警戒厳重

 「高千穂重機に行くぞ」伊刈の号令で夏川と喜多が立ち上がった。

 高千穂重機は小磯町の山林を伐採し、建設残土で谷津を埋め立てて数ヘクタールにも及ぶ敷地を無許可で造成していた。本来なら森林法の林地開発、都市計画法の開発行為などさまざまな許可が必要な工事だったが、すべて無許可だった。県道からの進入路は砂利敷きの狭い通路で門柱には監視カメラや赤外線防犯装置がついていた。それも一つや二つではなかった。

 「ずいぶん警戒厳重なんだな」監視カメラの前を通り過ぎながら伊刈が言った。

 「よっぽど臆病なんじゃなですか」ハンドルを握る喜多が言った。

 「大物ほど臆病なものですよ」夏川が聞いた風なコメントを添えた。

 場内は思ったよりも広大だった。なし崩し的に拡大した造成地なのでまともな区画道路はなく、思いついたような場所にさまざまな工場や倉庫が建っていた。自動車の解体工場、おしぼりの清掃工場など用途もさまざまで、何社にも土地を分割して貸しているようだった。区画さえ明確なら小規模な工業団地だと言えなくもない規模だったが、赤土の上にバラックのような建物が点在しているさまは、むしろどことなく西部劇の開拓地を思わせた。高千穂重機の事務所は、入口に一番近い場所にある平屋のプレハブだった。

 「とりあえず事務所に挨拶してみよう」

 伊刈の指示で事務所前に車を停めると、留守番をしていた派手な化粧の女性事務員がミュールのヒールをパタパタさせながら飛び出してきた。四十歳くらいだが年齢にそぐわない色気があった。

 「どちら様ですか」

 「市のパトロールです。ちょっと奥の倉庫を見せてもらいたいんですが」

 「それなら社長が今こっちに向かっているところなんで待ってもらえますか」

 「いいですよ」

 「中へどうぞ」

 「いやここでいいですよ」

 「そうですか」

 社長が向かっているのは偶然ではなく、監視カメラと赤外線防犯装置でパト車が来たと通報が行ったのだと思われた。

 数分もしないでもうもうと砂埃を巻き上げて黒塗りのベンツ600が駐車場に滑り込んできた。

 「あんなんだい、なんの騒ぎだい」ベンツの運転席から降りた九重社長が下品な蟹股歩きで事務所に向かいながら待ちきれないような大声で怒鳴った。外見は気にしないようで韓国風の幾何学模様のセーターによれよれのズボンを履いていた。太い声の割には小柄で細身な男だったが、人を疑うような目線には修羅場を潜ってきたしたたかさが感じられた。

 「社長さんですね」伊刈が九重に正対して言った。

 「あんた誰だよ」

 「市の環境パトロールです」

 「もしかしてあれかい、あんた伊刈かい」

 「そうです」

 「ほう」九重は興味津々で伊刈をなめまわすように見た。「なんで中に入らねえんだよ。中で待ってろって女が言ったろう」

 「お邪魔かと思って」

 「こんな目立つとこで役所にうろうろされるほうがよっぽど迷惑だわな。何かやったみてえじゃねえか」

 「ここは油臭いですね」

 「いきなしその挨拶はなんだい。あんたほんとに愛想がねえなあ。それじゃ出世しねえぞ。うちは重機屋なんだからオイルの臭いくらいすんだろう。それがどうかしたのか」

 「油の垂れ流しはまずいですよ。排水設備はないんですか」

 「ちょっとはこぼれることもあるじゃねえか。あんまり細かいこと言うなよ。板金屋みてえに危ねえものは使ってねえんだし気にすんなよ。まあ立話はなんだ、中に入れや」

 「いえそれよりあっちの倉庫を見せてもらえますか」伊刈は事務所の左手にいくつか並んだ倉庫を指差した。敷地の奥の倉庫に不正軽油製造施設があったと聞いていたのだ。県税事務所の検査で空っぽなのはわかっていたが、自分の目で確かめてみたかった。

 「とに愛想がねえやつだなあ」

 「お茶を飲みにきたわけじゃないんで」

 「あそこは今は使ってねえよ。こないだもどっかのお役所が見に来たよなあ」

 「県税でしょうか」

 「ああそうだったかもな」九重はしらばっくれた。

 「それを確認したいんです」

 「なんべん見たって同じだよ。暇なこったな。それで給料もらえんだからいいよなあ」

 「拝見してもいいですか」

 「鍵はかけてねえからよ、勝手に見ていきな。俺は事務所にいっからよ」

 「サンプルもいただいていいですか」

 「そんなものねえけどほしいなら勝手に持っていきな。その分奇麗になって助からあ」

 「それじゃ拝見してきます」伊刈は倉庫に向かって歩き始めた。

 「見て終わったらよ、せっかくだから茶でも飲んで行きなよな」九重はよっぽど自信があるのか余裕の表情で事務所に入ってしまった。

 確かに倉庫の扉に錠は下りていなかった。ところが錆付いた扉は簡単には動かなかった。三人がかりで引っぱってやっと人が通れる隙間ができた。もともとあった天窓がトタンで封鎖された倉庫内は真っ暗だった。明かりのスイッチを探しあてると天井から下がった蛍光灯が辛うじて何本か点灯した。足元は土間で倉庫というより作業場のようだった。倉庫内は空っぽではなく、奥の壁際にフレコンバックが二十個ほど土手のように積まれていた。

 「この中身スラッジじゃないですか?」夏川が袋の中を覗き込みながら言った。

 「スラッジってなんだ?」伊刈が聞いた。

 「関東興油にもあったじゃないですか。不正軽油製造の最後の工程でフィルタープレス(濾過機)から生じる残渣ですよ」

 「そんなものあったなんて全然気付かなかったよ。さすがだな」

 「ピッチのように強酸性じゃないし毒性のあるガスも発生しません」

 「それでもここで不正軽油を作ってた間接的な証拠にはなるかな」

 「よそから持ってきたと言うんじゃないでしょうか。それより土壌を調べたらどうでしょうか。不正軽油を作るのに使う濃硫酸、消石灰、活性炭、白土(酸化アルミニウム)が全部検出されたら、ここが製造所だって証拠にならないでしょうか」

 「それでも状況証拠だけどな。否認されたら終わりだ」

 「それはそうですが」

 「サンプルの採取をするなら社長に立会わせて指差しさせないといけない。勝手に採取しても証拠能力がない。その前に隣の倉庫も見てみよう」

 「わかりました」夏川は納得したようにスラッジの袋から離れた。

 検査チームは二番目のやや小ぶりの倉庫に向かった。扉を開けるなり、異臭が鼻をついた。一斗缶が百缶ほど無造作に積まれており、その一部が腐食して破れ、流れ出した廃油で倉庫の床が真っ黒な油の海になっていた。

 「ひどいな」伊刈は絶句して立ち止まった。

 「悪臭の原因はこれですね。有機溶剤みたいです」夏川が一斗缶のラベルを確認しながら冷静に言った。

 「そんなに近付いて大丈夫なのか」

 「体にあんまりよくはないです。すぐに措置しないととんでもない土壌汚染になりますね」夏川はハンカチで口を塞いだ。

 「引き上げませんか。気持ちが悪くなってきました」過敏な喜多が口を押さえながら言った。

 「マスクがないと危ないかもな」伊刈も危険だと判断して倉庫の扉を閉めた。

 事務所に引き上げると九重がどこかで拾ってきたようなぼろぼろの応接のソファでコーヒーを飲んでいた。

 「何かあったかい?」

 「スラッジが入ったトン袋がありましたね」夏川が言った。

 「それがどうした?」

 「軽油を搾るときに出る残渣ですね」

 「まあ座れや。お茶を淹れっから」

 伊刈たちがソファに座るのももどかしげに最初に挨拶した女性の事務員がインスタントコーヒーを煎れて出した。味は期待できなかったがカップはきれいに磨かれていた。

 「スラッジを出す施設があったのですか」夏川がたたみ掛けた。

 「なんのことだかわからないけどよ、土壌消毒に使えるいいもんだからって聞いたんでわざわざ買ってきたんだよ。それが問題なのか」

 やっぱりそう来るかと思いながら伊刈は夏川を見た。

 「石灰と活性炭が主成分ですから土壌消毒に使えないことはないですが、作物が油臭くなりますよね」夏川が言った。

 「臭いなんか畑に撒けばすぐに消えるよ」

 「空っぽになる前に倉庫は何に使っていたんですか。土間じゃダンボールとかは置けないですよね」伊刈はだめもとで聞いてみた。

 「重機や油の保管場に使ってたんだよ。このところの不景気で重機の借り手がねえから、古いのをみんな手放したんで、それから空いてんだよ」

 「小さいほうの倉庫からは油が流出してますね」

 「あの倉庫は俺のじゃねえよ。貸しててたやつが逃げちまったんだ」

 「だいぶ油臭いですがなんの油ですか」

 「コンデンサの絶縁油だって聞いたよ。油を抜いて中の銅を取ってたんだよ。俺も臭くて迷惑してんだよ」

 「絶縁油だったらPCBが入ってますね。流出したまま放置するのはまずいですよ。どうやって油を処理してたんですか」

 「ドラム缶を釜にして燃やしてたみてえだな。今はもう釜はねえけど、やってるときは裏に小さな作業場があったんだ」

 「最悪ですね。塩素ガスが出たら自動車や重機にもよくないと思いますよ」

 「だったらやめてもらってよかったわ」

 「硫酸ピッチから出る亜硫酸ガスはもっと毒ですよ。ガスでコピー機やカメラがだめになるそうですよ」伊刈が鎌をかけるように言った。

 「ふうんそうかい。そいつは覚えておこう。必要のねえ知識だけどな。それなんていうだっけ。テレビでやってたじゃねえか」九重が事務の女を振り返った。

 「トリビアでしょ」

 「そうそれだわ。ほかに用がないんなら帰ってくれねえか」

 「マツダエンジニアリングの海老原さんをご存知ですか」

 「知らないね。マツダの車でも売ってる会社かい」九重は眉一つ動かさずにしらばっくれた。

 「海老原さんはピッチの処分を請け負ってたそうですね」

 「ピッチってなんだよ。野球のピッチャーのことかい」九重はあくまでとぼけた。

 「敷地の奥に積まれてる産廃なんですが」喜多が恐る恐る言った。

 「あん、まだなんかあんのかい」九重が喜多を睨みつけた。

 「市長名で指導文書が出ていると思いますが」

 「そんなもん忘れたよ」

 「五年前に出てます」

 「そんな昔か」

 「撤去するという回答をいただいていますが、それきり撤去されていませんね」

 「ふうんなるほど。だったらそのうちやるわ。今は金がねえからちょっと待ってくれよ」九重にとっては喜多の指導などまるで糠に釘だった。

 「今日はこれで引き上げますよ」伊刈は二人を促して立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る