第六章――学園は燃えているか
第34話 君の声を聴かせて
刃を寝かせて突き込まれた短剣は、肋骨をすり抜けて肺を引き裂いた。
冷たい鋼の感触で分かる。
一捻りされると裂け目が拡がり、こじ開けられた骨が嫌な音を立てた。
「――セシュナ、君?」
意表を突かれた人間の声というのは予想以上に間抜けなもので、それはかの“
セシュナはミロウに警告を投げようとしたが、絡みついてくるヒルデがそれを許さなかった。
右胸を貫いた剣をますますねじり上げながら、獣のように押し倒してくる。
ノーミードの腕から滑り落ち、石畳の上を転げまわりながら。
見上げたヒルデの顔は、雨のせいか涙のせいか、酷く朧気だった。
分かるのは、あの激しい憤怒はどこにもなく、ただ深井戸のように底知れ無い静寂を湛えているということ。
そして両眼は濁りきって暗く落ち窪んでいること。
(“
ヒルデは犬のように四つん這いのまま、黒く染まったセシュナの右腕に喰らい付く。
骨を砕く力でくわえこまれて、抵抗しようにも呼吸さえままならない。
やがて身体の芯に響いた振動で、骨ごと腕を喰い千切られたのが分かった――
ミロウが錫杖を叩きつけると、ヒルデの身体が跳ねた。
いつもの彼女なら、この程度の攻撃はものともしないはずなのに。
(残ってないんだ――彼女自身が、もう)
散弾が爆ぜる。今度はヒルデもかわした。
人間離れした俊敏さで二度三度と飛び退ったヒルデは、口にくわえた黒い腕と、それが握りしめた「核」をじっくりと見定める。
『――お姉ちゃん? え。えっ、何してるの? ねえ、どうしたの――お姉ちゃん!?』
念話だけでケーテの顔が思い浮かぶ。薔薇色の頬はいまや蒼白だろう。
「セシュナ君」
抱き上げてくれるミロウの腕は頼りなかったが、それでも温かかった。
「気を……つけて。ミロウ、さん」
「喋らないで。――エルダーっ」
小さいがよく通る声。
アレクサンドラは傘を模した散弾銃をヒルデに向けて構えたまま。
「お立ちなさい、
声に滲むのは焦りというより罪悪感に近く。
セシュナはそれを意外に思った。
「わたくしはイザベラを治療します。あなたと
「待って。エルダー……違う。彼を――セシュナ君を!」
セシュナは緩く頭を振った。
アレクサンドラが言外に伝えたいことは、よく分かる。
神の御業とも称される医療魔法にも限界がある。切断された四肢や神経、傷ついた臓器を修復すること――要するに
それはセシュナも知っていた。
「フィフス!! フィフス、お立ちになって! あなたなら、まだやれるはずですわ!」
「ああ、もう、ほんっと……人使いの荒い……っ!!」
飛ばされた檄を弾き返すような唸り声とともに、礼拝席の間からアシュが起き上がる。
ヒルデに手酷く殴られたのだろう、黒いマスクが半ばまで割れて口元が露出している。
「立つよ、立つから! セシュナっちを助けてよ、エルダーっ」
水底に沈んだような息苦しさは、肺が裂けたせいだろう。
水面に訴える気分でセシュナは口を開く。
「ミロウ、さん。僕の、ことは……いいから、早く」
「よくない」
肩を掴む細い指が、食い込むほどに強張った。
「諦めないで。やだ。見たくない」
声は呻くように重く、怨嗟にも似ていた。
(……
それはつまり、全ての死を担うことではないのか。遍く死を感じ、見届けなければいけないとしたら。暗く静かな瞳はどれほどの死を見つめ、小さく尖った耳はどれだけの断末魔に晒されてきたのか。
セシュナは胸の奥が潰されるような気がした。
肺腑を貫いた刃よりも、ずっと鋭い痛み。
「あなたまで――あなたの死まで、見たくない。聞きたくない」
セシュナは右腕を動かそうとして、それがもう無いことを思い出す。
鉛のように重くなった左手を持ち上げることに全精力を注ぐ。
次第にぼやけつつある視界の中に、ミロウの顔を探した。
指先で、仮面を押しのけて。
――初めて触れた白い頬はやはり温かく、少し濡れているように感じる。
「じゃあ。声を、聞かせて」
「声?」
遠ざかる銃声と辺りを覆う雨音を振り払って、セシュナは続けた。
「ミロウ、さんの……”
瞬間。
ミロウが息を呑んだ。
セシュナは憶えていた。
ミロウは彼をこう呼んだ――”
己に眠る精霊を呼び起こし、迫る死を乗り越えて、命の答えへと至る。
彼女が従える
「……何が起こるか、分からない。
ミロウの不安を聞くのは、初めてだった。
セシュナは笑う。少なくとも、笑おうとした。
「諦めないで、って……今、ミロウさんが、言ったんじゃ、ないか」
「でも」
一際大きな銃声と落雷――そして勢いを増した嵐。
「お願い……聞き、たいんだ。最後、だとしても……聞かせて――君の、声」
薄れ始めた視界に、銀の光が揺れた。
きっとミロウは頷いてくれたのだろう。
『朝。鋏。湧水。鮮紅』
声なき言葉は歌うように美しい。
血色に染まった世界で、光の帯となった”
時に速く、時に緩く、時には笑うように跳ねて。
『皓々と。至る道筋。百果。雲照。栄華にして凝然。あるいは。妙圓』
果たしてそれがどんな意味を持つのか、セシュナには分からない。
『――森羅』
だが、それでも構わない。
それが呪いの文句でも、祝いの言葉でも、弔いの辞でも。
ミロウが奏でる調べの中で目を閉じられるなら。
『煌々たる。禁忌』
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