第2話 大鷹を連れた少女

 正直に言えば、イザベラと出会う前から――ずっとずっと前から、セシュナの胸は期待と不安でいっぱいだった。


 一年の半分は氷雪に閉ざされた故郷ハルーカを離れたのが初めてなら、大陸間を移動する蒸気船に乗ったのも初めてで、とにかく目にするもの全てが新しく興味を惹いた。


 見知らぬ人との会話でさえ、故郷では滅多になかった。話相手といえば祖母か叔母か、たまに顔を見せる行商だけ。娯楽といえば猟師の叔母の手伝いか祖母の蔵書漁り。

 静けさと退屈を全力で圧縮して煮詰めたとしたら、あの村になるかもしれない。


 そこから抜け出したくて。

 その一心で、狩りの最中に見かけた動物や魔物達について論文を書き始めた。


 そして――やってのけた。

 ティンクルバニア学園から届いた入学許可通知。しかも特別待遇生徒として。

 初めての場所で初めてのことを学び、初めて会う人々と語り合うチャンス。


(始まるんだ。憧れの新生活が、ついに!)


 そうそう楽しいことばかりでないのは分かっている。それでもセシュナは胸が高鳴るのを抑えられなかった。

 何しろティンクルバニア学園では知るべきことが山ほど待っており、しかもそれを学ぶことを許され、その為の時間まで与えられているのだから。


 だというのに。


(まずい。これはまずい)


 かつてないほどの焦燥感。

 走る。石畳が敷き詰められた道を、全速力で走り抜ける。


  邪魔な毛織の外套とベレー帽を脇に抱えて、結び方が分からないネクタイはポケットに。校章入りの黒いブレザーとパンツは、とりあえず着てみた。ブーツのサイズがあっていたのがせめてもの救い。


 伸びっぱなしの黒髪はあまりに鬱陶しいので、荷物をまとめていた麻紐で括る。それでも前髪が忌々しい。

 いや、今はそれもどうでもいい。ただ、死力を尽くして走るべきで。


 なのに。ああ、なのに!


(なんて楽しい街なんだ! ティンクルバニア市!!)


 学園を擁するティンクルバニア市は、外から眺める以上に美しい街だった。


 古代の建築物と開拓者達の足跡、そして学園の専門家達が建てた最新の煉瓦建築が一体化した街並みは、まるで文化のパッチワークだった。白くつるりとした塔の脇には、木枠造りの小屋が建ち、その隣には煉瓦のアパートメントが並ぶ。窓の大きさから察するに、学生向けの下宿屋だろうか。

 セシュナは思わず足を止めそうになる――だが、すぐに思い直す。


(これは本当にまずいんだぞ、セシュナ・ヘヴンリーフ!)


 何せ入校初日からの遅刻である。

 いくらティンクルバニア学園の理念が『自由と平等』とはいえ、講義に遅刻する自由までは保証されていないだろう。


 例えセシュナが不幸にも、陸路では魔物の大移動に追われ、海路では嵐と時化に苦しみ、ギリギリで乗り込んだ馬車でも相次いでトラブルに見まわれ――あの後、馬車ごと墜落しかけた――、挙句の果てに不慣れな都市の風景に惑い、校舎への道を見失っていたとしても。


 とにかく目指すべきは、あの白い塔。

 街のどこからでも見える学園のシンボル。壮麗なる古代文明の遺産。


 勘に従って隣の路地に飛び込む。

 景色が変わった。細い小路を挟むビルディングから伸びたロープには、一昨日まで続いた嵐への復讐とばかりに、色とりどりの洗濯物がはためいている。

 見たことのない風景。


 新たな道へ。今度は噴水のある広場。

 次の道。賑やかな朝市。鶏の鳴き声と売り子の掛け声が騒がしい。


 どこを見ても胸が躍る。

 どんな書物にも書いてなかった、本物の景色。


 道行く人に順路を尋ねるが、やっぱり分からない。


(こんなことなら下宿に寄らないで、イザベラさんに案内してもらえばよかった!)


 どれだけ走り回っただろう。雪山での銀狼狩りでさえ、ここまで走った覚えはない。


 定食屋と喫茶店が並ぶ細い路地を抜けて、大通りに差し掛かる。

 幅にして馬車四両がすれ違えそうなほど。等間隔にガス灯が並ぶ石畳の道は、意外に人通りがない。建ち並ぶのは古書店や貸本屋ばかりで、学生や研究者なら、ここで半生が送れそうだった。


 はっと気付いて、左手を振り向く。


「――ここだ」


 白亜の塔を背負う煉瓦造りの校舎。植民地風の質実剛健な造りは、案内状に描かれていた挿絵の通りだった。書面と異なるのは、その迫力である。もう城と呼んでも差し支えないのではないか。

 敷地の外壁はモザイクになった石組みで、黒い槍状の飾りが並んでいる。校門は通りの敷石をそのまま飲み込むように、大きく開かれていた。


「よし! まだ間に合うっ」


 快哉の声を上げながら、セシュナは走り出した。

 正面校舎の大時計を見れば、講義開始まで三分は余裕がある――


「――はぁ~い、ストップぅ」


 誰かに呼ばれた気がして。

 そして足を止める間もなく、目の前には二本の槍が交差していた。


「うわぁっ」


 咄嗟に足元を蹴って跳ぶ――槍の穂先を踏んで、もう一度。


「いきなり槍を振り回したら危ないだろっ、気をつけて!」


 言いながら着地。

 そのままの勢いで走り出そうとするが。


「ちょちょちょちょ! 待て! オイ待てゴラァ! 止まらねーと燃やすぞオマエ!」


 誰かが叫びながら追いかけてくる。

 その必死さに、思わずセシュナは足を止めた。


「ごめん! あの、僕、今日来たばっかりだから、道聞かれてもわかんない!」

「はいはいはいざんね~ん! こちら毎度おなじみ、風紀委員ジャン=ジャック・モンテーニュ様と愉快な仲間達でーす。新学期恒例の服装検査、ご協力ヨロシクね!」


 追いすがってきた少年――ジャンは、息を荒げながらも飄々とした体を作ろうとしていた。

 大げさなほどしかつめらしい表情で、


「あっちゃあ。オマエ、これ完全アウトだわ~! ヤバイわこれ~!」


 にやりと笑ったその顔は、舞台俳優のように華々しい。背中まである金髪と派手な耳飾りピアスが、やり過ぎな程の綺羅びやかさを演出する。


「ネクタイ無し、制帽無し、コート無し、ブレザーのボタン全開、シャツの第二ボタンと裾の開放、それからカレッジリング無し」


 立て板に水を流すような指差しと列挙。

 セシュナは目を回しそうになるが、ただ一つ言えるのは、


(……人のこと言えるか?)


 ということだった。


 ジャンという少年には、腕章以外に風紀委員らしい部分がまったく無かった――百歩譲って、セシュナが風紀委員を生まれて初めて見たのだとしても。

 制服はだらしなく着崩して、長い毛を指先で弄ぶ。


(なんか、港で見た作業員の人っぽいな)


 槍を構えた男子達も似たような印象。派手なバンダナを巻いてみたり、側頭部に複雑な模様の刈り込みを入れてみたり。

 これが新大陸流の上品さ・・・なのだろうか?


「全部合わせて、軽く二週間は停学かなーコリャ。ああ可哀想に」


 いやに気遣わしげに、ジャンが言う。


「停学!? え、まだ一度も講義受けてないのに!?」

「いやー残念だよキミィ。いやしくも歴史と伝統ある『女王陛下の学び舎クイーンズ・カレッジ』に通う学徒としての自覚が足りなかったようだねェ」


 ニヤニヤと、嫌味な物言い。

 とりあえずセシュナは上着からネクタイなどを取り出しつつ、


「あ! じゃあさ、これ、ネクタイの結び方! 教えてもらえないかな、よく分かんなくって」


 考えてみればジャンの言う通り、ここは押しも押されぬ名門校なのだ。事務局に向かう前に、身だしなみぐらいは整えておく必要がある。

 しかし、槍を持った二人が笑い始めたことから察するに、どうもお願いは逆効果のようだった。


「んー心意気は買うんだけどさー。どうしよっかなー? オレも風紀委員としての責務がさー。つかオマエ、その髪型もどうなのよ、長くね? 無駄に前髪長くね?」


 ならばと今度は前髪を上げて、耳のあたりにかけてみる。


「いや、ちょっと長旅だったんで……」

「ん? んん? え、何その眼?」


 ぐいっと――ジャンが顔を寄せてくる。


「うわ。オマエそれ、血みてえな色だな」


 指差されて、はっとする。

 瞳の色。

 紅い瞳。血溜まりのような。


「それは――ええと」


 セシュナは慌てて前髪を元に戻す。

 だが、もう意味は無い。


「グロ。てかキモッ」


 言葉は辛辣だった。

 慣れているつもりでも少々堪える。


「んで? 赤眼レッド・アイクンは、どこ教室? 名前は?」

「……セシュナ・ヘヴンリーフです。今日留学してきたばかりなんで、教室とかはまだ」

「あー! そうか、オマエね! オマエがそうなんだ」


 ジャンの抜けるような声。


例の・・七人目セブンス』ね」

「七人目? って、ええと……何の話?」


 セシュナは、彼らの顔に緊張と好奇心が浮かんだのを見て取った。


「ふぅん。へえ。それなら尚更、停学って訳には行かないよなー?」

「え、まあ、そりゃあ。えーと、見逃してくれる、って訳には?」

「行かないんだコレが。残念!!」


 ジャンの笑顔が、より刺々しくなっていく。


「でもさ、まあ、例外がない訳じゃないっていうか? オレも鬼じゃないから。ホラ、この辺で察してくれると助かるんだけどさー」


 言葉と共に差し出される掌には、何も載っていなかった。

 指にはカレッジリングとは違う、刺々しいデザインの指輪が嵌まっている。多分、喧嘩では即席の武器になるのだろう。


「なあ。あんまり時間取らせんなよ、赤眼クン。マジで燃やすぜ・・・・?」


 ジャンの青い目がすっと細められて。

 その手に炎が灯った。マッチも火打ち石も無く。

 またしても魔法マギア


 そうしてセシュナは、ようやく思い至る。


「……あ! そうか! これ、カツアゲ!」


 まさか自身が、しかも編入初日に標的となるとは考えてもみなかった。


「なるほど。本で読んだことはあったけど……すごいな! 本物だ!」

「オイ! オマエ、マジでふざけてんじゃねえよ! こっちもヒマじゃねーんだ、なぁ?」


 ジャンの恫喝を合図に、二本の槍が突き出される。

 やけに息のあった三人組だと、妙な所で感心してしまう。槍の穂先は潰されていたが、小突かれれば怪我ぐらいはしそうだった。


(参ったな)


 始業までの残り時間が一分を切った。このままでは、転校初日から遅刻という醜態を晒すことになってしまう。


「オーイ。俺様ジャン様、こう見えて結構気が短いんだけどー」


 ジャンが頬をひく付かせる。

 近づいてくる火球の熱が、セシュナの顔をじりじりと炙った。


「あの、ホント時間がないんで――」


 セシュナは詫びながら、仕方なく槍の柄を掴んだ。


「怪我させたらごめんっ」

「テメ――やる気かゴラァッ!!」


 槍を押し込んでくる力を受け流して、相手を投げ飛ばす。奪い取った槍で、もう一人の一撃を絡め取る。石突で喉元を一撃。


「……え? え? オマエ……そんなあっさり、え? 嘘だろオイ?」

「えーと。これ以上は、あんまりお互いのためにならないと思うんだけど」


 倒れた二人を尻目に、セシュナはジャンへ槍の穂先を向ける――呆気にとられた彼を、もう一度説得しようとした。


 その時だった。


「――通り道を、塞がないで」


 風が吹き抜けたのだと思う。

 ジャンが構えた火の玉は一瞬にして消え果て。

 続けざまに、長く大きな鳥の羽根が舞った。


 セシュナは一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、天使が通り過ぎたのだと思った。


 舞い降りてきた羽根は柄が入った濃灰色で、大きさから鷹のものらしかった。

 新大陸は猛禽類の楽園だと聞いていたが、こんな街中でも現れるのか。


(すごい!)


 振り仰げば、大きな翼は青空を背景に弧を描き、もう一度地上へと近づいてくる。音もなく滑空して、かざされていた手甲に吸い付くようにして留まった。


「――チッ」


 聞えよがしな舌打ち。


 正面に目を戻すと、風紀委員達の顔色がすっかり変わっていた。先程までの勢いはどこへ行ったのか、ジャンは意図の読み取りづらい笑い方で掌をぷらぷらとさせながら。


「あー悪かったね、道塞いじゃったね。まあその、コレは学園流の、ちょっとした歓迎のギシキ・・・って奴でさー」


 彼が言葉を投げ放った先にいたのは。


 鷹を腕に留まらせた生徒。

 恐らく少女だ――鮮やかな赤の布地に、不思議な柄が縫い取られた頭巾を被っているせいで、顔はよく見えない。

 ただ、頭巾と一体になったケープがなぞる肩の線が華奢なので、女性のように見える。


 いや、よく見れば制服もスカート型なので、これは間違いない。


「…………」


 彼女は何も言わない。


「ちょっとちょっと、シカト? あ、もしかして人間の言葉・・・・・は難しかったかな、妖精族エルフサン。まあ後は特待生エリート同士ヨロシクやっちゃってよ。んじゃ、良い学園生活を、七人目セブンスドノ!」


 捨て台詞を残し、ジャン達が踵を返す。

 だがセシュナは、彼らを見やりさえしなかった。


(すごい。すごい、すごい、すごい!)


 猛禽なら見たことはある。

 しかし、それを使役する人間に出会ったのは初めてだった。


「――なんて綺麗な」


 思わず呟く。


 妖精族エルフと呼ばれた少女は相棒・・を肩まで登らせると、静かに歩き出した。足音がしないのは、一枚皮の柔らかそうな靴のせいか。

 まるで滑るように、こちらへ――否、正門へ向かって歩いていく。


 未だ昇りきらない太陽が小柄な少女に影を落とす。赤いフードから零れた髪は銀細工のように複雑に編まれ、光を湛えていた。


「あの、君!」


 セシュナはそうと意識する前に口を開いていた。


「ありがとう。助けてくれて」


 少女はぴたりと足を止めた。

 ほとんど通り過ぎていたのに、ほんの少しだけ振り向いて。


「――――なさい」


 果たしてどんな声で、何を呟いたのか。


 残念ながらセシュナには聞き取れなかった。


 厳粛に、そして無情に鳴り響く鐘の音が本日の始業を告げたせいで。

 そしてようやく思い出す。

 今やるべきことは何だったのか。


「ごめんっ、また後でお礼させて!」


 とにかく叫んでセシュナは再び走り出した。

 まずは学園の事務局を探しださなければならない。そこで手続きを終えたら、ようやく彼の学生生活は始まるのだから。

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