第36話 『子供達』は再び立ち上がる

 セシュナは目を醒ました――ずっと目覚めていたはずなのに、それでもそう感じたのは、まるで世界の全てが生まれ変わったかのように思えたからだった。


 そうしてまず彼は、眉間を貫きかけた黒い触手をしっかと掴み取った。


「――――」


 厳密には手で掴んだ訳ではない。掌が存在する空間と触手が存在する空間を切り離すことで、触手の進路を閉ざしたのである。


 液体のような触手は、空間の“境界”で捕らえられてもなお、雫を撒き散らそうとする。

 そこまで思考して、セシュナは今更驚愕を覚えた。


 変わったのは世界ではない。

 自分自身だ。


 彼は黒い触手の元を辿り、そして見つける。

 かつてヒルデであったはずの何か。止め処なく溢れる暗闇の奔流が崩落した屋根を軽々と越え、白い円塔よりも遥かに高く天を衝く。


(“開花エネルゲイア”? ……いや)


 以前見た“開花エネルゲイア”に、ここまでの凄まじさは無かった。


 何よりも眼窩に走る痛みの大きさが、全てを物語っている。

 まるで“女王株クイーン”を目にした時のような。


 セシュナは掴んだ触手を握りつぶし、それからすぐに跳ね起きた。柱からこぼれ落ちてくる暗黒の分流に向けて、左手を翳す。

 指先が俄に揺らいだ。


 景色を溶かすように、空間へと紋様が刻まれていく。ミロウが紡ぐ静寂の言葉ウユララに良く似た、幾何学的な輝く文字の集合体。

 飛来する幾筋かの漆黒が刻まれた空間の断裂に衝突し、無残な黒い花を咲かせた。


「……セシュナ、君?」


 立ち上がったセシュナを見上げて。


「セシュナ君。あなたは、セシュナ・ヘヴンリーフ君。間違いない?」


 仮面の向こう、夜色の瞳が微かに揺れている。

 セシュナは頷いた。


 何度か拳を作り、身体の状態を確かめながら。


「……うん。どうやら上手くいったみたい」


 迫る死を乗り越え、肉体の軛を逃れて精霊へと至る。

 それは、妖精族エルフが辿り着かんとする生命の形。体内の霊素エーテルを活性化して肉体を再構成し、意思を保ったまま霊素エーテルの純粋集合体へと変質すること――自身を魔法マギアそのものへ変換すること。


(……今なら全部分かる。どうしてなのか、分からないけど)


 セシュナは顔を上げて、雷雲を穿つ巨大な闇の柱を見た。

 その強烈な変質霊素エーテルの奔流と、今のセシュナは変わらないのかもしれない。


 かつて人であった何者か、という意味では。


「あれが……“結実エンテレケイア”?」


 その呟きを。

 立ち上がりながら、ミロウが小さく首肯する。


「多分。ヒルデ・ロタロフィオは、イザベラ・デステの“核”を食べた。あなたの腕ごと」


 セシュナははっとして、失った腕を思い出した。

 無残にねじ切られた右肘から今も血が滴り続けている。彼方に置き去っていた激痛も、また。


(大丈夫。大丈夫だ。これぐらい、今の僕には問題じゃない)


 全く奇妙な感覚だった。

 意思の動きだけで世界そのものを創り変えられるなんて。


 零れるばかりだった血液が、不意にその勢いを和らげたかと思えば、まるで軟体動物のようにくねり捻れて絡み合い――失われたはずの右腕を形作る。

 形も色も、幼い頃に作った指先の傷痕さえも、何もかもが元の通り。


「……精霊みたい」


 ミロウの感想はセシュナと同じだった。


「確かに。人間には出来ないね」


 創り直したばかりの右腕で光の紋様を描き、降ってきた闇の雫を振り払う。

 飛び散る“禁忌フォビドゥン”を尻目に、セシュナは周囲を見やった。暗雲と豪雨に遮られてなお、精霊の視覚あらゆるものを見通すことが出来る。


 滝のような雨を遡るイザベラの姿も。


「――待って、イザベラさんっ」


 ほとんどが暗黒に染まった少女は、磔刑に処された聖女ミリアさながらに天に昇っていく。

 セシュナはそれを追い掛けようとして、しかし闇の激流に押し戻された。


 天を衝く濁流から、人形の闇が這い出してくる。

 迎え入れるように手を広げたのは――相貌を無くした、ヒルデ。


「ヒルデさん! やめてください、ヒルデさんっ!!」


 漆黒を遮った紋様を足場にして、セシュナは跳躍する。落下する前に新たな光を描き、更に跳ぶが。


 闇そのものとなったヒルデは信じ難い優しさでイザベラを抱き留めると、唇を重ねる。

 金の髪と黒くなった髪が絡み合い、二人の影を一つに重ねていく。


 それが愛や許しなら美しいと言えたのに。


 ただ愚直に天を目指していた流れが変わった。まるで龍巻のように渦を描き、凄まじい唸りを上げながら彼女達を包み込んでいく。


 そして。

 音すら聞こえる静寂と共に、ぴたりと真円が形作られた。

 “女王株クイーン”。あるいは、それに似た何か。


 直感する。


(……あれは、世界に開いた風穴)


 虚無とでも呼べば良いのだろうか。

 死も破壊も恐怖も絶望も、所詮は世界の一部に過ぎない――死に飲まれたら土に還ることが出来るけれど。


 あの虚空から這い出そうとしているのは、そんなものではなく――この世には存在しない何か。


 セシュナは“境界”を中空に創り続けながら、それを蹴って駆ける――けれど、押し寄せる黒い存在は、最早一人で捌ききれるものではなく。

 圧倒的な質量を凌ぐ為の“境界”が、自ずと進むべき道すらも塞いでしまう。そして、光を世界に描き続けるうち、指先の揺らぎが激しくなっていくのが分かる。


(力は無限じゃない。どうすれば二人のいるところに届く――)


 セシュナは歯噛みした。叫びだしそうになるのを、ぐっと堪えて。


「――砕け静寂」


 不意に聞こえた声。

 籠められた意志が大気中の霊素エーテルを呼び集め、一つの結果へと収斂していく。


「響け沈黙、其は空にして全なる、散り歪み拓き誘い虚空を満たせその震え」


 ようやく気付いた。

 声の主は、あの崩れた鐘楼の下――今まさに闇に飲まれつつある瓦礫の中に。


「――捻り潰せ、巨人の腕ベテルギウス


 その一言で、魔法マギアが命を得る。


 広がる闇の一部がぐにゃりと形を変えた。自ら形状を変じたのではない。

 例えるなら水面に映った影が波に乱されたような、抗いようのない変形。


 やがて。


「――――」


 爆発というのは生易しい――世界がひび割れたような衝撃だった。


 魔法マギアによって一時的に歪められた空間が、元の形を取り戻す。

 ただそれだけのことで汚泥の海がごっそりと爆散した。風雨さえ、ほんの僅か停滞する。


 余波というには圧倒的な振動が走り抜けると、僅かに残っていた石畳は地盤ごと粉砕され。校舎の窓という窓が粉微塵に割り砕かれて、中庭めがけて降り注ぐ。


封鎖力場フィールド崩壊! 窓全損っ、校舎半壊! これ、空間振動――ニザナキ先輩っ!?』


 ケーテの悲鳴が、直接頭蓋に刺さった。


「ケッ、ようもやってくれたな、このクソグロゲロゴミ野郎」


 吹き飛んだ瓦礫に唾を吐きかけ、ニザナキが吠えた。仮面はおろか服もずたずたに引き裂かれ、額から血を流しながらも獰猛な笑みを浮かべる。


戦術魔法士ウォーロックナメんなや、ボケが」


 セシュナは心底の驚きを、そのまま口に出した。


「……一体、どうやって……ニザナキ君」


 彼は鋭い目付きで、こちらを見やって。


「オノレとミロウがやったんやろ。さっきの霊素暴走エーテル・ストームや。ここら一体、根こそぎひっくり返しよってからに」


 それから面倒くさそうに、手で示した。

 イザベラを奪われ、漆黒に埋もれていたアレクサンドラが身を起こしている。浮遊する“虚無”の直下では、アシュが飛び跳ねるように立ち上がっていた。


『お姉様! アシュ先輩っ!! 無事だったんですね!』


 セシュナは呆然と――自分でも驚く程、強い感情が胸中を駆け巡るのを感じた。

 それこそ、もし聖女ミリアが目の前にいたら、崇め奉った挙句求婚したくなるほどに。


「あと、とか付けて呼ぶな。うすらサブいねん、セシュナ・・・・

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