第20話 新米オッサン冒険者外伝~受付のオッサンが転職を決意するまで~
この回だけリックの過去編です。
―――
誰もできなかったことを成し遂げたい。
幼い日のリックは、100年前に魔王を倒した『英雄』ヤマトの伝記を読んでそう思った。
ヤマトの伝記は世界中の子供たちが一度は読んだり、聞いたりしたことのある本である。
伝記はヤマトがこの世の果てに住む隠しボス『カイザー・アルサピエト』と戦い、決着がつくことなく終わる。
最後にはこう書かれている。
『この最後にして究極の魔物は、倒せばあらゆる願いを叶えるアイテム『アカシックレコード』をドロップする。だが私にはそれが叶わなかった。これから冒険者を目指す子供たちの中から、いつかそのアイテムを手に入れ願いを叶えることができるものが現れることを願っている』
その言葉にリックは心が躍った。いつか、ヤマトですら倒せなかったこの世の果てにいるという究極の隠しボスを自分が倒して『アカシックレコード』を手に入れるんだ。
いてもたってもいられなくて、寝転がったまま足をバタバタさせて心臓が熱くドクドクと鼓動する音を聞き、まだ見ぬ冒険に思いを馳せた。
ところが、母親はリックが冒険者への憧れを口にするたびにこう言った。
「冒険者はいつ死ぬか分からない危ない職業よ。できれば他の安全な道に進んで欲しいわ」
さらに、親父もこう言った。
「お前もいずれ家庭を持つんだ。安定した真っ当な仕事につけ」
色々言いたいこともあったが、さすがに10年以上も同じことを言われ続ければそんなものなのかなあ、と思ってしまうものだ。
ただ、何となく冒険者に関わる仕事がしたかったので、16歳の時に西方ギルド『タイガー・ロード』が出している求人に応募してみることにした。福利厚生もちゃんとしてるし過剰な残業もない安全で安定した「真っ当な仕事」である。
こうして、冒険者を目指していた一人の少年は、気が付けばギルドの受付として14年も働いていたのだった。
□□□
西方ギルド『タイガー・ロード』、シャンクアット支部。
「えーっと、依頼番号00003457「大量発生したスライムの討伐』ですね。ログストーンをお預かります……はい、スライム30体の討伐確認しました」
リック・グラディアートルは手慣れた動作で書類に必要事項を書き込むと、引き出しの下から銀貨を二枚取り出して机の上に置いた。
「こちらが報酬となります」
窓口の前に立つ若い冒険者は、銀貨を手に取ると爽やかな笑顔で言う。
「ありがとうございます、受付のおじさん!!」
お、おじさん?
「あ、ああ、いえいえ。またのお越しをお待ちしております」
そう言って頭を下げたリックをちらっと見て、若い冒険者は踵を返して建物から出て行った。
「はあ、おじさんねぇ」
「おう、リック! いい依頼はいってないか? なんかこう、ちょっとイリーガルな感じだけど報酬のいいやつ」
そう言ってリックの座る窓口の前にやってきた人間族の男はザイート。毛皮のコートを身にまとった筋肉質の体に、厳つい顔のいかにも荒くれものと言った感じの冒険者である。
ちなみに年齢はリックと同じ30歳である。リックが初めて受け付けを担当した相手がザイードであり、ザイードが始めて依頼を受けに来たのがリックの担当窓口だったりする。
まあそんなこともあって腐れ縁と言ったところである。
「こんな田舎の支部にそんな依頼は来ないのお前も知ってるだろうに」
「久しぶりに来てみたら、相変わらずしけたこと言ってんなあ」
「てか、あったとしても俺なんかが斡旋できるわけないだろ。14年前をよーく思い出して言ってくれよ。あんときも今も俺はずっとここに座ってる。同じ場所にな。要するに出世コースなんてものからはとうの昔に乗り遅れたんだよ」
「はっ、はっ、はっ。まあ、知ってていったんだけどな」
嫌味な野郎だ。とリックは心中で毒づいた。
「お前が、そうやって足踏みしている間に……見ろこれを!!」
そう言ってザイードが見せてきたのは、一枚のカードである。
「これって!?」
「そう! Bランク冒険者のギルドカードだ。ようやく俺も冒険者だけで飯が食っていけるってことよ」
冒険者にはFからSまでの6つのランクがある。その中でも冒険者一本で一生食べて行くにはBランク以上である必要があると言われている。ランクごとに受けることのできる依頼の差があるからだ。
「ハッハッハッ、これからガッポリ稼いで、Fランクで金がなかったころにお前に奢ってもらった分の飯代を利子付けて返してやるからなあ」
ザイードはそう言って豪快に笑った。
□□□
「ういーっ、ヒクッ!」
その夜。リックはおぼつかない足取りで町を歩いていた。
仕事の終わったリックはザイードと行きつけの酒場で浴びるように酒を飲んできたのである。もちろん、本日から収入面で遥かに上をいかれたBランク冒険者ザイード大明神様の奢りだった。
ザイードと別れて、帰り道を行くリックは夜空を見上げながら呟く。
「あのザイードがいつの間にかBランクか。そうだよな、もう14年も経ってるんだもんな……てか。14年もあの場所に座って同じ仕事をしているのか、俺は」
別に今の生活が苦しいかと言われれば、そんなことはなかった。嫁や子供はいないがそのおかげで、収入が多少安くても一人で生活する分には十分である。休日には趣味の釣りをしてのんびりと心と体を癒す。
そう、不満はない。あったとしても上司の嫌味が鬱陶しいとか、新人が明らかに舐め腐った態度をとっていて不愉快とか、まあ仕事をストレスで辞めるまではいかないような程度のものである。
だが。ふと、思う。もしも、自分もザイードのように冒険者になっていたら、と。
まあ、考えても仕方のないことだ。
今の生活に、不満は……ないのだから。
その時だった。
「きゃあああああああああああああ、モンスターよ! モンスターが出たわ!」
その言葉に人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
本来なら町では出現しないはずのモンスターが町に現れることは、珍しいが起こらないことではない。巣を追われた下級モンスターが町まで逃げてくるのだ。
「まあ、最近はなぜかよく見るけどなあ」
リックは野次馬根性を発揮して、騒ぎがした方に行ってみる。
その目にそのモンスターの姿が映った。
「ブオオオオオオオオオオオオ!」
でっぷりとした脂肪で固められた巨大な体躯と醜悪な顔面をもつトロールが暴れていた。しかも一般的なトロールより一回り大きく、ここら一帯の主ともいえる上位種のジャイアント・トロールだ。
なんでこんな魔物が町までやってきてるんだ? 巣を追い出すような敵もいないだろうに。
しかも、コイツ。
「……なんかこっちに向かってきてないか!?」
どうやら、間違いではないらしい。皮が垂れた鋭い眼光の目をこちらに向けて全力疾走してきていた。
「マジかあああああああああああああああああ!!」
リックはすぐに踵を返して全力で逃げ出した。
しかし、運動不足の中年ボディはなかなか思う通りに動いてくれない。
大型の魔物は動きが緩慢なのが唯一の救いであるが、トロールとリックでは一歩の大きさが番う。追いつかれるのは時間の問題である。
しばらく逃げ回っていたリックだったが、その途中で不意にトロールが自分とは違う方向に向きを変えた。
助かったか? そう思ったのも束の間。
トロールが新たに向かう先には野菜や果物の入った紙袋を持った一人の少女がいた。
(まずい!!)
考えるよりも先に体が動いた。
「待てやコラァ!!」
リックは千切れそうになるほど全力で地面を蹴って走り、女の子とトロールの間に立ちはだかった。
しかし、そうしたところで、ただの受付員の自分にはできることもなく。
「あー、えっと、まあ、その、お互いに色々言いたいこともあるでしょうが一旦落ち着いて」
「ブオオオオオオオオオオオオ」
「ちっ、言葉が通じないのって不便だな。逃げるぞ!」
トロールがその太い両腕を振りかぶる。
リックは少女の手を掴んで逃げようとするが、少女はその場を動こうとしなかった。
「おい、お前、何やって」
「アナタのお名前は?」
「そんなこと言ってる場合か! リックだ。リック・グラディアートルだよ」
「分かりました。では、リック様。さがっていてください」
そう言って少女は一歩前に出た。
リックは改めて少女の姿を見て息を飲んだ。
メイド服を着た神秘的なほどの美貌を持つハーフエルフだった。引き留めようとしたが見とれてしまってリックは動くことができなかった。
トロールの巨岩のような腕が振り下ろされる。
少女の右手が僅かに動いたように見えた。
次の瞬間。
トロールの体は十文字に切断されていた。
トマトを踏みつぶしたかのように、トロールの血が周囲に飛散する。
「え?」
唖然とするリックに少女は言った。
「助けていただいてありがとうございますリック様。私はリーネット・エルフェルト。一応、冒険者をやっております」
リックはまるで石化の魔法をかけられたかのように硬直したままだった。
少女が一体何をどうやってトロールを倒したのか分からなかった。だが、自分よりも遥かに大きなモンスターを一瞬で倒したその姿は、華怜で美しくて目を離すことができなかったのだ。
そして、その姿がかつて自分がこんな風になりたいと思っていた、強大な敵に打ち勝つ強くてカッコいい冒険者の姿に重なる。
「どうしました?」
リーネットは無表情のまま小首をかしげてくる。
あ、かわいい。ってそうじゃなく。
「あ、その、いえいえお礼を言われるよなことは……てか、ホントにお礼を言われるようなことしてないか。結局キミが倒しちゃったしな」
「リーネットと呼んでいただいて大丈夫です。そんなことありませんよリック様。アナタはトロールに襲われそうになっている私の前に立ってくれた。嬉しかったです。何かお礼をできるようなことがあれば……」
「お、お礼? そ、そうだなあ~」
リックは年甲斐もなくテンションを上げる。こんなかわいい子からお礼させてくれなんて、こんなチャンスは30年間なかった。食事にでも誘ってそこを糸口に出来れば彼氏彼女まで、そしてその先の嫁……
などと一瞬で妄想したが、自分の口からは思いもよらぬ言葉が出た。
「……聞きたいことがあるんだ。リーネットは冒険者なんだよな? かなり強いみたいだしBランクくらい?」
馬鹿、違うだろ。食事の誘いだろ! と内心自分を罵倒するが口は勝手に動く。
「いえ」
「じゃあ、Aランクかあ。俺ギルドの受付で仕事してるけど、冒険者が戦ってるところ実際に見たことなくってさあ。どのくらい皆が強いか分からなかったんだよな。でも、やっぱりAランクって強いんだな」
「いえ、Aランクではありません」
「え? じゃあ、Cランク? 冒険者って皆そこまで強かったの?」
「Sランクです」
リックはポカーンと大口を開けて立ち尽くしてしまった。
Sランク冒険者。あまりの戦闘能力に通常のギルド登録からは外され、ギルド本部の上層部がそのデータを管理する規格外の冒険者。
文句なしの超一流冒険者だった。
なら、やはり、どうしても聞いておきたいことがあった。
「なあ、リーネット。今からちょっとおかしな質問するけど、笑わないで真剣に答えて欲しい」
「ええ、安心してください。私は10歳の時からここ7年間笑っていません」
「いや、それは違う意味で心配だよ……えーっと、その、俺さガキの頃の夢が冒険者になって、誰も倒せなかった隠しボス『カイザー・アルサピエト』を倒すことだったんだよ」
リックは色々と質問の仕方を考えたが、いい言い回しが思いつかなかったので思っていることをそのままに言葉にする。
「そこまでしたいなんて言わないけど、その、もしさ、もう30歳になっちゃった俺がもし今から冒険者を目指すとしたら……やって行けるかな?」
リーネットは少しの間じっとリックの目を見つめていた。
答えを待つリックの心臓はずっとドキドキと強く脈打っていた。
やがてリーネットは小さく瞬きしたあと口を開いた。
「私はアナタには冒険者にとって大事な『勇気』があると思っています。先ほど私を助けようと自分よりも強い相手に向かって飛び出していきましたよね。そうそうできることじゃありません」
「そ、そうか。それなら」
「ですが……『魔力』に関する常識はご存知ですか?」
「ああ一応な。20前くらいまでに鍛え始めないと、その後成長しにくいってやつだろ?」
「成長しにくいどころではないですね。ほとんど育たないと言った方が正しいです。冒険者なら一定以上の『魔力』量は絶対に必須になります。そのことを踏まえると、私は正直にこう申し上げるしかありません。『今からアナタが冒険者を目指して、やっていける可能性はほぼありません』と。『勇気』だけではどうにもならないことは、どうしたってありますから」
「……ははは、そうか。まあそうだよな」
その言葉を聞いて、リックは落胆よりも少し安心したような心地になった気がした。
実際、心臓の音は静かになっていた。超一流の冒険者の言葉だ。受け入れるしかあるまい。
もう、夢なんて見る年でもないのだから。
「リック様? 大丈夫ですか?」
リーネットがリックの顔を覗き込んでそう言ってくる。無表情だけど気遣いはしっかりできる娘のようだ。
「うん。悪くない気分だよ。むしろスッキリしたかな。いい夜だった。ちょっと昔の気持ちを思い出すことができて嬉しかったし、リーネットみたいな素敵な子にも会えたしな。本当はこの後に食事でも誘いたい気分だけど、俺は酒入ってるし夜も遅いからまあ大人しく帰るさ」
リックは踵を返して歩き出そうとした。
だが、その背後からリーネットの声がした。
「いいですよ」
「え?」
「確かに今日は難しいですが、明日の19時からなら時間を取れます。それとも、他の日にしますか?」
「いやいや、大丈夫。うん、その時間なら仕事も終わってるから。行こう! 6番地区にデザートのおいしい店知ってるんだ」
訂正する。今日は最高の夜だ!!
□□□
「~ふっふ~ん」
翌日の朝。リックは鼻歌を歌いながら受付の準備をしていた。
「あれ? 先輩今日はずいぶんと上機嫌ですね?」
隣の窓口に座るやけに乳のデカい後輩がそんなことを聞いてくる。
「ああ、まあな!! 今日も一日頑張ろうアンネくん!!!!」
「うわ、テンションたかっ!?」
受付開始の時間になる。ギルドの扉が開くと同時に冒険者たちが依頼を求めて流れ込んでくる。
いくらでも来るがいい! 今日の俺は無敵だ!!
今日最初の相手はザイードだった。
「おーう、リック! 今日の俺様は上機嫌だ、何せ初のBランククエストだからなあ。テンション上がって昨日は眠れなかっ」
「はいっっ!! 『シャドーウルフ討伐』クエストですね!!! 承りましたっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「うわ、テンションたかっ!」
□□□
「ちくしょー。こんな日に限って前に書いた書類のミスが見つかるなんて」
リックは仕事からの帰り道を猛ダッシュしていた。
約束の時間まであと15分。ギリギリ間に合うか?
その時だった。
「モンスターだ! モンスターが現れたぞ!」
昨日と同じような声が聞こえてきた。
こんな時にかよ! とリック内心で毒づいた。
こちらに走ってきた一人がリックに言う。
「おい、アンタも早く逃げるんだ」
「今度は何が出てんだ? スライム? ゴブリン? もしかしてまたトロール?」
「今言ったのも全部いる。大群なんだよ。モンスターの大群がこの先の6番地区に現れたんだ!!」
リックは目の前の男が言ってることをよく理解できなかった。
モンスターの大群だって? 流石にありえないだろ。
しかし、もしそれが事実だとしたら。
「リーネット!」
「お、おい、待てよ」
制止する男を振り切ってリックは再び走り出した。
しばらく行くと、本当にたくさんのモンスターが町の至る所で暴れていた。
「無事でいてくれ。リーネット」
□□□
「って、考えてみれば心配する意味まるで無かったな……」
待ち合わせの第六地区にある食事処の前に行くと、リーネットが前と同じメイド服で立っていた。
そして周りには切断されたモンスターの死骸がこれでもかと言うくらい、まさしく山のように転がっている。
「あ、リック様ですか。こんばんわ」
当然本人は無事である。というか返り血すら浴びていない。
さすがSランク、完全に化け物である。
「どうやらお食事は今度ということになりそうですわね」
「はあ、そうなるよなあ……って、そう言ってる間にモンスター集まって来てるし!!」
ざっと見て50匹以上、上級モンスターもちらほらと混じっている。
その中の一体。石の鈍器を持ったコボルトがリックたちに向けて飛びかかってきた。
しかし、そのコボルトを倒したのはリーネットではなかった。
「おらぁ!!」
ズドンと大ぶりの斧がコボルトを縦に真っ二つにした。
「よお、リック。そんな可愛い子ちゃんとデートかよ。助けなきゃよかったかぁ?」
ザイードであった。
そこに新しい声が聞こえてくる。
「焼き払え、祝福の焔『フレイム・ボール』!!」
「武術・拳の型。『礫砕き』」
ザイードだけではない、他にも何人かの冒険者たちが現れ、モンスターと戦っていた。
恐らくギルド上層部が、緊急のクエストを用意して協力を仰いだのだろう。
ザイードは鼻を鳴らして言う。
「はっ、楽しくなってきたじゃねえか。おい! お前ら! ちったぁ俺の分も残しとけよぉ?」
戦況は一方的であった。
魔法使いたちの魔法がモンスターを吹き飛ばす。
戦士たちの剣がモンスターを切り倒す。
冒険者たちの戦いは手慣れたもので、自由自在に動き回り次々にモンスターを倒していった。
リックはその様子を少しだけ見た後、彼らの戦いから目を背けるように下を向いた。
「どうしたのですか? リック様」
「いや、なんかちょっと見たくなくてさ」
「何をですか?」
「誰かがモンスターと戦ってるところ。今までも見ないようにしてたからさ」
リーネットは昨日の晩、リックが言っていた言葉を思い出した。
『俺ギルドの受付で仕事してるけど、冒険者が戦ってるところ実際に見たことなくってさあ。どのくらい皆が強いか分からなかったんだよな』
受付とはいえリックはギルドで仕事をしていたのだ。その気になれば冒険者たちの戦いを見る機会などこれまでいくらでもあったはずである。
でも、一度も見なかった。見ないように努めてきた。
「なぜ、そんな事を?」
リックは下を向いたままその場に座り込んで言う。
「だってさ、嫌だったから。俺がやりたかったことを誰ががやってるところを見るのが。見たら嫉妬しちまうじゃんか。俺は冒険者になる道を選ばなかったから……そんな俺が、アイツらを羨む権利なんてねえよ。小物だよなぁ俺……かっこ悪いだろ?」
リーネットはリックの背中に優しく手を置いて言う。
「確かに、かっこよくはないですが……別に、かっこ悪いということはないと思いますよ」
その意外に小さな手から伝わってくる温もりが温かくて、惨めな気持ちが少しだけ紛れる気がした。
「ありがとうリーネット。お前ホントにいい女だよな」
■■■
18年前。12歳のリック・グラディアートルは王国国民教育学校二年時にある検査を受けた。
その検査とは『固有スキル判定検査』である。
固有スキルは極稀に発生するその人物だけの能力である。王国はこの検査によって固有スキルを持つものを選別し、その能力の種類と本人の希望によって騎士学校や魔道学院の特待生として迎え入れる。
学生たちはもしかしたら自分に凄い力が宿っているのではという期待と、滅多に発現しないものなのでどうせ自分にはないだろうという諦めの入り混じった複雑な表情をしていた。
しかし、その日のリックは憂鬱な気分一色であった。
前日に学校から出された課題を後回しにて、冒険小説を読んでいたところを父に見つかり本を捨てられてしまったのである。
その本はリックが言葉の意味もよく分からぬうちから何度も何度も読み返した『英雄』ヤマトの冒険譚であった。母親は何も言わずに二人の様子を見るだけだった。
宿題をすっぽかしていたのは、まあ自分が悪い。しかし、だ。それにしたってそこまですることはないだろう。
苛立ちやら虚しさやら悲しさやら、色々とごちゃ混ぜになったまま上の空で検査を受けたリックに、魔導士教会から派遣された魔道医師が言う。
「おめでとう。君に固有スキルの因子が見つかったよ」
最初、リックは茫然として何を言われたのか分からなかった。
「まだ、実際に習得までいってないからどんなスキルかは分からないけどね。鍛えても発現するものでもないし気楽にしてくれ。いずれ、スキルとして現れたらぜひ我々魔導士協会の門を叩いてほしいものだねえ」
魔道医師の言葉がやけにはっきりと聞こえたことは、今でもよく覚えている。
リックはその日の学校の帰り、息を荒上げながら走った。
「ぼ、ぼくに、固有スキルが……」
特に理由はない。とにかく走りたい気分だった。
しかし、ふと立ち止まる。
両親がいつも自分に言う言葉を思い出したのだ。
『冒険者はいつ死ぬか分からない危ない職業よ。できれば他の安全な道に進んで欲しいわ』
『お前もいずれ家庭を持つんだ。安定した真っ当な仕事につけ』
冒険者に憧れる自分を父や母が快く思っていないのは知っている。昨日のことでそれを改めて思い知らされた。
「でも……僕にはあるんだ、『英雄』ヤマトも持っていた固有スキルが……」
そして決意した。この固有スキルが発現したら自信を持って二人に言うのだ。自分は将来、冒険者になると。
リックはまだ小さな拳を強く握って、大きな空に力一杯突き出した。
強く、強く、大きな夢に向かって、その手を伸ばすように。
だが。
リックの固有スキルが発現することはなかった。
1年経っても。3年経っても。
いつまで経っても、リックの固有スキルが発現することはなかった。調べたところによれば、因子は持っていても能力が発現しないという例は少ないながらもあるとのことだった。
できるだけ若いうちに基礎となる訓練を受けるべき。そんな冒険者の常識がリックの胸をチリチリと締め付けていく。
そして気が付けば、6年が経っていた。まだスキルは発現しない。
あと一か月で国民学校の卒業がせまったある日、リックの手の中にはある一枚の紙があった。
『おめでとうございます。この度、ギルド『タイガー・ロード』は貴方を受付職として採用させていただくことになりました』
リックはその紙を見ながら、一人思うのだった。
ああ、うん。世の中そういうものだよな。と。
両親はいたく喜んでいた。
■■■
「これでラストおおおおおおお!」
ザイードがトロールを袈裟に切り付けて倒した。
「おう、リック。終わったぜ」
その言葉を聞いてリックは顔を上げた。モンスターは全滅。人間側の犠牲者は一人もいないようだった。
「お疲れ様……どうだ? たくさん稼げたか?」
「おう。明日の換金が楽しみだぜ。うーん。それにしても、異常だよなあ」
「ああ、そうだな」
二人が唸っていると、リーネットがたずねてくる。
「どういうことでしょうか?」
「リーネットは最近こっちに来たんだよな? 受付で顔見たことないし。俺生まれてからずっとシャンクワットに住んでるけど、今まで5回しかモンスター現れてないんだぜ? それも現れてもせいぜい下級モンスターが数匹とかさ。それがこの前はボストロールに今度は巣の中ひっくり返したような大群だろ?」
「こりゃなんか原因があるな。近いうちにギルドと魔導士団で周辺を調査することになるだろうぜ」
その時。一人の冒険者が空を指さして叫んだ。
「お、おい。あれ……あれ見ろ!」
その言葉に皆が目線を空に向け、そして、その場に立ち尽くした。
ザイードが震える声で言う。
「嘘……だろ!? なんで、なんでこんなところにドラゴンがいるんだよ!!」
上空に巨大な影があった。
ドラゴン。
言わずと知れた、全モンスターの中でも最強クラスの強さを誇る種族である。
その強さはもはや自然災害の一つとして考えられるほどであり、ギルドにおいてもAランク冒険者5人以下のパーティは即座に逃げることを推奨している。
しかし、生息地はもっと強力なモンスターの頻出する地域であり、こんな田舎町に来ることなどありえないはずだった。
ドラゴンは羽ばたくのを止め、悠々とリックたちの前に着地する。
体長は優に50メートル以上。尻尾も含めた全長にして100mはくだらない。
この時、その場にいた全員が理解した。
コイツが原因だ。
ここ最近の町でのモンスターの異常発生。挙句の果てに一帯の主であるボストロールまで町に現れたのは。皆この怪物から逃げてきたからだったのだ。
驚愕に目を見開いていたリックだったが、すぐにもう一つの違和感に気付く。
リーネットが身を丸めて苦しそうにうずくまっているのだ。
「リーネット!? おい、大丈夫か?」
「す、すみま……せん。大丈夫です。昔のその、トラウマのようなものでドラゴンの魔力にあてられると、体内の魔力が全くコントロールできなくなってしまうんです」
「それ、全然大丈夫じゃねえよ!」
魔力は簡単に言えば体内に常に流れるエネルギーであり、訓練を受けていない一般人でも普段から無意識にその力が暴走しないように制御している。もし、それが乱れれば体は動かなくなり内側から体を傷つけ始めてしまう。しかも、リーネットはSランクになるほどの魔力の使い手であり、その保有量はリックのような一般人とはケタが違うはずである。
「ダメだ。今ここにいる戦力じゃ全く歯が立たねえ。お前ら、逃げるんだ!!」
ザイードの声に金縛りが解けたかのように、一斉に皆が逃げ出す。
リックもリーネットを抱きかかえると、すぐさまドラゴンとは反対方向に駆け出した。どうにかして逃げ切って一度、医者に見せなければ。
が、少し進んだところで壁のようなものに阻まれる。
見れば他の者たちもその壁に阻まれ逃げられずにいた。
「ちくしょー、何だこれは!?」
ドラゴンが周囲に結界を張り巡らせているのである。大型モンスターはその性質上動きが鈍重なことが多い。だから、ドラゴンのような強い魔力を持つ種族の中には、結界を張りその中に獲物を閉じ込めるものがいる。
そう、この場の人間たちは獲物なのだ。今から始まるのはドラゴンによる一方的な蹂躙である。
何人かが魔法や武器を叩きつけるが、ビクともしなかった。
「クソッ!! かなり強力な結界だ! ダメだ、これじゃあ逃げられない」
「嘘だろ!」
「いったいどうすれば……」
混乱する冒険者たち。そして。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!」
ドラゴンが咆哮した。
獣の鳴き声を何百倍にも増幅させたかのような音圧と威圧感が、周囲を駆け巡る。
「あ……ああ……」
戦士は鍛え上げられた剣をその場に落とした。
魔法使いの口からは呪文ではなくただ神に奇跡を祈る言葉が紡がれた。
日夜モンスターと戦ってきた冒険者たちが次々と膝を折って茫然とする。
皆がその場から動けなくなってしまっていた。
冒険者とは日頃から体を張って、時にはその命を危険にさらして戦う職業である。ここに集まった男たちも、皆一度は『勝てないかもしれない』『死ぬかもしれない』と言う戦いを経験していた。
しかし、今回はわけが違うのだ。『絶対に勝てない』という圧倒的な絶望と『絶対に死ぬ』という確実な死の恐怖がただそこにあった。
唯一、この場でドラゴンを倒せるであろうリーネットは動くことすらできない。
もはや万策は尽きている。
そして。
唯一その場にいた人間の中で、戦いを生業とするものではないリックは。
「リック様……?」
いつの間にかドラゴンに向けて歩み出していた。
□□□
「お、おい! 何やってんだアイツ!?」
皆が驚愕する声が聞こえる。
「待てリック! お前が立ち向かって何になる、いったい何ができる!?」
そう言ったのはザイードだった。
「無駄死にするようなマネはよせ!! お前は冒険者ですらないただのギルドの受付だろ!!」
「そうだな。お前の言っていることは全くの正論だよ……」
そんなことはリック自身にもわかっている。ザイードの言う通り自分はただの受付員だ。自分で言うのも悲しいが、14年間書類仕事ばっかりしてた運動不足の冴えない中年オヤジなのである。目の前のドラゴンに勝てるなんて思えない。今すぐ逃げ出して泣きながらその辺にうずくまってしまいたい。
それでも、リックはもう一歩、ドラゴンに向けて踏み出した。
「ただ……なんだろうな。この場にいる誰も、アイツに挑もうとしてないなって。そう思ったらさ、どうしても立ち向かいたくなったんだよな」
ザイードにはリックが何を言ってるのか分からなかった。ポカンと口を開けてリックを見る事しかできなかった。
「それに、もしこれで戦って死ぬとしたら。俺はさ、こんな俺でも冒険者だったって言えるんじゃないか……とか、思ったりもしてな」
そう言ってリックは二カリと笑った。
「お前のこと、ずっと羨ましいと思ってたんだぜザイード」
「……リック、お前」
リックはザイードを後目に一歩ずつ歩を進める。
圧倒的な絶望に向かって、確実な死の恐怖に向かって。
少しずつ近づいてくるドラゴンの異形。
あの巨大な足で踏みつけられたら跡形もなく潰れるだろう。
あの巨大な爪で一突きされたら体に大穴が開くだろう。
あの巨大な尻尾に打ち付けられたら全身の骨が砕けるだろう。
こちらの攻撃はあの強靭な鱗と分厚い皮膚で無効化されてしまうだろう。
明確に浮かぶ死のビジョン。
本能と理性が叫ぶ。『止まれ』と。
だが魂が叫ぶ。『戦え』と。
両親の言葉が頭をよぎった。
『冒険者はいつ死ぬか分からない危ない職業よ。できれば他の道に進んで欲しいわ』
だが、この足は止まらない。
『お前もいずれ家庭を持つんだ。安定した真っ当な仕事につけ』
だが、この心臓はドクドクと熱い血液を全身に送り込む。
事ここに至ってリックは確信する。
そうだ、これがしたかった。
繰り返す日常の中で、安心という檻の中で、ずっと、ずっと、ずっと。
ずっと俺は、こんな風に生きたいと願い続けていたのだ。
皆がリックの姿を見ていた。
たった一人、あの男だけがその場で動いていた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
ザイードは大声を上げて立ち上がった。
「おい! お前ら。恥ずかしくねえのか! あそこにいるアイツは何の力も持ってねえ。なのに戦うことで飯食ってる俺たちが先に諦めちまってるじゃねえか」
ザイードは落としかけていた斧を両手で持って背中に担ぎ、ドラゴンに向かって歩き出した。
「お前らはどうするんだ!? 俺はいくぞ、俺は戦うぞ。ドラゴンだろうが何だろうが知ったことか。アイツと同じだ。俺は戦わずに死ぬなんてごめんだぜ!!」
少しの間。やはり皆、動かなかった。
強大な敵に歩を進める二人の男の姿を見つめるだけだった。
だが、やがて一人、また一人と動き出す。
戦士たちが落としていた剣を拾い上げ、二人の後を追った。
魔法使いたちがただ奇跡を祈るだけの言葉を止め、二人の後を追った。
冒険者たちはザイードと同じように雄たけびを上げながら立ち上がり、二人の後を追う。
「……」
リーネットは魔力の乱れによる激痛の中、その様を見ていた。
不思議な光景だ。
立ち向かうという強い意志を秘めた男たちが群をなして強敵に向かって行く雄々しい姿。だが、その先頭に立つのは、本当に何も持たないただの中年の男なのだ。
いや。ただ一つだけ、彼がこの場の誰よりも持っているとすれば、それはきっと。
『勇気』というものに違いない。
立ち上がった冒険者たちを引き連れて、その受付員は声高々に言う。
「さあ、行くぞドラゴン。これが俺の最初の冒険だ!!」
□□□
「……なあ、リック」
背後のザイードはリックの肩を叩いて言う。
「一つだけ、もしかしたらあのドラゴンを倒せるかもしれない手段がある」
そう言ってザイードが懐から取り出したのは小ぶりのダガーだった。
特徴的なのは刀身の部分である。刃ではなく、真ん中から半分ずつ赤い魔法石と青い魔法石がついているのだ。
「『イグニッション・ダガー』。Bランクに上がった記念に買った攻撃用アイテムだ。少々値が張るが、「イグニッション」って叫んで振り下ろせば反発する性質の魔法石同士の反応で、強い爆発を起こせる。ドラゴンの弱点は後頭部と首の境目の部分、人間でいううなじのところだ。首の繋ぎ目は鱗が薄いからな。そこにコイツをぶちこんでやるのさ。それでも、倒せるかどうかは分からねえが……」
「そうか、やっぱり現場でガンガン戦ってるやつの知識ってのは凄いな。こんな状況でも切り抜ける術を思いつくんだからな……よし、じゃあ、俺は陽動を」
「いや……」
ザイードは首を横に振ると。
「リック。お前がやるんだ」
リックに『イグニッション・ダガー』を差し出してきた。
「おいおい、それはさすがに普段から戦いに慣れてる冒険者たちの方がいいんじゃないか?」
「理由は二つある。まずはドラゴンが一番頼りにするのは、視覚でも聴覚でも触覚でもない。魔力察知覚、要は魔力の動きを感覚的に感じ取っているんだ。だから、気づかれずに接近するならリックみたいに魔力量が少ない人間の方がいい。そして、二つ目の理由だが……」
ザイードはリックにニヤリと笑って言う。
「あのデカブツに、ゼロ距離で飛びつこうってんだ。最初に立ち上がった勇気を俺は買うぜ。なあ、そうだろお前ら!!」
ザイードが背後にいる冒険者たちにそう言った。
誰一人として文句を言う者はいなかった。皆、リックの方を見て頷いている。
何か言うわけではないが、その視線から万の言葉よりも彼らの意思が伝わってくる。
お前以外に誰がいるんだ、カッコいいとこ見せてくれよ、と。
「……ああ、任せろ!!」
リックが『イグニッション・ダガー』を受け取る。
「よし。じゃあ行くぜお前ら!! 今日の主人公様の行く道をせいぜい切り開いてやるぞ!!」
「「「おう!!!!!!」」
冒険者たちは、そう言って一斉にドラゴンに向かって駈け出していった。
魔法が投擲が武器による打撃や斬撃が、次々にドラゴンの巨体に降り注ぐ。
それは、ドラゴンの強靭な皮膚と鱗に阻まれ、まともなダメージを与えるには至らないが……。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!!」
それでも、小さな虫に群がられて噛みつかれれば、痛いし鬱陶しいものだ。ドラゴンは巨体を振り回し、まとわりついてくる羽虫を叩き潰そうとする。
「来たぞ!! 回避だ!!」
巨体が無造作に動くたびに建物は壊れ、地面が抉れて行く。一撃でもまともに食らえばただでは済まないが、冒険者たちは必死でそれを躱しながら攻撃を加えていく。
そんな攻防の暴風雨の中をリックは進んでいく。冒険者達と違い魔力による防御や身体強化が使えないリックは、それこそドラゴンの一撃どころが、味方の攻撃に巻き込まれただけでアウトなのだが、それでも決意の前身は止まらない。
(だってそうだろう。ここで燃えなくてどうする)
ギルドにおいて事務員は脇役だ。大事な役割とは言え主役は実際にクエストをこなす冒険者たちなのは、言うまでもないだろう。そんな冒険者たちをずっと心の奥で羨望してきた脇役(リック)が今、彼らに主役を託されたのだ。
胸が熱い、心が躍る、全身に力が漲る。
リックはドラゴンの近くにある建物に上るとダガーを構えて、ザイードに合図を送った。
頷くザイード。
「万象滅却せよ、第三界綴魔法『フレイム・イリミネート』!!」
ボンと!! ザイードの手から放たれた火球が、ドラゴンの頭部に向かって飛ぶ。
しかし、ドラゴンは巨体ではあるが鈍重なモンスターというわけではない。軽く首を動かして、見え見えの直線的な魔法攻撃はかわされてしまう。
しかし、ザイードは笑う。そう、その方向だ。
ドラゴンが首を傾けたことで、リックのいる建物との距離が縮まった。
「たあ!!」
そして、リックは飛ぶ。
両手でダガーを握り絞め、ドラゴンに向かって。
「イグニッション!!!!!!!!!!」
叫ぶと同時にドラゴンの弱点、後頭部と首の継ぎ目の鱗の薄い部分に向かって魔法道具を振り下ろした。
ドゴオオオオオオオオオオ!!
と爆発が起きた。
爆発の衝撃はかなりのもので、リックは空中に投げ出された。
その体を、魔術師の捕獲用魔法がキャッチする。
「いってえ、死ぬかと思ったぜ……」
そして、ドラゴンは。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
苦痛にのたうち回っていた。
やはり弱点に叩き込まれた爆発は凄まじいダメージだったらしい。
「今だ!! 畳みかけろ!!」
ザイードの言葉と共に、冒険者たちが一気呵成にこれまでよりも激しい攻撃をドラゴンに叩き込んでいく。
それはリックと冒険者の『勇気』が生み出した奇跡であった。
前提としてドラゴンは、今この場にいる戦力でどうにかなるような相手ではない。しかし、奮い立った冒険者たちは決死の覚悟で普段では出せないような火事場の馬鹿力を発揮して攻撃を叩き込んでいた。本来、危険に挑みながらも生き延びることを最優先にする冒険者たちではありえない。そんな彼らの勇気を奮い立たせたのは間違いなくリックだ。
そして、本人もただの一般人でありながらドラゴンに飛び乗り、ゼロ距離で直接攻撃を叩き込んで見せた。
それはなんとも、英雄の冒険譚のようで。
『勇気』という人間の輝かしい力が生み出した美しい光景で。
……だが。
この世には『現実』というものが存在する。
ドラゴンが大きく息を吸い込む。
ザイードが叫ぶ。
「まずい! 全員自分のできる最大の防御を使うんだ!」
次の瞬間。
ドラゴンの口から凄まじい衝撃波が膨大な魔力を乗せて放たれた。
ドラゴンの攻撃の代名詞。全てを破壊し尽くす息吹。ドラゴンブレスである。
勇敢に歩を進めていた男たちは、なすすべなく吹き飛ばされた。地面が抉れ、ブレスの通り道にあった建物は根こそぎなぎ倒されていく。強化魔法による防御力の強化も神性魔法による防御結界もまるで役に立たなかった。
誰も死ななかったのは奇跡的と言うものだろう。先ほどの魔導士たちの祈りが神に届いたとしか思えない。
だが、冒険者たちは再び動き出すことができないほどに体と心を打ち砕かれていた。
たった一撃でこの有様なのである。敵はドラゴン。魔物の中でも最強を誇る種族。多少気合を入れたところで勝てる道理がない。
皆そのことを理解してしまった。今度は誰も立ちあがれない。
リーネットは悔しさに唇を噛む。自分が動けさえすれば、こんなことには。
だが、ドラゴンの魔力に触れるだけで恐怖が蘇り、どうしようもなく魔力がコントロールできなくなってしまう。体が動かない。こうなってしまってはSランクなど意味がない。今の自分は下級モンスターにすら一方的に攻撃を受けて蹂躙されるだろう。
ドラゴンが再び息を大きく吸い込みだす。
もうダメだ。皆が心の中でそう思った。
その時だった。
ゾワリ、と。
その場にいた全員の意識が何かを感じ取った。
ドラゴンですらその動きを止めた。
ガラッ、という音と共に瓦礫の下から一人の男が這い出して来る。
リック・グラディアートルだった。
全身はこれでもかと言うくらいにボロボロ、目の焦点はハッキリとせず、幽鬼のような有様である。
だが。
リックは再び立ち上がり、ドラゴンに向かって歩を進めた。
「…………」
「…………」
「…………」
その姿に周囲の人間たちは先ほどのように勇気づけられることはなかった。
彼らが感じたのは恐怖だった。
もはや『勇気』などという理性的で生易しいものではなかった。人間どころかドラゴンですら本能的に恐れさせるほどの無謀、無茶、向こう見ず。
『蛮勇』とでも言うべきものだった。
リーネットも他の者たちと同じことを思っていた。
なぜ、そこで立ちあがれるのか?
なぜ、あれだけのどうしようもない力の差を見せつけられて、歩を進めることができるのか?
「リック様、あなたは、いったいなぜ……」
「……現実なんて……何も知らなかったガキの頃……俺の……夢は、誰も倒せなかった伝説のボスを倒すことだった……」
リックは息も絶え絶えになりながら言う。
「いや……本当は、今だって……いつだってそうだ……俺の夢は今日までたった一度だって変わったことなんかねえんだ!! だからよぉ。テメエみてえなただのトカゲやろうに、ビビってなんかやれねえんだよ!!」
そんなものは夢物語だ。だいたいお前はその年で冒険者ですらないじゃないか。
そんなことは、その場にいる誰も口にできなかった。むしろリックの姿を見て、かつての自分達も子供の頃に同じ夢を描いていたことを思い出し、そして思うのだ。
もしかしたら、この男なら、と。
しかし、やはり目の前には『現実』がある。
ドラゴンはリックへの本能的恐怖を振り切ると、足を振り上げ踏みつけようとする。
(ああ、デカい足してるんだなドラゴンは)
リックの頭はどこか冷静だった。走馬灯だろうか。迫ってくる巨大な質量の塊がやけにゆっくりに見える。
あれで踏みつけられれば一介の人間など、割れた水風船のような無残な姿になってしまうだろう。
(まあ、そうなるよな……『現実』、これが『現実』。俺みたいに今までビビって踏み出さなかった人間は、ここで本物の力に踏みつぶされて終わり。うん、分かってる、分かってるって。もういい歳だもん俺)
目前まで迫るドラゴンの足。
(分かってるのに、立ちあがっちゃうんだよなぁ。何度諦めようとしても、また気が付いたら胸が熱くなってる。うん、ああ。そうだよ……やっぱ俺はどうしても……)
リックはドラゴンの足に向かって手を伸ばした。
(あの夢を、この手に掴みたい)
その時、リックの耳に聞いたことのない無機質な声が響いた。
『スキルを取得しました。固有スキル『蛮勇覚醒(レクレス・ソウル)』を発動します』
ドオォォン、と。巨大な足がリックに降り注いだ。
□□□
「リックウウウウウウウウウウウウ!」
「リック様あああああああああ!」
ザイードとリーネットの叫び声が響き渡った。
他の皆は沈黙するしかなかった。残虐なほどの力の差に、現実を前にした意志の力と夢の儚さに。今度は自分たちの番だ。無残に何もできずに蹂躙されるのだろう。
が。あることに気付く。
ギリギリと、少しずつだがドラゴンの足が浮いていくのである。
誰かがこう言った。
「お……おい、見ろよあれ」
信じられないことが起こっていた。
踏みつぶされたと思っていたリックが、右手一本でドラゴンの踏みつけを受け止め、なおかつそのまま押し返しているのだ。
ドラゴンはさらに強く体重をかけて、目の前のちっぽけな存在を踏みつぶそうとする。
しかし、リックは潰れない。眉一つ動かさずにドラゴンの膂力を押し返し続ける。
今度はリックが手に力を籠める。
肉が抉れる音と共にリックの指がドラゴンの足に食い込んだ。
悲鳴を上げるドラゴン。
リックは右腕にさらに力をいれて、ドラゴンの足を完全に押し戻す。
下から押し上げてくる想定外のパワーに、巨体が一瞬宙を舞い、バランスを崩して地面に倒れた。
「な、なんだよありゃあ……ホントに、リックなのか?」
ザイードはもはや目の前の現象を上手く脳が処理しきれていないのか、瞬きすら忘れてその光景を見つめることしかできなかった。
一方、リーネットも驚愕にその端正な顔を歪めていた。
リックの体を紅色のオーラのようなものが包んでいる。
「どうなっているのですか……膨大な魔力が溢れだしてハッキリと目に映るほどに可視化しているなんて……」
リックは『魔力』を鍛えずにすでに30歳になる。これだけの量の魔力を生成できるはずがない。なにより完全に可視化するほど純度の高い魔力を生成できたのはこの世界でたった一人……『英雄ヤマト』だけなのだから。
リックはオーラに包まれた自分の手を見つめる。
そして思った。
ああ。今頃か、今頃になって……。
少年の日に夢見た、何度も何度も思い描いていた自分だけの力が……今、この手の中に。
(遅いんだよ馬鹿野郎が……もう、おっさんになっちまったじゃねえか)
リックはグッと拳を握る。
「おい、立てよトカゲやろう。テメエをぶちのめして、そうだな……背骨を釣竿の素材にしてやる。だからさっさとかかってこい」
リックの言葉に答えるかのようにドラゴンは翼を広げて飛び上がった。
空中から接近し、その長く強靭な尻尾を鞭のようにしならせリックに叩きつける。
襲いかかる鱗に包まれた鞭に対して、リックは無造作に裏拳を放った。
グジャアっと、ドラゴンの尻尾が腸詰か何かのようにリックの拳が当たった先から肉と血をまき散らしながら吹っ飛んだ。
ドラゴンは再び激痛に悲鳴を上げたが、最強種として生まれたものの矜持なのかすぐさま次の攻撃を繰り出す。
ドラゴンブレスである。
大きく息を吸い込み。エネルギーと魔力を肺の中で練り上げる。
「リック!」
「リック様!」
ザイードとリーネットが叫ぶ。
リックは右手で握り拳を作り振りかぶると、ギリギリと拳に力を籠める。
そして、放たれるドラゴンブレス。先ほどの一撃よりも遥かに濃度の濃い魔力と巨大な衝撃波の濁流がリックに向かって押し寄せる。
リックも空中に向けて拳を撃った。同時に全身にまとっていたオーラが、一直線にドラゴンに向かって放たれる。
奇しくもその姿は、幼きあの日、自らの中に眠る可能性知ったあの日に拳を天に突き上げた姿と同じであった。
激突する両者の一撃。
しかし、勝敗は瞬時に決した。
リックの放ったオーラはドラゴンブレスを一瞬で押し流し、ドラゴン本体に直撃。
今度は悲鳴を上げる間すら与えず、体の半分から上を跡形もなく消し飛ばし、それでも止まらず夜空をかき分け雲を吹き飛ばし、大気圏すら超えて宇宙に漂っていた直径1kmの岩を木っ端みじんに粉砕した。
浮力を失い。半分になったドラゴンの巨体が地面に落ちて、大きな砂煙を上げる。
「はあ、はあ、はあ……へっ、こりゃ来週末の釣りが楽しみだな……」
リックはそう言って、その場に倒れこんだ。
□□□
リック・グラディアートルが目を覚ましたのは病室だった。
「いってえええええええええええええええええええええ!!」
ちょっと体を動かそうとしたら、全身に激痛が走った。
「無理をしないほうがいいですわ。全身の魔力回路がめちゃくちゃに壊れて、ほとんど死人みたいな状態だったのですから」
何とか首を横に動かすと、リーネットの姿がそこにあった。相変わらずのメイド服である。
「俺、どれくらい眠ってた?」
「二週間です。ベッドから起きられるようになるのは、まあ、あと一か月後と言ったところでしょうか」
……有給申請できんのかな。
リックがそんなことを考えているとリーネットが話を始めた。
「出会った夜に言ったことを覚えていますか?」
「ああ、『俺が今から冒険者になってやっていくのは、ほぼ不可能』だったな」
「はい。アナタは私にそう言われてスッキリしたとおっしゃっていましたが。まあ、大嘘でしたね。冒険者たちの戦いは見たくないと言うし、ドラゴンにも向かって行くし。どう考えても冒険者やりたくてしょうがないんじゃないですか」
「……悪かったな。諦めきれねえんだよ、馬鹿だから」
「そうです。無理と言われても諦めなかった。だからこそ、私はアナタをお誘いするためにずっと待っていました。不可思議な力でドラゴンを倒したアナタではなく、なんの力も持っていなくてもドラゴンに向かって行ったアナタを」
「え? それってどういう……」
「私の所属する大陸最強と言われるパーティ『オリハルコン・フィスト』にいらしてください。そこで修行をすればアナタは強くなれます」
「えーっと」
リックは何とか思考を整理しようとする。
つまりどういう事だろう。Sランク超一流冒険者であるリーネットに俺が勧誘されてるのか? しかも、大陸最強のパーティ?
リーネットがリックの手を取って、真っ直ぐに目を見つめて言う。
「私が保証します。アナタはきっと冒険者としてやって行けます。いえ……なるべきです冒険者に!!」
病室にしばし沈黙が横たわった。
「……ああ、そう言えば。初めて言われたな」
「え?」
「冒険者になるべきだって……今まで反対されるか、微妙にお茶を濁した感じの言葉しか聞いたことなかったからさ。そうやって真っ直ぐ目を見て、本心から断言してもらえたの初めてだ」
リックの中にリーネットの言葉が染み渡っていく。
「……なあ、目指していいんだよなぁ」
気が付けば瞳から涙がこぼれていた。
「……ずいぶん遠回りして、遅くなっちまったけど……俺は、冒険者になってもいいんだよなぁ」
30歳のいい歳こいたオッサンが人目をはばからずボロボロと泣き崩れる。
「はい。そうですよ。なっていいんです冒険者に。私が協力しますよ。一緒に頑張りましょう」
ああ、うん。ずっと、その言葉を誰かに言って欲しかった。
この夢は誰かに認められるもので、この夢を応援してくれる誰かがいると思える言葉を。
「『オリハルコン・フィスト』の最終目的はアナタの夢と同じ、『英雄』ヤマトすら成しえなかった隠しボスの攻略ですから。アナタのようなお馬鹿でなければ務まりません。覚悟しておいてくださいね。アナタには隠しボスとの戦いで活躍できるようビシビシと鍛えてもらうつもりなので」
「おいおい……怖いこと言うなよ……」
リックは涙を拭うと、満面の笑みで言う。
「だが上等だ。言ったろ、俺の夢も同じだってな。どんなキツイ特訓だってかかって来いってんだ。究極のモンスター『カイザー・アルサピエト』は俺が倒す!!」
この後、リックは『オリハルコン・フィスト』の一員となり、二年間まさに地獄のような修行をすることになるのだが、その時は勇ましくそんなことを言ってのけたのである……できれば優しく鍛えてくださいと言っておけば良かったかなあと、後々後悔することになったのは言うまでもない。
――――
次回から、新章騎士団学校編スタートです!!
「なんや、意外と熱いやつやないか」と思っていただけたら、応援メッセージや★をいただけると作者のテンションがぶち上がります!!
岸馬きらく
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