第189話
翌日。
学院が休みの今日は、私は私室で基礎的なトレーニングをしたり、次期軍師として求められる教養を深めたり、とそれなりに充実した時間を過ごしていた。いつもは合崎とああだこうだ言いながらやる内容だが、案外一人でもなんとかなる。休憩時間に不意に感じる寂しさは、見て見ぬ振りをしていた。
一晩眠って、昨日よりは心は落ち着きを取り戻したと思う。冷静に現実を受け止め始めている。今まで私が立っていた合崎の隣が奪われるような焦燥感を感じていたが、別に私と合崎の関係性まで変える必要はないのだ。合崎にまた一人、大切に思えるような相手が出来たことを喜ぶべきだろう。
半分自分に言い聞かせるような形であったが、一応の納得はしていた。次に合崎に会った時には、昨日のような失態を繰り返すことは無いだろう。まだ多少のぎこちなさは残るかもしれないが、すぐに私たちは元通りになれるはずだ。
軽く息をついて、ソファーから立ち上がる。レモンティーでも淹れて、もう一冊本を読もう。何かしていた方が気が紛れるのも事実だった。
柊は私の涙の理由を深くは訪ねて来なかったが、何となく察しているようだった。休日に、私と合崎が一緒に過ごしていない時点で何かあったのだろうと簡単に推測は出来るだろう。柊に打ち明けてみれば、いっそすっきりするかもしれないが。
そんなとき、不意に人工知能が来客を知らせた。薄手のワンピースの上に白いカーディガンを羽織り、ドアに向かう。いつも通り、質素な装いだった。
私の部屋を尋ねてくるのは、柊か合崎が殆どだ。たまに雪柳塔長が訪れることもあるが本当に稀なことだった。今の私と合崎の関係からして、やってきたのはまず間違いなく柊だろう。そう思い込んで私は確認もせずドアを開錠した。
だが、ドアを開けた先で待っていたのは色鮮やかな色彩だった。
「憐ちゃん! おはよう!」
「……柚原先生?」
金に近い茶色の髪を揺らし、白いブラウスに翡翠色のロングスカートを合わせた柚原先生の姿は素敵だった。学院では白衣ばかり着ているから、彼女が鮮やかな色を纏っているのは何だか不思議だ。
柚原先生の傍には、付き添うように柊の姿もある。昨日再会したばかりだというのに、二人の間に12年の壁は感じられなかった。それだけ二人の友情は確かなものだということなのだろう。
「ごめん、憐、休みの日だっていうのに……。柚原が憐に会うって聞かなくて」
「折角『白』に来たんだもの。会いたくなるのは当然でしょ!」
柚原先生はほっそりとした白い手で私の手を包み込む。
「ねえ、憐ちゃん、下のショッピングモールでお茶しましょ! もちろん、ハル君も連れて!」
それは殆ど決定事項のようだ。私は苦笑しつつ、柚原先生の手に引かれるがまま自分の部屋を後にした。
「白」にはワンフロア分の売店街がある。いや、ちょっとした食料品や雑貨どころか、服や電子機器、嗜好品までほとんどのものが揃っている上に、ワンフロアを占める規模は相当なものなので「ショッピングモール」と呼ばれることの方が多かった。
もちろん、休憩するためのカフェの点在しており、「白」附属病院の患者とその見舞客、医師、研究者など、幅広い層の人々が利用していた。流石に塔長クラスの上級職の人間はあまり見かけないが、雪柳塔長暗い自由奔放な人だったらどこかに紛れていてもおかしくはない。
「白」の中で最も活気づいていると言っても過言ではないこのフロアだったが、私はあまり馴染みが無かった。生活必需品は支給されているし、特に足を運ぶ用事もないのだ。
白いワンピースにカーディガンを羽織る私の姿は、一見すると入院患者のように見えるかもしれない。色鮮やかな柚原先生と並ぶには、あまり相応しくない格好だった。
予想できていたことだが、柚原先生と柊は人の目を引いた。柚原先生の美しさはやはり格別なようで、皆見惚れるような視線を彼女に向けている。柊もまた、全体的に色素の薄い雰囲気が儚さのようなものを醸し出していて、整った顔立ちを一層際立たせていた。学生時代にも、この二人はこうして生徒たちの視線を集めていたことは容易に想像がつく。
レモンティーもマフィンもなかったので、仕方なく紅茶とチーズケーキを注文して席に着いた。柊は紅茶だけを、柚原先生はブラックコーヒーを注文したようだった。
「そんなにたくさん飲めるようになったのか?」
柊は柚原先生が手にするマグカップ一杯分のコーヒーを見て、どこか心配そうに尋ねた。対して柚原先生はどこか得意げな顔を見せる。
「液体なら、このくらいは飲めるようになったのよ。本当はケーキだって食べられるけど、今日はメンテナンスしたばかりだから、少し控えようと思って」
柚原先生が「白」を訪れた理由は、定期健診ことメンテナンスのためだった。機械と生体の融合という、特異な体を持つ先生は、定期的に検査を受けなければならないようだった。だが、その調子は学生の頃よりもいいという。
「本当は甘味と苦味以外も味わってみたいけれど……まあ、こうして生きていられるだけで贅沢だものね」
コーヒーを口に運びながら、柚原先生は小さく笑う。「白」の技術を以てしても、味覚を完全にカバーすることは出来なかったようだ。
「それにしても、ハル君!」
柚原先生はマグカップを置くと、予想外なことを口にした。
「憐ちゃんのこの服装は何! まるで病院服みたいじゃない!」
「憐には白が似合うから」
柊は淡々とした調子で受け答えた。私と話すときと明らかな温度差がある。
「まさか憐ちゃんの私服全部これとか言わないわよね」
「……まずかった?」
柊がちらりと私を見た。確かに味気ないとは思うが、質は良いものを使っているようだし、着心地はよい。特に気にしたことは無かった。
「私はこれで満足しているから、問題ないと思うぞ」
「待って待って二人とも」
柚原先生が小さく溜息をつきながら、不意に私の髪に触れた。
「いい、憐ちゃん。あなたは確かに次期軍師だけれど、その前に一人の女の子であってもいいのよ。折角こんなに綺麗なのに、勿体ないとは思わないの?」
「考えたこともなかったな」
「ハル君! 憐ちゃんはこんなに可愛いのよ。もっといろいろな服を着せて楽しみたいと思わないの!」
「憐は何着てても可愛いからなあ……」
「さらっと惚気ないの!」
柚原先生が呆れたと言わんばかりに頭を振る。確かに傍から見れば、年頃の女子が病院服のような姿で暮らしているのは不憫に思うのかもしれないが、「白」に暮らしていると、そういった世間一般の価値観に疎くなるのは仕方のないことだった。
「大丈夫、柚原先生。私はこれで――」
「行くわよ」
「え?」
不意に柚原先生が私の手を引き立ち上がらせる。それほど強い力ではないのだが、成り行きで立ち上がってしまった。
「憐ちゃん、お洋服を買いに行きましょう。私が見繕ってあげるわ」
「ゆ、柚原先生」
「いいわね? ハル君」
柚原先生は有無を言わせないような調子で柊を見下ろした。こんな強引なこと、柊が許すはずもない。
だが、柊の答えは意外なものだった。
「……まあ、柚原くらいしか頼めないからな、こういうことは。女性同士でしかわからないことも多いんだろうし、憐さえ良ければ行ってくるといいよ」
思わず、目を丸くした。あの過保護な柊が、こんなにもあっさり許可を出すなんて。それだけ柚原先生は信頼されているということなのだろうか。
「じゃあ、今から第六の塔に何人か護衛を頼みに――」
「いらないから! 本当に過保護ね、私がちゃんと見てるわよ。私の体内の機器が発する電波で、位置情報は分かるでしょう」
いつか見たのと同じくだりだ。思わず苦笑してしまう。柊は渋るような表情をしていた。
「大丈夫だ、柊。この間だって、ちゃんと無事に帰ってきただろう。柚原先生もいるし、用が済んだらすぐに帰ってくるから」
「……本当はついていけたらいいんだけど」
「ハル君はお仕事があるんでしょう! 本当に、過保護も過ぎると嫌われちゃうわよ」
その言葉はかなり効いたらしく、柊はぐっとこらえるような表情を見せた。街に衣類を買いに行くだけなのに、まるで戦場に私を送るような振舞だ。
「気を付けて、憐」
その言葉とともに、軽く抱きしめられる。こんな往来で何だか気恥ずかしいが、それで柊が安心するのなら良しとしよう。隣の柚原先生の冷ややかな視線だけが気になって仕方が無かったが。
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