桜の夏
仲咲香里
第1話 君との始まり
——あ、彼女だ。
と気付き、キャンパス内にある図書館から本館へと向かっていた
視界が開ける。心が、鳴り出す。
彼女が見上げるその木に、その光景に、知らず蒼一にくすぐったい笑みが浮かぶ。忘れられたくないと、健気にも蒼一の記憶を呼び覚ますかのように、あの日と符合するから。
勿論、偶然だろうけれど、どちらにしろそれは杞憂に過ぎない。
正門から、およそ三百メートルはあるだろうか。国立K大学本館の正面。大学創立記念に植樹されたという一本の桜の木の側に、
五月。
新緑の季節だ。
蒼一が初めて七菜を見たのも、この場所だった。
大学に入学し一週間ほど経った頃、風に踊る花びらに誘われるように送った視線の先に、七菜はいた。
その頃は、真新しい黄緑色の葉を付け始めたばかりの桜を、七菜が一人、見上げていた。
柔らかな日差しと、ふわりとなびく長い髪、優しい微笑みを乗せた、横顔。
宙を舞うピンクの花びらが蝶のように添い、揺れる春色のスカートが、七菜からそよ吹く雰囲気に良く似合っていた。
その瞬間、蒼一の胸が時を止めた。
それは初めての経験だった。
名前も知らない相手に、高鳴ったまま熱を帯びていく鼓動と、感覚の全てを奪われて澄んだ思考に、たった一つの言葉しか浮かばない。
『彼女が好きだ』
囁やくように蒼一の内から湧き出た想いは、自分でも恥ずかしくなる程に、他のどんな言葉にも置き換えることができなかった。
『俺は彼女に、恋をした』
それ以来、彼女がいつも記憶の中枢で揺らめいて、胸を占めて離れない。あれから一ヶ月も経つというのに、あの日のことは全てが鮮明に蘇る。
——今なら一人だ。俺も、彼女も。
おそらく七菜は、いつも一緒にいる友人を待っているのだろう。
——言うなら今だ。友だちが来る、その前に。
静かに温め続けた七菜への想いを、蒼一が確認するよう胸に手を置く。上昇を続ける拍動が、胸から、手から、ダイレクトに伝わる。
蒼一は目を瞑り、一度軽く深呼吸した後、一つの鼓動に合わせ目を開けた。数メートル先の七菜へと、最初の一歩を踏み出す。
一歩進むごとに増していく身体中の緊張感には、早足で見ないふりをする。
もし、なんて今は考えない。
晴れ渡る空も、爽やかな風も、あの白くたなびく飛行機雲も、全部が蒼一に味方してくれる気さえする。
そう感じさせる歩みで。
七菜まで蒼一の歩幅で後三歩。そこで蒼一は、足だけ止めた。
彼から感じるのは自信ではなく、ただ、想いを伝える、そんな表情か。
「……あの、
七菜が反射的に振り向く。
あの日なびいた髪は後れ毛を残し、今日はすっきりとまとめられている。スモーキーピンクのキャミワンピースが、どことなく四月の桜を思い出させる。
「法学部一年の高橋蒼一と言います。好きです。良ければ俺と、付き合って下さい」
おそらくこれが、七菜にとっては蒼一との初めての出会いになるだろうことは、蒼一には分かっていた。こうして突然に想いを伝えることで、彼女を困惑させるだろうことも頭では分かる。
けれど滑稽な程、他の台詞が思い浮かばなかった。あんなに色々考えたのに、口をついて出たのがそれだった。
緊張を隠し切れない顔で、しかし、真っ直ぐ七菜を見つめて一気に告白した蒼一を見る七菜の表情が、戸惑いを如実に物語る。
それでも、七菜の目に映ることができた。声を掛けることができた。
初めて、君の名前を呼べた。
それだけでも蒼一には大きな進歩だ。
それがまさか告白になろうとは、七菜は思いもよらなかっただろうけれど。
七菜の返事を待つ蒼一の心臓が、空気を伝わり七菜へまで届いてしまいそうな程大きく鳴り響いている。
「……あ、え?」
一瞬の間が空いて、七菜の顔がみるみる赤くなった。
そして、辺りをきょろきょろと見回し何かを考えるように七菜が視線を上に向ける。
案の定、困っているようだ。
「あの、あの……。ごめんなさ……っ!」
「……なんて急に言われても、小松崎さん、俺のこと全然知らないよね?」
「あ……、はい……」
「ごめんなさい!」と言いかけて、深々と頭を下げていた七菜が、蒼一の言葉で顔を上げた。
「驚かせてしまってごめんね? でも、俺のこともっと良く知って欲しいから、友だちに、なってくれませんか?」
言ってしまってから、蒼一もまた揺らぐ瞳で一瞬だけ七菜から視線を逸らした。
しかし、それを悟られる前に元に戻す。先程とは別の緊張感を持って。
「あ、えっと……、友だち、なら」
七菜が、戸惑いながらもそう答えた。
「……本当に?」
「あの、……はい」
こくん、と小さく七菜が頷く。
「良かった!」
途端蒼一が、はじけるような笑顔を見せた。
大人びた顔から放たれる、嬉しさと安堵が入り混じったきらきらと輝くようなその笑顔に、七菜が一瞬ドキリとしたようにも見える。
「蒼一ー!」
そのタイミングで本館の方から蒼一を呼ぶ声がする。一度そちらを振り向いてから、蒼一はもう一度七菜に向き直った。
「じゃあ、これからよろしくね、小松崎さん」
本来の自分を取り戻した顔で、蒼一が七菜を見つめる。
いや、その時の笑顔には、普段以上の輝きが溢れていたかもしれない。
「はい……」
恥ずかしそうに下を向いて答える七菜に、
「また明日!」
蒼一は笑顔を残し、軽い足取りで自分を待つ友人たちの元へと走って行った。
***
——こういうの、何て言ったかな? あ、そうだ。
「ドア・イン・ザ・フェイス」
ぽつりと呟きながら駆け寄って来た蒼一に、
「は? ドアが何て?」
「何? 英語のレポートでもあんの?」
蒼一とは対照的な、少し軽薄な印象の友人たち二人が続けざまに突っ込む。
そんな彼らに「別に」と軽く首を振った蒼一だったが、意に介する者はいなかった。
狙ったわけではないけれど、七菜の反応はまさにその効果だったようにも蒼一には感じられた。
——でも、それでも、今、俺は……。
いまだ高鳴る鼓動を落ち着かせるように、蒼一が平静を装い友人たちを促して歩き出す。大抵のことなら笑顔で
「それより今の誰? 何の話?」
「どうせまた告られてたんだろー?」
ある程度、答えを予測したように問う友人たちのその質問に、
「内緒」
と、右手の人差し指を唇に当てつつ答えた蒼一だったが、思わず顔がはにかむ。どうやら蒼一の得意技も、こと七菜に関しては効力が弱まるようだ。
そんな蒼一の反応に「ぜってーそうじゃん! 」と非難の目で友人たちが抗議する。
「ホント、蒼一にしろ
「ま、悠人は
これから落ち合う予定の悠人たちを引き合いに、ぎゃいぎゃい騒ぐ彼らの声すら今の蒼一には心地良く聞こえる。
「悠人は見かけほど軽くないよ」
蒼一のその答えを、果たして彼らはまともに聞いているのだろうか。
春の午後、先程よりも明るく感じる太陽光を全身で浴びながら、蒼一が七菜と交わした初めての会話を反芻する。
律儀に返す今日の蒼一の笑顔がいつもより眩しいと、彼に見惚れ、立ち止まる誰もが息を呑む。
満たされた顔で青い空を見上げ、弾むように石畳みの上を歩く蒼一の心には今、どんな想いが溢れているのだろう。
不確かだろうと確固だろうと、未来はいつだって全力の過去が形作っていく。
この一つの出会いが、彼らの全ての始まりだったように。
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