二節【その女】

2-1 試練


 かつて多くの飛鯨船乗りを呑み込んだ、暗黒の大海原があった。

 最下層へと続く最後にして最大の難関。

 ―――そこは第19海層『魔の海』。


 『海』とは名ばかり。どちらかというと『奈落』のほうが近い。

 そこは上下の境がなく、雨が空へ向かって降り、風がいかづちを投げ合って退路を塞ぎ、城ほどの雹が道行きを襲い、光のことごとくは届かない。


 神話を紐解けば『嵐の主人の指先がその地を呪った』とあり、そこではまだ、神々の戦乱の残り火がくすぶっているのだという。


 多くの船乗りが果敢にも挑戦し、そして敗れた。


 かの空の民、ケツルの一族ですらそれは例外ではなく、彼らをしてこの魔の海に踏み入ることを拒ませた。

 ケツルの巡礼の旅路において『魔の海』は、死に逝くものだけが訪れることを推奨される。彼らが信仰する天空の神々の力で満たされたこの海層は、ケツルにとっての聖地に等しく、しかし冥界にも等しい。


 物語を知るものも、知らぬものも、いまさら胸が高鳴りだす。伝説への畏怖と死への恐怖。そして神秘への期待。

 三度目の『魔の海』への挑戦。

 甘かったと、ヒースは奥歯を噛み締める。

 『海層突破点』。

 そこは『上』へと続く『あな』だ。それぞれの雲海の上は漏斗じょうご状にすぼみ、次の海層の深海へと繋がっている。孔は巨大で、渦を巻く雲の流れを見れば、見つけるのは容易である。この『魔の海』も例外では無かった。

 だからこれは、まったく想定できなかったトラブルだ。

 自然に海層突破点が塞がるなんてありえない。


「海層突破点を封鎖された……」

「うそだろ……」

 サリーがうめくように溢す。

 皇子たちも座席から身を乗り出し、塩辛い唾を飲んだ。

 グウィンが言う。

「フェルヴィンが陥落したせいか」

 ヒースは肯定した。

「僕が出立したとき、王都からの使者がすでに港の封鎖と情報の規制を始めていました。フェルヴィンへ行くのはもちろん、フェルヴィンから来た僕らの船も、ずいぶん疑われて……」

「情報が早いな」

「ちょっと待て。早すぎるだろう」ケヴィンは眼鏡の奥の視線を厳しくして言った。「ヒース、きみが港からとんぼ返りしたのは、『審判』が始まって二晩たったくらいのときのはずだ」


「異変が起きたのは、フェルヴィンだけじゃなかったのかもしれないな」

 グウィンが後ろ頭を掻いた。「それより今は、海層突破点だ。魔法使いの国には、三つの海層突破点があるはず」

「うちの一つ、サマンサ領沖の突破点は、もう何十年も封鎖されてます」サリヴァンが言う。

「残りの二つも駄目です。見えません」

「燃料は」

「フェルヴィンに戻るまでもちません」

「……そうか」

 グウィンはざらりと顎を撫でた。「……では我々は、ここで死ぬのかい」

 質問に、ヒースは応えられない。

 船の駆動音と窓を叩く雨風の音だけが響く。

 全員が呑み込んだ言葉の中に慰めを探していた。そしてそんなものがないと気が付く。

 溜息がこぼれた。


 最初に、サリヴァンが立ち上がった。

「……神にでも祈るか」

「うわっマジかよ」

 ジジがこれ見よがしに顔をしかめる。

「おまえなー! 忘れがちみたいだけど、おれも一応は由緒正しい神官なんだからな! とりあえず祈るんだよこういうときは! 」

「ごめん……きみの日頃の行いがああだからボクったら……」

「反省に見せかけてけなすんじゃねえ」

「貶してないよ。ほら、ボクって言葉が選べない魔人だからァ」

「口が減らないの間違いだろ」

「気はあうでしょ」

 ジジはなんでもないことのように言い、二の句を継げなくなったサリヴァンを下から見てニヤリとした。否定はできないが、かといって肯定するなら、さらりと「そうだな」なんて言って流したい。しかしそのタイミングはすでに逃している。敗北の結果として、サリヴァンは顔をしかめながら、真横でニヤニヤしながら浮かんでいるジジの顔を押しのけるように遠ざけた。

 上機嫌なままジジが言う。

「まっ、どうせやることないし、やってみるのもいいかもね? ボク、こういうときじゃなきゃ神さまになんて祈りたくないもの」


 ケヴィンがちょっと笑った。場の空気がゆるみ、悲壮感が薄れる。

 ヒースは笑えはしなかったが、ひどく有難かった。神々の存在よりも、この目の前にいる友人たちの存在が嬉しかった。

 ここにいる誰よりも神の血を引くというのに、ヒース・クロックフォードは、ここで神に祈ることはない。

 声をかけるべきは、ここにいるかも分からない神々ではなく目の前にある魔の海で、やるべきことは、計器から目を離さないこと。空に道を探すことだ。

 みちを途絶えさせてはならない。

 なぜなら、この船には希望が乗っている。

 いまはヒースだけが見ている希望でも、いずれ人々はその輝きを見い出すであろう。

 神がいるのは知っている。

 だから、ヒースがここでするのは祈ることではなく、みちを阻むものに挑むことだ。

 ――――たとえそれが神の采配であったとしても。


 その瞬間、目の前が拓けた。



 ――――いにしえの声が物語ものがたる。

 ――――曰く、光の鯨は旅路を守護するもの。『選択』を司り、正しき行いを祝福せしもの。


 これは神話の再現だ。


 『魔の海』が晴れている。

 中天には、直視できないほど明るい太陽が。渦を巻き、重なりあう雲は、雲海を成して巨大な城壁の様相である。

 そんな光の只中に、ヒース操る飛鯨船を先導するのは、伝説に謳われる白鯨。

 そしてその顎が示す先に、城があった。


 その城は、確かに人工物のように見えた。

 例えるならば、純白の巨大な車輪。

 大小の円柱を束ねた中心から、放射状に弓なりの橋架が伸びており、円を描いてすべてが繋がっている。

 近づいてみると、いよいよ大きい。中心だけで一つの都市ほどもあるだろうか。白鯨の巨躯が小魚のように見えるほどだ。

 円柱は細いものでもフェルヴィンのアトラス城ほどもの直径があり、近くで見ると純白には程遠い色合いをしている。青みがかった灰色の建材であり、古ぼけて黒ずみ、産毛のように苔かあるいは水藻のようなものが生えていた。


「こんなところが……! 」

 ヒース・クロックフォードは慄く。船乗りたちの体と夢を呑み込んできた空。

 そこに――――こんなものが隠されていただなんて。



 ✡



「お待ちしておりました」

 ヒースは遥か下にいる白鯨と、計器越しに目が合った。

 白鯨は、最も大きく高い、中心の円柱。その上部で目印のように浮かんでいた。

 飛鯨船が着陸し、タラップを下ろすと、全員が興奮した足取りで下船する。

 白鯨の巨躯はすでになく、かわりにいるのは、やはり白髪の子供。手には、波紋を模った意匠の錫杖がある。

 白鯨……『審判』は言って、ただっ広く何もないように見えるそこを、背を向けて歩き出した。

 広いばかりの無機質な塔の屋上で、階段を見つけるまでは、それほど歩かなかった。

 先を行く『審判』は、暗い回廊を錫杖に灯した明かりをかかげて降りていく。

 暗闇を下へ、下へと進んでいくうち、ヒースの胸には、記憶に新しいフェルヴィン城地下のことが思い出された。

 人数分の足音だけが響く。

 全員が押し黙ったまま、足裏が階段の終わりを踏んだ。

 サリヴァンのすぐ後ろを歩いていたヒースは、彼が小さく咳をした訳を、すぐに知った。


 足元に、小鹿とみえる焼死体がある。

 動物たちは、ここが外へと繋がると知っていたのだろうか。草食も肉食もなく、折り重なる大小の遺骸が転がっていた。

 円柱の中にあるはずのそこは、不思議なことに青い空がある。

 晴れた空のもと凄惨な山火事の名残りが、匂い立つまま残っていた。


「ここに何があるの? 」

 ヒースが問う。

「我々はここを、『保管室』と呼んでいます。動物、植物、あらゆる生命。かつて失われた、あるいは失う可能性のあるものたち。ここにある円柱のすべて、それらを最良の環境で保全する機能があります」


 焼けた森を抜け、干上がった泉を横切り、残った煙を避けて、『審判』の背中を追いかける。

 風が吹いていた。太陽は本物と見分けがつかない。ゆっくりと流れる雲には、雨のきざしは見えなかった。

「それがなぜ、こんなことに? 」

「もう必要ないからです。この保管室エリアは放棄し、エネルギーは『審判』の稼働に回されます。なぜなら、『最後の審判』が正しく遂行されなければ、すべてが無駄になる。お分かりの通り、すでに当初に描いていた筋書きからは脱線しておりますので」

「当初の筋書きって? 」

 ぷかぷか浮かんだジジが、片方の眉を上げて訊ねた。『審判』が振り返り、ガラス玉のように輝く瞳にジジとサリヴァンを映す。

「『審判』が立案された当時の予定では、『死者の王』の復活はなく、フェルヴィンの『皇帝』は数年後に正しく若き皇太子に継承され、『愚者』はコネリウス・サリヴァンに。そして『星』はあなただった。そういうことです」

 ジジは目を瞬いた。「ボクが? 『星』? 」

「あなたは、あの人にとっての『星』として生まれた。『星』は導くもの。『愚者』は迷い、立ち向かうもの。あなたは変わった。当初の想定よりも、大きく自分の形を変えてしまった」

「……まるで悪い事みたいに言うじゃないか」

「良し悪しはまだ分かりません」

 無機質にそう断じた『審判』は、なぜか次にヒースを見た。「今はまだ、すべての旅の途中であるから」

 風が『審判』の髪を揺らし、その下にある黄金の瞳がきらめいた。瞳孔のない、輝くばかりの瞳に、丸く歪んだ鏡像が映り込む。眩暈がして、ヒースはその両眼から目を逸らした。

「我が身は『審判』。選択するもの。あなたの運命をはかるもの――――」


「いやに霧が出てきたな」

 嫌そうにサリヴァンが呟いた。

 ヒースは落ちかけていた瞼を開き、はっと顔を上げた。『審判』のぼんやりした視線が、林の名残りの奥を見つめている。

「……ああ、来た」


 さくり。

 ……陽光があってもなお暗い、炭化した木々の奥から足音が聞こえる。


 しゃくり。

 サリヴァンの顔に『まさか』という驚愕が広がっていく。自分もきっと同じ顔をしているに違いないと、ヒースは思った。

 歩き慣れた庭を散歩するような足取りだった。

 ――――そうして女は姿を現した。

 太陽が似合わない人だと、ヒースは改めて思う。今日の服装は、より『夜』の色が濃い。

 ひざ下の深い藍色のワンピースドレス。羽織った白衣。薄化粧。唇に引いた紅の色は淡いのに、白い肌と濡れた瞳の力強さが、女を夜の属性にしている。


師匠せんせい……」

 サリヴァンが彼女を呼んだ。

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