壱話 対魔師マコト
誠は己の心に蓋を閉じ、森林が風を浴び、せせらぐ音だけを耳にしながら。
煩悩を全て廃し、心中に巣くう鬼を
『我は汝と在る』誠は父が遺した言葉を反芻し続け、
「ほぉ……気の流れが穏やかになってきたのぉ」
背後で
今、誠は天地と同化し、万物の理に逆らわず。全てが凪いでいるようだった。
「手前の鬼を鎮め、常に自制心で抑えつけよ」
「はい……」
鼻から息を吸い、口から吐く。
深呼吸を繰り返して、目を瞑り瞑想に耽る。
「おっ? 何をしてるんだ
突然、誠の前に大きな声を張り上げる無精髭の大男が、悪戯を思いついた悪童のよう、笑顔で誠の頭を叩いた。
文字通り無精髭、朝黒く肌と彫りの深い顔がまるで、江戸時代の侍然とした中年男──
「これ慶尚!
「ほぉ……座禅組んで、写経して、んで次は
調子よく禅に集中していた誠は、師匠の茶々いれに眉を潜める。
「ほれほれ! 精神統一、精神統一! ガハハハ!!」
ゴツゴツした太い指が、誠の膨らんだ鼻に入り込む。
「う、うぇ~! ゴホッゴホッ!」
思わず目を開け、眼前の師匠を睨んだ。
元徳川家剣術指南役、
伊藤一刀斎の化身と謳われた現代の剣豪だ。
「これ誠……」
気を乱した誠の肩に、和尚の警策がコツリ。
目の前でニヤつく師を
「いてっ!!」
バチンと竹を割るような乾いた音が鳴り、右肩に激痛が走ったと同時。
無精髭の大男がひっくり返って爆笑するほどに、誠はいじめがいがあるのだろう。
「ガハハハッ!!」
「お前もじゃ……」
丹念に剃られた頭まで真っ赤にした和尚は、そう言い。
大男の脳天目掛け、警策が真っ二つに割れるほどの強さでぶん殴った。
「ガッ!」
笑いが一瞬で止み、そのまま伊藤は縁側に突っ伏した。
「はぁはぁ……誠、禅はもうよい。仕事じゃ」
「は、はい」
和尚の言葉に痺れた膝を抱えながら、正座を解く誠。
脇に置かれた誠の愛刀『
豪壮華麗な波紋は、深い湖に落ちた影のように深い闇。
鏡面のような刀には、誠の眉目秀麗な顔ではなく、オニキスのような禍々しい瞳だ。目尻はつり上がり、口の端から覗く営利な牙はまさしく鬼面であった。
×××
四方を囲む山に陽が落ち、新緑が朱に染まり、西の山は赤々と燃え盛るように見えた。
「誠、お主が龍泉寺に来てどれくらい経ったかの?」
車を運転する和尚が傍らで車窓を眺める誠に、一瞥くれて質問をする。
「十年くらい……かな」
「そうか、そんなに経ったか。歳を取ると月日の流れが早くてな……」
「急に老けたような事言うんだね」
誠は珍しく弱気な事を言う和尚を見つめ、感慨深げに言う。
「老けたは余計じゃ」
いつもなら誠の軽口に、ゆでダコのように頭まで真っ赤にする和尚は笑みを浮かべ、それ以上言葉を紡ぐ事もなく白髭を撫でた。
×××
畦道を抜けると
『
そこには囲いの中にひっそりと立つ三重の塔があった。
「観光してる人もいないね」
「そりゃそうじゃろ。マイナーじゃからな」
そう言って腰ほどの高さの門を開き、僕らを出迎えた僧にお辞儀をした。
「おぉ! わざわざお呼び立てして申し訳ありません……」
「丁度、このボウズも
陰陽道には『
呪詛とはつまりモノを『呼称』することによって生じる魂。
神仏的な話だが、とどのつまり誠は
「して、御用は?」
和尚が世間話を終えて、ようやく本題を切り出した。
年寄りの与太話を聞きあぐね、欠伸を噛み殺す誠が慌てて居ずまいを正す。
「
僧が言う通り、本来対魔師や除霊師に
だがこと誠に関して言えば、土御門を逐われた時より、そうした能力の全てを封じられた。
裏を返せば身を護る呪詛や祝詞すらも、誠には毒となる。
「訝しむかもしれんが、ボウズには力は無いんじゃ」
「ふむ、分かりました。聞きもうしません……」
「すまぬ」
僧が誠へ一瞥くれ、神妙な面持ちで口を開く。
「実は日本人形に
「ほぉ……
これに対して
「それは斬っても大丈夫なんですか?」
誠の素朴な質問に、僧は淀みなく「かまいません」っと答えた。
「では早速……」
竹刀袋から日本刀、こちらも妖刀『備前長船永光』を抜く。
二本目の『長船長光』として、世に知られぬ妖刀であり『
三重の塔の朱色の門を開けようと、手を伸ばした瞬間──誠の指先に電流が走った。
「いてっ!」
「む? どうしたのじゃ」
誠には一つ思い当たる節があった。
それはかつて土御門を逐われた折。
それが護符に反応し、否応なしに誠をモノノケと認識させる。
「御札……かな」
「おお、そうじゃったな。どれ、ワシが剥がしてこよう」
そう言ってじい様が三重の塔に入り数分、封印を一枚一枚、丁寧に剥がしてくれた。
「それでは霊が暴れてしまいますぞ」
「すみません。僕も仕事ができないもので……」
「は?」
部屋を照らす燭台に乗った火を吹き消してくれ、しばらくすると暗がりから和尚が姿を現した。
「ほれ、もう問題ないじゃろ?」
「よしっ! 頑張ります!」
誠は自身の頬を打ち克己すると、刀携え単身、塔の中に入る。
「では閉めるぞ」
「はい……」
×××
漆黒の影が辺りを覆い、格子戸から漏れる蒼白い月明かりのみが室内を照らす。
燭台に囲われ、中央には桐箱がポツリと置かれていた。
対象と相対しても顔色一つ変えず、桐箱を見つめる。
誠の対魔術は、一般的な陰陽師の祈祷と違って、護摩を焚きながら一晩、必死に祈る必要がない。
直接的な方法にでる為。荒々しく乱暴、粗野で下賤と揶揄される所業。それが彼の生業だ。
「さっそく始めよう」
下準備などなく、おもむろに刀を抜き、桐箱の蓋を開ける。
封の無い上蓋から這い出た針金のような髪が、誠の指に絡み付いてきた。
「っつぅ……敵意剥き出しだ……」
蓋を開けるたび強く、更に強く締め付け、中を覗く頃にとうとう、指の皮膚が切れるほどだった。
「日本人形……綺麗だ」
血色のない顔は、少し湿り色の色落ちした
伸びきった黒髪は箱に収まり切らないほどだ。
中が判ればなんて事はない──誠は指に絡む髪の毛を払い、刀を握る手に力を込め桐箱を睨む。
「南無三!!」
っと降り下ろそうとした途端──誠の身体は羽交い締めされたかのように、腕が動かない。
その上寒くもないのに白息が漏れ、背後から鼻をつく硫黄の臭いが漂う。
「くっ……見えない……」
思案していると、誠の身体は簡単に宙に浮き、突風に吹かれたが如く体が塔の壁に叩きつけられた。
「っぐ! かっ!」
背を打ち軽い呼吸困難に陥る。
目を剥き歪み始める視界に、危機感を覚えた誠は硫黄の臭いを追うが、やはり見鬼のない誠には姿が見えない。
「仕方無い──鬼眼!」
誠の心中、奥に潜む忌まわしき鬼の力、それを目に附憑しようと呼び掛ける。
和尚の言っていた「常に自制心で鬼を鎮めよ」と──言葉を胸に、侮ることなく努めて平静に。
すると世界は灰色に溶け、セピア色の情景の中。
白拍子の遊女が、飄々と舞いながら長く不精な髪を揺らし、めろめろと蒼白い炎を吐いていた。
「そこに居たんだね」
もう一度刀を握り、今度は逃さむまいと一歩踏み込み。
師匠直伝──と言ってもこれくらいしか知らない──右切り上げの逆袈裟斬り。
「ハァッ!」
だが霊体は軽々と誠の刀を避けた。
『ケキャキャギャギャ!!』
笑う白拍子の霊は、悪戯に誠の体をすり抜け、封印が解かれた門に向かった。
「くっ! 逃げられる!!」
踵を返すが再び刀は空を裂き、霊は既に室内にはいない。
慌てて門を開けると目を丸くする和尚と、鬼を宿した怪しい眼の誠に怯え小さな悲鳴を上げる僧。
そして男には憑けないであろう、白拍子は新たな獲物を探しに夜闇へ向かう。
「間に合えぇ!」
誠は腹の底から叫び、内に眠る鬼に自身の足を与えると、骨を砕き肉を
空中を漂う霊の背後から豪風を巻き起こし、人知を越えた速度で刀を振る。
『ギャァアア!』
手応えは確かにあった。だが誠の手には切った感触など微塵もなく、幽体は腰から真っ二つ別れ、誠の耳に届く苦痛の声。
霊は断末魔の声を上げた。
『アリ……ガトウ……』
消え入りそうなほど微かな
灰色に映る夜空を見上げ、天に昇る光の粒。
口の端を僅かに緩め、頬を伝う一筋の雫を撫でた。
「さようなら──」
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