第三章――深く静かな学園の底
第13話 誰も見てはならぬ
声が出せるなら、悲鳴を上げていた。
涙が流せれば、それも溢れていたかもしれない。
実際のところ眼窩から零れたのは、ただの血液に過ぎなかったけれど。
砕け散った棺の跡から闇が立ち昇る。ゆらゆらと煙のようでいて――燃え盛る炎の如く――天を掴もうとする人々の腕のような――地獄の底から這い出す亡者にも似た。
あらゆる光に混じらない、純然たる影。
暗闇と怨嗟の芽吹き。
いくら眼を凝らしても、仮に陽の下に引きずりだしたとしても、その本性を捉えることは出来ないだろう。
何故ならば、
触れてはならない。
聞いてはならない。
口に出してはならない。
知ってはならない。
「おい、
ニザナキだけが、冷静に。
「“開花”しとる。応援頼むで」
ここにはいない誰かに話しかけているのか。
その間、彼は一瞬たりとも影から顔を背けなかった。
噴き上がる闇は勢いを増し、人の身の丈など軽く追い越し始める。
ニザナキは舌打ちと共に手中の
「届け――
爆発的な光の奔流が、影を飲み込もうとする。
「――――」
だが。
水に溶け込んだ絵の具のように。光線はぐにゃりと歪み、渦を巻いた。
狂ったように軌跡を交差させた挙句、少年の元へと逆流する。
ニザナキは自らを腕で庇い――そのまま光に溶けた。
弾ける爆風は、セシュナが背中に受けたものとは比較にならない。余波に巻き上げられた髪が肌を刺すように暴れる。真白い輝きが視界を満たし、束の間、世界を無に変えた。
眩んだ視力が戻ると。
黒衣の影は跡形もなくなっていた。
(まさか――ニザナキ君)
天に向かって流れる闇が、鎌首をもたげるようにこちらを向く。
(……え?)
疑問の余地など、どこにもないのに。
問いが溢れて止まらない。
(棺の中身。闇の正体。捻じ曲げられた
そして、起き上がることさえ出来ないセシュナ自身の行く末。
立ち昇り続ける闇は、弄ぶように軌跡を描いて光景を満たしていく。
セシュナを――セシュナの世界を黒く塗り込め、圧し潰さんと。
気紛れに奔流を離れた一筋の影が、セシュナの指先にそっと触れた。
全身の筋肉が痙攣し、無闇に身体が跳ねて、それが痛みだと気付く。感じることすら本能が拒否する激痛。
(――――)
爪と指の隙間に針金を差し込まれ、その尖端があらゆる血管を伝ってくるような。
意味を成さない悲鳴を上げてもがきながら、黒く澱んでいく指を、手を、腕を、ただ見ていることしか出来ない。
腐り落ちていく意識の中で、セシュナはようやく気付く。
闇の本質。
彼が覚えた感情の正体。
理解しながら彼は、それでも残った右手を握る――
「舐め腐りよって――このバケモンが」
声がした。
澱んだ視界の中に黒衣が飛び込んでくる。吹き荒れる暗闇とは違う生命の姿。
「降り積む鏃、斬り裂く鉄刀、猛る焔獄、奔る雷神閃く毒牙、万事万象退け千万、塞ぎ守るは光条の扉――」
蠢く影が不意に機敏な動きを見せる。槍のように研ぎ澄まされた闇が、空を裂いた。
「――閉じろ、
繰り出される少年の指が、飛来する影の穂先に触れる。
その刹那、光の雨が降り注いだ。
虹色の輝きを放つ豪雨が荒れ狂う影を円で囲う。落ちる雫は間もなく凄まじい鳴瀧へと変わり、影そのものを隠してしまう。
「まだ正気か?
呼びかけられて。
セシュナはようやく、目にした全てが幻覚や白昼夢でないことを悟った。
「……これは、一体……なんなの?」
「訊くな。答えん。目閉じて耳塞いで黙っとけ。ワイがええと言うまで動くな」
見えない何かを押し返すように、ニザナキは指先を震わせている。纏う黒の外套が――反射された
「分かったやろ。見たモンは忘れろ。聞いたコトも忘れろ。
見てはならぬ。聞いてはならぬ。知ってはならぬ。
本能すら、それを命じていた。
しかし。
セシュナは黒く変色した指を床に突き立てた。
「……嘘やろ。動けるんか。ワレ」
仮面から覗くニザナキの青い眼が、俄に細められる。
脳天を穿つような苦痛。
ただ両の足で立つことが、ここまで困難だとは。
(でも、立たなきゃ。立って――本当のことを、突き止めなきゃ)
このモンスターは何なのか。
『ミリアの子供達』は何故これを隠そうとしているのか。
――不思議なものだった。胸の深いところから疑問が沸き上がると、淀んでいた思考が一気に流れ出していく。
「このまま、寝てる訳には、いかないッ」
気付けば、足元を青い光線が行き交っていた。床の表面を規則的に走る光は、やがて台座の端々で円を描き始める。浮き上がった光が紋様を描き、それは人の形に収束していく。
空気そのものを引っ叩いたような、高い音が響いて。
黒衣の四人が現れた。
「遅いで、
「せっかちですこと。
返答は場違いなほどやんわりとしていた。エルダーと呼ばれた黒衣は、声から明らかに少女と知れた。
やはり揃いの黒仮面で、顔を覆っていたけれど。
「
黒衣達は頷き、散っていく。
負傷と痛みをねじ伏せて、セシュナは何とか膝をついた。持ち上げた視界に黒い仮面が待ち構える。
覗き穴からこちらを見据えているのは、氷のように透き通った薄青い眼差し。
「楽になさって。この程度の
彼女――エルダーはこちらに掌を向けた。その手にも黒い手袋。
「眩ければ眼を閉じて、傷付くならば横たえて、光は慈愛、往きて変わらぬ天に燦々――
ふわっと――綿毛のように拡がった燐光が、セシュナの全身を包んだ。例えようのない温もりと、微かなむず痒さ。
それも一瞬の出来事だった。
痛みが嘘のように消えている。各所に違和感こそあるが、傷というには程遠い。
「急に動かない方がよろしくてよ。折角塞いだ傷が開いてしまいますもの」
これも
医療魔法――古くは法術とも呼ばれた奇跡。
「……どうして治療してくれたんです?」
「知らない方がいいこともあるでしょう。傷から得るべきは、教訓ではないかしら?」
エルダーはそれだけを言って顔を背けた。
台座の中心、黒い影を閉じ込めた光の柱へと。傍らにいたもう一人の少女――錫杖を携えたシックスがこちらへと退いてくる。
「限界や。結界、解けるで」
ニザナキ――サードと呼ばれた
降り注ぐ虹色の光から黒い霧が漏れだした。
瞬く間に広がり光を飲み込み始める。
やがて暗闇は中空へと浮かび上がり、円形の紋様に変じ始める。
「なんです、これ……一体何が」
「お静かに」
あたかも一輪が花開くように。
――不意に。
闇が、びくりと震えた。
まるで時が遡るように、膨れ上がった暗黒が収斂し始める――
「……ひ、人?」
少女のような姿へと。
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