川釣りサマーデイ

藍沢篠

川釣りサマーデイ

 家の裏側に小さな川が流れているというのは、僕にとって、とても幸せなことなのではないかと、近年になって考えるようになった。のちのち、海に続くころにはかなりの大河になっている川だけれども、少なくとも僕の家の裏では、まださほど大きな川ではない。だが、上流域に属するだけあって、水がとにかく綺麗なのが、非常にありがたいのだ。

 自然が豊かな僕の家の近辺は、渓流釣りに適したスポットがあちらこちらにあり、僕はそんなスポットを廻りながら、ひとりで川釣りを楽しむことを趣味としている。

 もっとも、さほど本格的に川釣りを専門にしているわけではない。あくまで素人に毛が生えたレベルでしかないのだが、僕の数少ない趣味のうち、いちばん好きといえるのが、のんびり静かに釣り糸を垂らしている時間だった。

 ただし、この趣味をひとに話したことはない。僕のような、一介の女子高生が行っている趣味としては、いささかではあるが、おじさん臭いような気がしないでもないからだ。もう少し年齢を重ねたなら、似あうと呼ばれるようになるのかもしれないけれども、いまの僕はまだ十七歳でしかない。お世辞にも川釣りが似あうような年齢ではないことくらいは、なんとなくだがご理解いただけるのではないだろうか。

 そんな僕だったけれども、単にひとと関わるのがあまり好きではなく、自然の中に身を置いて、静かにのんびりとすごせる時間というものが好きであったがために、中学校に上がったころから川釣りを始めてみた。これがなかなかに楽しいことだとわかったのも、すぐだった。

 初めての川釣りから少しだけあとに、とても思い出深いことがあったからだ。


 中学一年の、夏休みのことだった。

 お小遣いをはたいて買った、購入当時では最新鋭だったカーボン製の竿を携え、家のすぐ裏のスポットで、初めての釣りをやってみた。その時に、いきなり二十五センチほどのサイズのヤマメが釣れたのが、いまでも記憶に残っている。

 綺麗な魚だな、というのが、最初にヤマメを釣り上げてみての感想だった。銀色にひかるそのしなやかな身体に、木の葉のような模様が点在しているのが、とても美しく見える。

 あとから知ったことだったけれども、ヤマメは成長に従ってだんだん模様が薄くなってゆくらしかったので、僕が釣ったのは比較的若いヤマメだったようだ。サイズから見ても、最大で四十センチ近くになるというので、確かにあまり大きなヤマメではない。だけど、挑戦いちどめの釣果にしては、十分すぎた。

 ヤマメは、近年だと天然種がさほどいないらしい。交雑などが進み、相当に水の綺麗な川の上流側くらいにしか、天然種はいないのだと、本で読んだ。そのことを覚えていたので、僕は初めて釣ったそのヤマメを、写真だけ撮ったあとはすぐに川に帰してやった。

 それから三週間ほどの間、僕は暇さえあれば、川に通った。あのころはすぐに結果をだしてみせようと、少しばかり躍起になっていたように思う。最初に釣り上げたヤマメを上回るような、大きな魚を釣り上げてみたくて、我流ではあったものの、仕かけの改造や餌選びなどに工夫を凝らしたものだ。手を変え場所を変え、とにかくがむしゃらに釣果を挙げようとしていたのは、いま思えば、釣りの楽しみ方の本質を忘れていた行為ではないかと考えている。

 そんな時に、釣りに臨む際の、大切なことを教えてくれたひとに出逢ったのだ。


 その日は、天気は快晴だったものの、僕の釣果は正直な所、芳しくなかった。

 普段と比べ、浮きと錘のバランスを変えてみた仕かけと、近くの草むらで適当に掴まえたコオロギという餌のチョイスが裏目にでてしまったのか、魚自体がほとんどかかることがない。時折魚がかかったにしても、釣り上げてみると、すべて小さいサイズのアブラハヤだった。

 アブラハヤもそれなりに綺麗な魚ではあるのだけれど、川釣りの際は「ハズレ」と称されることも多い魚だ。当時の僕のような、ドのつくレベルの素人にでも簡単に釣れてしまうので、釣れることがあまり楽しみではない方ではある。やはり釣れるものであれば、難易度が高いとされるヤマメやイワナあたり、それもだいぶ大きなものを釣ってみたい所だった。

 でも、躍起になればなるほど、なにもかからないという負のスパイラルに陥る。僕のあまり大きくない手で竿を支えていられる時間は、さほど長くはない。いちど休憩を取って気分転換でもしようかと思っていた、そんな時だった。

 不意に、流れに沿わすように垂らしていた仕かけの糸が、びくともしなくなる感覚に見舞われる。それまでにも何回か味わったことのある、針が水草などに引っかかって外れなくなる現象の、いわゆる「根がかり」に当たってしまったようだ。竿を引っ張ったりしても、一向に針が外れてくれる様子を見せない。困ったことになったと、素直に思わされた。

 この時に使っていた仕かけの糸は、一応、相当に時間が経てば溶けてなくなるタイプの糸ではあったけれども、根がかりで残ってしまった糸などが原因でさらに根がかりを起こす例もあるらしいし、できれば回収しておきたかった。それなのに、針は外れようとしない。

 どうしようかと本気で焦り始めたが、外れないものは本当に外れないのが根がかりの怖い所だ。それどころか、無理やり外そうとすると、竿が折れてしまうことすらあるらしい。慎重に竿を動かして、針を外そうと躍起になったけれども、やはり外れてくれなかった。

 困ったことになったと思っていた、その時だった。

 突然、僕の竿を握る手に、別の誰かの手が添えられる。

 その誰かの手は、川釣りの専用ものと思しき手袋をはめているので、どんな手なのかはわからない。だけど、そのひとの手が軽く竿を動かした直後に、それまで感じていた、針が引っかかっている感覚が、すぐになくなった。僕が慌てて仕かけの糸を回収すると、幸いにも、針も仕かけにも、目立った損傷は見当たらなかった。まあ、餌だけは流されていたけれども。

 それだけ確認して、僕はため息をひとつつく。直後、

「根がかり、外れてよかったわね」

 ややハスキーな、それでいながら女性のそれだとはっきりわかる声が僕にかけられたので、そういえば誰かが助けてくれたのだっけ、と、いまさらながらに思いだして、僕は声の主をようやく見つめてみる。

 そこに立っていたのは、僕よりだいぶ年上、二十代の後半くらいと思われるような、見目の麗しい雰囲気の女のひとだった。

 キャップを前後逆にかぶった頭は、釣りの邪魔にならないようにか、ポニーテールに結ってある。同じ女だというのに、顔立ちは正直、僕が思わずはっとさせられたほどに整っていて、いかにもクールで知的そうな印象だ。左目の下にふたつ並んだ泣きぼくろが妙に色っぽい。

 そんな綺麗な女のひとが、僕と同じように、釣りをしているというのが意外に思えた。なんというか、こういうひとだと、会社のオフィスなんかでバリバリとお仕事をこなしている絵の方がしっくりくる気がする。だけど、その女のひとは、釣りにだいぶ慣れたひとのそれと思われる、普通のひとが想像する釣りびとらしい恰好だった。

 動きやすそうな薄手の長袖シャツの上に、釣り道具がいろいろ収められていると思われるベストを羽織っている。カーゴパンツの上から巻きつけられたウエストポーチからは、釣った魚のサイズを測るための巻尺が覗いていた。

「あなたも釣りびとさんなのね。それも見た感じでは初心者さん。当たっているかしら?」

 女のひとが僕にいうので、僕は女のひとを凝視する目を止め、答える。

「……ええ。まだ、釣り歴は半月ちょっとくらいです」

 すると女のひとは、静かに、でも嬉しそうに、笑った。

「あなたみたいな若い子が、釣りに興味を持ってくれて嬉しいわ。私でよかったらだけど、いろいろ教えるから、きょうは一緒にやらせてもらってもいいかしら?」

 僕は正直、あまり乗り気ではなかったけれども、助けてくれたひとの申し出を蹴るほどの理由でもなかったので、ただひと言、

「……いいですよ」

 それだけをぼそっと答えた。すると女のひとは、先ほどよりさらに嬉しそうに、いった。

「ありがとうね。じゃあ、きょうはよろしく。あ、私は河本魚月っていうの。魚にお月様の月という字を書いて『なつき』って読むのよ。珍しい名前だってよくいわれるけれど、好きなのよね。あなたのお名前は?」

 河本さんの問いに、僕は河本さんの色っぽい目もとを見つめながら、答える。

「……岸谷流といいます。女の子らしくない名前だとは、よくいわれますけれど……僕も、自分の名前は割と気に入っています。河本さんのお名前、素敵ですね」

 すると河本さんは、

「下の名前で呼んでもらえると、さらに嬉しいかしらね。自分でいうのも難だけれど、綺麗な響きだって、そう思うのよ」

 そういってまた微笑んだので、僕も少しだけ笑顔を返す。

「……では、魚月さんと呼ばせていただきます」

「うん、よろしくね、流ちゃん」

 そういって、魚月さんは手袋をいったん外し、僕の手を握ってくる。手袋の中に隠されていた魚月さんの手は、僕よりも大きく、でも繊細そうな雰囲気で、釣りびとのそれには見えない感じだったけれど、優しさと温かみが感じられるような、そんな手だった。


 そんなわけで、僕と一緒に釣りを行うことになった魚月さんだったけれど、最初に魚月さんに、僕の仕かけと餌のチョイスを見てもらうことにした。僕はまず、一応の狙いの魚はヤマメやイワナあたりだと告げておく。

 魚月さんは仕かけを丁寧に観察し、餌のコオロギに少しだけ目をやったのち、

「んー、ちょっとだけ浮き下が短いかしらね。錘の選び方とバランスはだいたいいい感じだから、浮きの位置を少し高めに調整し直した方が、きっと釣れるわよ。それと餌だけど、ヤマメやイワナを狙うなら、普段のヤマメやイワナが食べているような、川虫の系統の方があうわ。浅瀬のあたりで、少しガムシの幼虫でも探してみましょうか」

 そんなことをいってくれた。

 僕が仕かけを少し手直ししている間に、魚月さんは長靴のまま、川の浅い所の石をひっくり返して、ガムシの幼虫を十匹ほど捕まえてくる。

 ガムシの幼虫は割とグロテスクな外見をしているし、ミミズなんかと同じで、針に刺すのが憚られた。なにせ、魚月さんと違って、僕は手袋の類を持ってきていない。普通の虫は平気な僕だけど、ミミズや川虫の幼虫は苦手なのだ。

 餌を針につけるのは魚月さんにお願いした。魚月さんは少しだけ苦笑いを浮かべ、

「流ちゃんも、これから釣りを続けるなら、いずれは川虫の扱いにも慣れてほしいわね」

 そういいつつも、僕の仕かけに餌を丁寧につけてくれた。僕も苦笑しつつ、

「……いずれは。まだ始めたばかりで、グロテスクなものに慣れていないので……」

 そう答える。魚月さんは目を細めて、今度は綺麗に笑った。

「まあ、おいおい慣れればいいわ。きょうは私が餌つけをやってあげるから、気兼ねすることはないわよ。じゃあ、釣りに入りましょう」

 そういって、魚月さん自身の竿を手に取り、立ち上がる。僕も同じように立ち上がった。

 魚月さんの竿は、僕のものより年季の入った、メーカーは同じの竿だ。仕かけを少し観察してみると、先ほど僕にアドバイスしてくれたのと同じで、やや浮きの下の糸を長めに調整している。錘はガンダマと呼ばれる噛み潰しタイプのものがバランスよくつけられていて、本格的にヤマメやイワナを狙うひとの仕かけというものはこうなるのか、と唸らされた。

 魚月さんと二メートルほど距離を取って、同じあたりに釣り糸を垂らす。仕かけの先を川の流れに沿わすように、時折手を動かしつつ、魚月さんに少し訊いてみた。

「……魚月さんは、なぜ、釣りを始められたのですか?」

 魚月さんも僕と同じように、時折手を動かしながら、答えてくれた。

「私は昔からアウトドア派だった感じかしらね。小学生の時に、地元の町の教育事業で、釣りの体験を受けたのがきっかけで、それからずっと釣りをしているの。なんだか似あわないとはいわれるけれど、なんというのかしら……なんだか、性にあうのよね」

 確かに、魚月さんをぱっと見た感じでは、自然の中というよりも街の風景の方が似あいそうな雰囲気だ。僕にもあまり釣りが似あっているとはいいがたいけれども、魚月さんはもっと似あわないような気がする。それでも、好きなことを好きなように楽しめるというのはいいことだと、僕は改めて思った。

 その直後、魚月さんの垂らしていた糸が、なにかに引っ張られたかのようにぴくりと動く。魚月さんの表情が真剣味を帯びたので、どうやら当たりがきたようだと気づかされた。

 魚月さんは竿を巧みな手捌きで動かしたのち、その先端の仕かけを回収する。僕の方に、釣れた魚を見せてくれた。

「最初からこれくらいがかかるのは嬉しいわね。水がとても綺麗な所という証だわ」

 魚月さんの手にした糸の先には、三十センチはあるかという大物のヤマメがかかっていた。ヤマメは最大で四十センチほどにもなるらしいが、それでもかなり大きなヤマメなのには違いはない。大きな個体の割に、模様もはっきりしていて、まさに綺麗な魚だった。

 魚月さんはヤマメから針を外し、ウエストポーチからデジカメを取りだして、写真を撮る。

「……毎回、写真を撮っているのですか?」

 僕が興味からそう訊ねると、魚月さんは微笑む。

「そうね。記録として残しておきたい、そんな感じかしら」

 そういって、傍らに準備しておいた、川の水を汲んだバケツにヤマメを入れて、再び餌を取りつける作業に戻った。次の魚を釣る準備のようだ。

 僕の方にはいまだに当たりがない。けれど、魚月さんの手ほどきで、先ほどまでとは仕かけや餌の内容が変わっているわけなので、近いうちに魚月さんと同じように、どこかの段階では当たりがくるのではないかと、そう思っていた。

 しばらくの間、魚月さんと僕は、時折雑談を交わしながら、糸を垂らし続ける。

 魚月さんの方には、しばしばヤマメやイワナがかかっていた。最初に釣れたものよりは小さいサイズのものばかりだったけれども、長年の釣り経験が活きているのか、確実に獲物を釣り上げてはいた。当たり自体がない僕と比べると、雲泥の差だ。

 その一匹一匹を丁寧に写真に収め、最初に釣れたあのヤマメを除いた魚たちは、すぐにそのまま川に返していた。最大のサイズを持ったものだけ、なにかに使うようだ。

 そんなこんなで、四時間ほどの時間が流れた。

 僕の方には、長い時間を経たのにもかかわらず、まったく当たりはきていない。魚月さんはその間に七匹ほどを釣り上げていたので、やはり実力の差というものなのだろう。

 夏であるとはいえ、陽が少しずつ傾き始めていた。魚月さんは自分の竿を畳みつつ、

「そろそろ切り上げた方がいいかしらね。流ちゃんには残念な結果だけど、釣れない時というのは本当に釣れなかったりするの。私にも経験はあるから、よくわかるわ」

 そういって、僕の肩を叩いてくれた。でも、僕は返す。

「……せめて一匹だけでいいです。僕にもきょう、なにか釣れてから、帰らせてください」

 その言葉に、魚月さんは頷いてくれた。

 刹那。

 不意に、僕の竿の先端が、強く引っ張られるのを感じた。また根がかりかと一瞬疑ったけれども、その引っ張りは断続的に続いている。

 ついに、待望の当たりが僕にもきたようだ。僕は少し焦りながら、手を動かす。だけど、かかっている獲物が相当に大物なのか、僕の力の方が負けそうになってしまう。

 そんな時、最初に根がかりから竿を回収してくれた時のように、魚月さんの手が僕の手へと添えられた。手応えを確かめるかのように何度か竿を握り直したのち、魚月さんがいう。

「これはきっと大きいわ! 流ちゃんのキャリアハイになるかもしれない! 一緒に釣り上げましょう!」

 僕は魚月さんに向かって頷き、すぐに川面の方へ視線を戻して、魚月さんにサポートを受けながら、竿を必死に動かした。だんだんと手応えが確かなものになってきて、これは大物かもしれないと、ようやく実感が湧いてくる。そして同時に、こいつは絶対に釣り上げたいという思いも、強くこころへと湧き上がってくる。

 数分間、魚との格闘が続く。魚月さんも真剣そうだった。きょう初めて出逢ったばかりの僕のために、ここまでしてくれるのかと思うと、嬉しかった。いい出逢いに感謝しつつ、僕は何度も何度も、竿を動かし続ける。

 そして、かかっていた魚が、ついに僕のもとへと近づいてきた。魚月さんは僕の竿から手を離し、網を用意しに行く。僕が川岸まで魚を近づけた所で、魚月さんが網を使って、僕の獲物を回収してくれた。

 僕が釣り上げた獲物を、ここでようやく観察してみる。

 どうやらイワナのようだ。その中でも、エゾイワナと呼ばれる、白い斑点の模様が特徴的な魚のようだった。

 ウエストポーチから巻尺を取りだした魚月さんが、釣り上げたイワナのサイズを確認する。

「すごいわ! 三十八センチもある! 普通のイワナは二十五センチくらいだから、本当に大物よ! 最後まで粘ってよかったわね、流ちゃん!」

 そういって、魚月さんは自分のことのように喜んでくれた。

 無論、僕自身も嬉しくないわけがない。

 魚月さんの力を借りてでこそあるが、これだけの大物を釣ることができたのだから。


「ね、このヤマメとイワナだけど、ここで調理しちゃっていいかしら?」

 魚月さんがそう提案してきたので、僕はその言葉に甘えることにした。

 魚月さんは、いったん機材を取りにどこかへと姿を消す。その間に、僕は考えた。

(……やっぱり、釣れると楽しいな)

 大物を釣り上げたという高揚感が、まだ抜けない。孤独に釣りを楽しんできた僕だったけれども、釣れた時の喜びを誰かと分かちあえることも、割と楽しいことなのかもしれないと、初めて思わされた。こんなに楽しかった釣りは、それまでになかったくらいだ。

 やがて、魚月さんが携帯型のガスコンロと、小さなまな板を抱えて戻ってきた。魚月さんはウエストポーチから、小ぶりなナイフと小さな瓶に入った塩を取りだし、

「シンプルに塩焼きでいこうと思うけれど、かまわない?」

 そう訊ねてくる。僕は頷いた。

 魚月さんは丁寧に手をあわせたのち、魚月さんが釣ったヤマメと、僕の釣ったイワナにナイフを刺し込んで、お腹を開き、丁寧に内臓を取りだす。それから全体に塩を振って、串に刺してから、ガスコンロに火をつけ、金網を置いて、その上にヤマメとイワナの串を並べる。そして僕を見つめてきた。

「釣ること自体が楽しみだから、あまりその場で食べることはしないけれど、きょうは特別にしておくわ。流ちゃんも、こんな機会は滅多にないでしょうし、おいしくいただいてね」

 川魚の塩焼きがおいしいということは、僕自身も知ってはいるけれど、実際に自分で釣った魚を調理して食べるのは、初めてだ。おそらく未知の体験になるだろう。

 そんなことを思っているうちに、ヤマメとイワナがいい感じに焼き上がってくる。

「そろそろ、ころあいかしらね」

 魚月さんがそういって、ガスコンロの火を止め、串焼きのイワナを僕へと手渡してくる。魚月さん自身はヤマメの串を手に取った。そしていう。

「じゃあ、冷めないうちにいただきましょうか。この、自然が与えてくれた幸が、私たちのいのちとして繋がってゆくことに感謝しながら、ね」

 はっとさせられた。

 僕はこれまで、釣りを楽しんではいたけれども、こうして魚月さんのように、自然に感謝したということが、いちどもなかったのではないだろうか。

 釣りというスポーツを楽しめるのは、魚といういのちがあるからだ。それを育んできた自然の存在があるからだ。だから、僕は静かに思った。

(……これからも忘れないようにしよう。釣りは、自然があるからこそできることを)

 そうまとめてから、僕は静かに「いただきます」と魚月さんに告げ、イワナにかぶりつく。

 仄かな塩味が、舌にここちよい。それでいながら、イワナのしっかりとした身の締まり具合も絶妙だ。魚月さんの焼き加減もまた的確なので、それまでに食べた川魚の焼き魚では、文句なしにいちばんの味だった。

「……おいしい……!」

 思わず声が零れた。魚月さんが嬉しそうに笑う。

「うん、おいしくできたわ! やっぱり、こうして食べる魚は格別ね」

 もう少しで沈みそうな西陽を受けつつ、魚月さんと僕は、焼き魚を最後まで味わった。

 夏はもうちょっと続くけれど、また釣りにきたいと、そう思いながら。


 魚月さんとは、あれからも時折、一緒に釣りに行かせてもらっている。歳こそひと回り以上も違うけれど、釣りが好きな女という共通点があるので、いろいろと話しやすいし、釣りに関してのアドバイスもいろいろもらっている感じだ。

 でも、初めて出逢ったあの日に、魚月さんがいっていた、いのちへの感謝……それがいまの所、僕にとってはいちばんのアドバイスだったと思っている。

 楽しく釣りをするということは、自然と、そしていのちと向きあうこと。

 いのちの大切さを改めて感じつつ、僕は今年の夏も、釣りを楽しむつもりだ。


<了>

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