね。

 私に散々言っておきながら、そんなことあり得ないでしょう。


 研修会が終わりそうになった頃、とうとう最後の出席者がやって来ました。

 チームリーダーでした。

 何食わぬ顔で私の隣に座った彼女は、しっかりとスーツを着込み、髪の毛まで整えていました。

 ……どういうこと?

 私はあんなに必死で間に合わせたのに、何で彼女は遅れて来るの?

「子どものご飯の準備とか、ホント大変で」

 確か、そんなことを。

 部長や課長には、子どものことがあるから遅れると予め言っていたのでしょう。私だって、子どものことがあったのに、必死に間に合わせた。彼女は両親と同居ではないが、確か同じ敷地にご両親がいて、そちらに子どもを預けることも出来たはず。私のように、助けを呼ぼうと思っても呼べない距離に住んでいるわけじゃない。緊急事態は一人で乗り越えるしかないから、どうにかしたっていうのに。

 第一、うちの子どもたちには、ご飯の用意なんてしてやれなかった。悪いけど、皆でどうにかしてと泣きながら頼んだ。まだ、年端のいかない幼児が二人もいるのに、家の中、夫が帰るまでの時間、子どもだけにした。

 それなのに。


 最悪だ。

 最低だ。


 人のことを嫌いになるのが、人の悪口を言うのが、人を貶すのが大嫌いな私が、本気でイラッとしたのはいうまでもありません。

 しかし、私はぐっと堪え、彼女の隣で何食わぬ顔で食事をしてやりました。

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