第228話

「ん……」


 微睡んだ意識の中、軽く寝返りを打って何かにぶつかる。妙に温かく、安心するこれは何だろう。ゆっくりと瞼を開けると、少しだけ乱れた病衣が目に飛び込んできた。


 その光景に、自分の状況を思い出す。驚くほどの早さで意識が覚醒した。


 軽く瞼を擦り、私は改めて現状を確認した。どうやら私は合崎の腕の中でしばらく眠っていたらしい。体の軽さからして大した時間は眠っていないと思うが、時刻を確認できないため確証が無かった。


 合崎は、未だぐっすりと眠っているようだった。いつになく安らかな表情をして眠る彼の姿に、少なからず安心する。熱も高いのだから、このままゆっくり休んでいてほしい。そう思い、合崎の腕から脱出することを試みるも、彼の腕は意外にもしっかりと私を抱きかかえているせいで上手く起き上がることが出来ない。無理やり腕を引きはがせば可能だろうが、そんなことをしては合崎を起こしてしまうだろう。


 それどころか、軽く身じろぎしたのが伝わってしまったのか、合崎は一層私を引き寄せてしまう。無意識の内だと思うが、覚醒している私からしてみれば戸惑うには充分な状況だ。


 昔もこんなことはあった。私を抱きしめるようにして眠る「空兄様」の腕の中で、先に目覚めてしまった時には何かといたずらをしたものだ。頬をつねってみたり、脇腹をくすぐってみたりとその内容は多岐にわたったが、いつだって「空兄様」が目を覚ますと仕返しをされた。それが悔しくて何度もリベンジするのだが、結局私は「空兄様」に勝てた試しがない。


 それに、昔と今では何もかもが違う。身長も、私たちの関係性もすっかり変わってしまった。変わらないものもあるのかもしれないが、昔を懐かしむくらいには、私も「空兄様」も時を重ねてきたということだ。


「空兄様……」


 懐かしい名で彼を呼びながら、私はそっと、合崎の首筋に残る線状の傷をなぞった。こうして残るということは、相当深い傷だったのだろう。よくも点滴の針などでここまでの傷を残せたものだ。だが、そうやって死を望んだ幼い「空兄様」を思うと胸が痛むのもまた事実だった。


 そのままぼんやりと合崎を見つめていると、不意に彼が身じろぎをした。彼は更に私を引き寄せると、至近距離でどこか不機嫌そうに囁く。


「……くすぐったいからやめろ」


 合崎は薄目でこちらを睨んでくる。無意識の内に何度か傷をなぞっていたのかもしれない。素直に申し訳ない気持ちが広がった。だが、それと同時に冷静沈着で完璧な次期軍師として慕われる合崎の気の抜けた姿に、思わずふっと笑ってしまう。


「空兄様はくすぐったがりだな」


 からかうようにそう告げて合崎の首筋から手を離すも、そのときには合崎の手が私の脇腹に伸びていた。忘れもしない。これは昔から変わらない報復のサインだ。幼い頃、よくそうやって「空兄様」にくすぐられていたことを思い出し、さっと血の気が引く。あれは本当にくすぐったいのだ、勘弁してほしい。


「わ、悪かったよ、合崎……。わざとじゃないんだ。穏便に済ませようじゃないか。な?」


「……そんな安い交渉が通じるとでも?」


 少しずつ覚醒してきたのか、合崎は腹立たしいくらいの余裕を携えた笑みを浮かべると、そのまま私をくすぐりだした。痛みや息苦しさには慣れているが、これには本当に耐性が無い私は、次期軍師としても威厳だとか望ましい態度だとか全てを忘れて笑い転げるしかない。拷問にもあるくらいなのだから辛くて当然なのだろうが、それにしても「空兄様」は容赦なかった。昔からそれは変わらない。


「ははっ、わ、悪かったよ、空兄様っ……私が悪かったから」


 涙目になりながら笑い転げる私を見つめる合崎の笑みは、どこか愉し気だ。僅かに身を乗り出してくすぐっている辺り、本気でくすぐるつもりらしい。何事にも手加減をしないのは一つの長所であるのだが、これだけは話が別だ。


「空兄様っ、ふふっ、もう駄目だ、降参っ……ははっ」


 涙目になりながら訴えたそのとき、不意に病室のドアが開く電子音が響いた。病室に足を踏み入れたその人は、しばし茫然とした様子で私たちを眺め、やがてにっこりと穏やかな笑みを見せる。だが、どうしてかその色素の薄い目は笑っていない。

 

「仲直りのきっかけになれば、とは思っていたけど……ここまで仲睦まじくしろとは言ってないんだよなあ」


 あくまでも穏やかな口調だが、どことなく冷ややかなものを感じる。柊と親しくしている人間ならば誰でも分かる。これは、いつも優しい彼が珍しく怒っている何よりの証拠だった。








 柊の手によってどこからか持ち出された椅子にきっちりと座らせられた私は、苦笑いで事の成り行きを見守っていた。柊の怒りの矛先は、どうやら合崎に向いているらしいのだ。


「空、見損なったよ。いくら憐が可愛いからってああいうことをするのはどうかと思うな……」


「……誤解だ。昔の戯れの延長のようなものだ」


 合崎も珍しく弁明を繰り広げている。だが、一応は怪我人である合崎に向ける柊の視線はいつになく冷ややかだった。


「昔の戯れ、ね……。僕にはそれで通じても、他人が見たらそうは思わないだろうね」


 不意に柊は私の両肩に手を乗せて、合崎に言い聞かせるように告げる。


「いいかい、空。確かに僕は君たちの教育係だけど、憐の『兄』でもあるんだ。僕の前で、憐に無体な真似をするのは控えてもらいたいね。……いや、僕が見ていないところでももちろん駄目だけども」


「ひ、柊……あれは本当に遊びなんだ。何なら私が仕掛けてしまったようなものだし……」


 合崎ばかりが責められる状況というのも何だか気まずくて、思わず口出ししてしまう。だが、それが余計に柊の機嫌を損ねたようだ。


「憐は自覚がなさすぎる。あまりに無防備で心配になるよ」


「よくわからないが、他人の前では常に警戒してるぞ」


「……本当に、この無自覚さが怖いよ」


 柊は大きな溜息を付くと、睨むように合崎を見据えた。


「とにかく、先ほどのような前は控えるように。ついでに、無自覚な憐の言動に勘違いした輩が湧いて出たら、速やかに遠ざけるんだ」


「……過保護なお兄様だな」


 合崎は呆れたように柊を見つめるも、溜息交じりに了承したようだった。私からすれば話の筋が見えないままだが、どうやらこの話題は収束の方向に向かっているらしい。


「憐も、よくよく気を付けるんだよ」


「わ、分かったよ。警戒心が大切ということだな」


「そうそう。近寄ってくる男は全て敵くらいに思っておくんだ」


 柊は満足そうに私の頭を撫でると、それを見守っていた合崎が何度目か分からない溜息をついた。何だかいつもの私たちらしい光景だ。少しずつ取り戻しつつある日常に、確かな安心感を覚えるのだった。

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