市川紗弓先生作品★スぺシャルショートストーリー

角川ルビー文庫

銀狼帝と愛しき桃の花嫁

祝言前夜

 晴祥はるあきとの祝言しゅうげんを翌日に控えた、その晩。

 夕餉を終えた那津の前に、小さな茶碗が置かれた。

 中身は沼色の液体で、なにやら異様な臭いを放っている。

 差し出したのは那津も日頃から世話になっている、宮廷医師くすし の若い男だ。


「先生……、これ、なんですか……?」

「とっておきの滋養強壮剤です。那津さまのお顔の色が優れないからと、策寛どのの命を受けて急ぎ調合いたしました」


 体調は悪くない。ただ、疲労が溜まっているのは事実だ。

 晴祥との結婚が正式に決まってからというもの、息つく暇もないほど忙しかった。

 祝言の準備はもちろんのこと、かつて逃げ回って拒否した『お后教育』が再開されたからである。

 一国の后として求められる礼儀作法や、宮中のしきたり。

 書道に歌詠み、馬術に香道。

 生更国の地理歴史に、政の仕組み。

 生まれも育ちも平民の那津には、覚えねばならぬことが山ほどある。


「ただでさえ慣れない禁裏きんり暮らしだというのに、いきなりこうも激務では、お身体にさぞご負担がかかったでしょう」

「負担っていう感じではないですけど……」


 大変じゃない、と言えば嘘になる。

 だが那津がみっともない姿をさらせば、恥をかくのは晴祥だ。それを思えば、弱音など吐いていられなかった。

 多少の睡眠時間を削ることなんて苦でもない。が、医師は「睡眠不足は万病のもとですよ」と釘を刺す。


「那津さまが大変丈夫でいらっしゃることはよく存じておりますが、祝言には万全を期して臨まねばなりません。今宵はこれを飲んで早めにお休みになってください」

「あ、ありがとうございます。けどこれ、なんていうかおぞまし……、じゃなくて、ずいぶん変わった臭いですよね。いったいなにが入ってるんですか?」


 医師は「よくぞ訊いてくださいました」と、にっこり笑みを浮かべた。


「良質なスッポンの油と、馬の心臓を粉末にしたものが入っております。それに新鮮な苦瓜の絞り汁と、定番の菊花を加えました」


 訊くんじゃなかった、と即座に後悔した。

 信頼の置ける医師が作ったものであることは、間違いない。先祖代々皇室に仕えてきた由緒正しい家系であり、晴祥や策寛と同年代という若さながら、父や祖父よりも腕がいいと評判なのだ。

 けれど、どう贔屓目に見ても「美味しそう」とは言いがたいそれを前にして、なかなか手を伸ばす勇気が出ない。

 すると那津の隣に控えていた麗が、すっとにじり出た。


「恐れながら……那津さまの前に、わたくしがいただいてもよろしいですか?」

「麗……!」


 いつも那津のために尽くしてくれる彼女のことだ。那津の気が進まないのを察し、毒味役を買って出てくれるつもりらしい。

 医師は気づいているのかいないのか、「麗どのもお疲れでしょうからね」などと暢気なことを言い、もうひとつの茶碗になみなみと注いだ。


「では、お先にいただきます……」


 麗は果敢にもぐいっと器を傾け、一気にいく。それから一呼吸ほどの間を空けて、嚥下えんげの音がした。

 そして無言のまま、震える手で茶碗を置く。


「ど、どうだった……?」

「……な……那津さま、ご安心くださいませ……。その、個性的なお味ですけれど、なんだかぽかぽかとしてきて、力が湧いてくるようです……」


 麗は慎重に言葉を選んでいたが、やせ我慢をしていることは一目瞭然だった。涙目のまま唇を嚙み、背を丸め、明らかにえずくのを耐えている。

 正直に言って、断りたかった。

 好き嫌いがほとんどないとはいえ、なんでも食べられるわけではない。

 だが、自分よりも年若い麗が飲んだのだ。那津のことを第一に思い、その身を犠牲にしてくれたことを考えれば、ここで「いりません」とはさすがに言えない。


「さすが、麗どのはお若いだけあって、効くのも早くていらっしゃる。……さあ、次は那津さまの番ですよ」

「は、はい。いただきます……」


 医師の圧力に促されるまま、器に口をつけた。

 その途端、強烈な刺激臭が鼻をつき、反射的に息を止める。この臭いを一秒たりとも吸いたくないと、本能が全力で嫌がっているのだ。

 それでも、那津は意志の力で押し切った。それしかなかった。

 目を瞑り一思いに、えいっと呷る。


「うっ……」


 酸味と辛味と苦味が互いに一歩も譲らず、喧嘩を始めたような味だった。

 粘膜が受け付けようとしないのかぴりぴりして、なかなか飲み込めない。しかし吐くわけにはいかず、口に含んだままでいるのもつらく、目に涙が盛り上がる。

 爪が食い込むほど拳を握り、やっとのことで飲み下した。すると喉がカーッと熱くなり、五臓六腑がもんどり打つような感覚に襲われる。


「――っ……」

「な、那津さま、大丈夫でございますか……!?」

「うっ、うん……平気。……けど、ごめん、水を飲ませてほしい……」


 まったくもって平気ではなかったが、麗の前で虚勢を張って答える。

 だが持ってきてもらった水を飲もうとした、その瞬間。

 鼻の奥にふと、違和感を覚えた。

 喉に鉄の味が流れてくるのを感じるのとほぼ同時に、くらりと目が回る。


「な、那津さまっ!? いかがなさいました、那津さま……ああっ!」


 全身が湯にのぼせたときのように暑く、頭の中は渦を描いたようになり、たまらずへろへろと倒れ伏した。

 麗と医師が、那津を呼ぶ声がする。

 返事をしなければと思いながらも声は出ず、そのまま意識が遠のいていった。


***


 目を覚ますと、いつもの御帳台の上だった。

 瞬きをしてぼやけた視界が輪郭を取り戻すと、そこには晴祥がいる。

 満月色の美しい瞳を曇らせ、那津を見つめていた。


「おお……気がついたか。よかった、心配したぞ」

「晴祥さま……あれっ? おれ、えっと……?」

「そなた、滋養強壮剤を飲んだのは覚えているか?」

「は、はい。なんだかすさまじい色と臭いのものを……」

「ああ。あれは確かに優れた効能を持っているのだが、どうもそなたには効きすぎたようだな。飲み干してからすぐに、鼻血を出して気絶したのだ」

「……!」


 あまりの恥ずかしさに、那津は顔を覆った。

 気を失ったのも情けないが、よりによって鼻血なんて――最高にかっこ悪い。


「晴祥さまも見たんですか? その……おれの……」

「鼻血か? いや、私が駆けつけたときにはもう止まっていた。それに、気絶といっても四半刻ほどだ。……で、気分はどうだ?」

「なんだか、さっきより身体が軽いような気がします。ってことは、やっぱり効いたんでしょうか……口の中はまだ気持ち悪いですけど」

「ああ、いま水を入れてやろう」


 那津は身体を起こして、晴祥が手ずから注いでくれた水を飲んだ。ひんやりと喉を通る水はいつもよりずっと美味しく、生き返る心地がする。

 三杯ほど飲むと、喉から口にかけてわだかまっていた不快感はすっかり消えた。


「ありがとうございます、さっぱりしました。――けど、こんなときに迷惑をかけてしまって、すみません」

「そなたが謝る必要などない。おそらく根を詰めすぎたのだろうな……無理をさせてすまなかった」

「無理なんてしてません。珍しく身体がついてこなかっただけで、全然平気で」

「それを無理というのだ、那津」


 幼子を諭すような口調で言われると、反論できなかった。


「教師たちの授業を受けながら、神潤庭かむるのにわの仕事も減らさなかったのだろう? いくらそなたが丈夫とはいえ……いや、丈夫だからこそ、限界を超えたことに気づきにくいのだな。これは明らかに私の手落ちだ」

「そんなことありません! おれの出来が悪いから……」

「――那津」


 凜とした声で名前を呼ばれて、言葉の続きを呑む。

 月光のごときまなざしが、真正面から那津を射貫いた。


「そんなに焦らずともよい。いきなり全部できるようになる必要なんてないのだぞ。ひとつずつ、少しずつで構わぬ。たとえなにか不得手なことがあったとしても、それでそなたの魅力が損なわれることなどない」

「……晴祥さま……」

「ましてや私の愛が揺らぐことなど、ありはしない。努力するそなたは美しく、愛おしく思うが、それがすべてではない。私の言いたいことをわかってくれるか?」


 生まれたときから東宮として育てられ、帝として責務を果たしている晴祥は、いま那津が歩き始めた道のはるか先にいた。

 だが、そこからひとりで進もうとはせず、那津がくるのを待っている。道の途中で躓こうと、迷おうと、歩みを止めないかぎり見守ると言ってくれているのだ。


「……はい。おれのことを信じてくれてる、ってことですよね」

「ああ。信じているし、愛している」


 晴祥はきらめくような笑顔を浮かべて、抱きしめてくれる。那津もその広い背中に腕を回して、思いきりぎゅっとした。

 指先にもふもふの尻尾が触れたので、愛しさをこめてそっと撫でる。

 祝言に備え念入りに手入れされた毛並みときたら、それはそれはつやつやで、永遠に触っていたいほど心地がいい。

 ふさふさ、ふさ。ふさふさふさっ……ふさ。

 那津が拍子をつけて撫でているのに気づいた晴祥は、「すっかり元気が戻ったな」と笑い、腕の力を強めてきた。

 何度抱いても、抱かれても、「好き」が減らない。それどころか際限なく増えてゆくのが、本当に不思議だった。


「……ところで、水のほかにも口直しになりそうなものを用意したのだが、もう少しつきあってはもらえぬか?」

「はい、もちろん」


 晴祥が持ってきたのは、大ぶりの茶碗に入った飲み物だった。

 白くてほのかに温かいそれは、麹の香りがふんわりと漂い、桃の花を象った干菓子が浮かべてある。


「これって白酒ですか?」

「いや、甘酒だ。見た目は似ているが別物で、こっちには酒の成分もほとんどない。そなた好みの味だと思うぞ」


 晴祥に勧められるまま一口飲んでみると、まろやかな甘さが口の中に広がった。

 舌触りはとろりとなめらかで、それでいて味が濃い。半強制的に体温が上げられるような滋養強壮剤とは違い、芯からほっこりと温まってゆく。


「美味しい……。すごくほっとする味です」

「気に入ったのならよかった。私も子供のころからこれが好きでな」

「けど、どうして干菓子が入ってるんですか?」

「『桃花酒』を知っているか? 桃の花が咲く時期に無病息災を祈って、酒に花びらを浮かべる古い風習を真似てみたのだ。そなたも私も、無事明日のよき日を迎えられるようにな」


 国生みの桃はまだ、花をつけていない。だから干菓子はその代わりというわけだ。

 二人で一緒にとりとめもない話をしながら、ゆっくり甘酒を飲む。

 ただそれだけなのに、お腹も心も満たされて、幸せな気分になる。

 晴祥はいつでもどんなときでも、那津を甘くしてくれるのだ。


「近いうちに桃の花が咲いたら、本物を浮かべよう」

「はい。きっともうすぐですね」


 飲み終えて空になった茶碗を置くと、晴祥と目が合った。

 雄弁な視線に誘われるようにして瞼を閉じたら、そっと抱き寄せられ、頬に触れるだけの口づけをされる。

 髪に、額に、もう一度頬に。風に吹かれた花びらが触れたようなやさしい接吻に、柔らかな光が胸いっぱいに溢れた。


「……今宵はここまでにしておくべきだな」


 離れていく気配を物足りなく感じて、じっと晴祥の目を見つめる。

 晴祥は「頼むからそんな顔をしてくれるな」と苦笑いをした。きれいなまなじりに、淡い朱が散っている。


「そなたを愛するのは明日にとっておこう。結婚して最初に迎える、大切な夜に」


 耳許で思わせぶりにささやく声に、今度は那津が赤面する番だった。

 どきどきしすぎて、寝不足になったらどうしよう――寝所を去る晴祥の背中を見ながら、そんな不安が過ぎる。

 だがそれは幸いなことに、杞憂に終わった。

 愛情のこもった甘酒と刺激的な滋養強壮剤のおかげか、久しぶりにぐっすりと眠ることができたのだ。

 しかも国生みの桃の花が開花するという、特別な夢のおまけつきで。

 愛らしく咲き染めた花で桃色に染まる御庭はあまりにも素敵で、目が覚めてからもぼーっとしてしまうほどだった。


「正夢になったらいいのにな……」


 祝言当日の朝。ひとりぽつりと呟きながら、御帳台の上で大きく伸びをする。

 今日は最高の一日になりそうな、そんな予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る