17-1 降霊術
束ねた髪の先を握り、ぴんと張ったそこに刃を当てた。ジャリッという感触とともに、乾燥パスタ一人ぶんほどの髪束が落ちたが、サリヴァンは顔をしかめてナイフを置く。
「……これ、けっこう頭皮が痛いな」
「だから言ったじゃん。そうなるって。大人しくたち切り鋏でジャキッとしちゃえば良かったんだ。神様も供物になる髪を何で切ったかなんて気にしやしないよ」
「……フェルヴィン製の鋏ならいっか」
すかさず、椅子に逆向きに座ったジジが、帆布を切るための大きな鋏を差し出す。
「片手じゃ無理だ。お前がジャキッとやってくれ。結び目の間を切るんだぞ。あと、なるべく一本も落とさないように。十一年溜め込んだ魔力だ」
「分かってるし、こんなにギトギトに油を塗ってあったら落ちません」
「頼むぞ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ちょっと失敗してもキミは十分男前だから」
「ほんとに頼むぞ! 」
「まかせて。ボクの器用さは折紙付き……あ」
「あって何だよ!? 」
ふと、閉じていた扉が
ジジがそっと扉を閉めた。
扉の外は風一つ無く凪いでいて、濃い霧がみっしりと世界を白く染めている。
「……ただの風か? 」
そう呟いたサリヴァンの言葉尻には、まだ疑念が滲んでいた。
✡
切った髪は、
何度か素振りをし、袖口から『銀蛇』が淀みない動きで顕れるまでの動作を確認する。
両刃の短剣から始まり―――――片刃、片刃の長剣、両刃の長剣、錐のように細い刺突剣、厚い刃の双手剣、短槍、長槍……さらには死神の大鎌のようなものまで。
霧を裂くように、刃の軌跡が生んだ白い線が、閃いて輝いた。
襟から湯気が立つほどに体を温め、首筋をざらりと撫で、頭が軽いことに気が付く。
軽く首を振ると、耳に差し込んだピアスが、チリチリと澄んだ音を立てた。
霧の向こうに向ける瞳の
白く吐き出された吐息に、腹の内で燃えるものが込められている。
すべてを閉ざして、瞼を閉じる。
それは短い黙祷だった。
夜明け前。
埠頭に拵えたのは、白いクロスをテーブルにかけただけの簡易的な祭壇だった。そこに、潮風で錆びかけた燭台を置き、花を飾り、皿に山盛りにした塩を置く。擦り切れた石畳には、貝殻を使った鳴子をしきつめた。
サリヴァンは『銀蛇』ではなく、石を割ってつくった剣を手に取った。蘇芳色の刃が篝火にぬるりと赤く輝き、熱せられた鉄に似た光沢をみせている。
今度ばかりは、生贄なしというわけにはいかなかった。しかし、血肉が通った牛など今のこの国にはいない。
牛一頭分の加工肉を並べ、サリヴァンは極めて伝統的な手法を模倣して、祭壇の前に立つ。
皇子たちもまた、サリヴァンの二歩後ろに立ち、祭壇の前に拝している。
サリヴァンは、今度は吐息の色さえ殺してみせながら、瞼を閉じた。
霧に遮られ太陽はまだ遠いようであるが、海の端には、もう太陽が手をかけているだろう。その光が届くのがずいぶん遅いというだけのことだ。
太陽も、月も、星も無い。
それは今から儀式を行う魔術師にとって、「水が無いままパンを焼け」というようなものだった。
ならば、水のかわりに別のものの力を借りるしかない。
「
塩を掴んで、ざらりと祭壇に広げる。何かを描くような手が、ナイフに触れて血を流した。白い塩粒を染めるように踊る手指の先にある顔は、文字通り傷口に塩を擦りこむことに苦痛を感じていない。
祭壇に、血と塩の粒でなる図が描かれる。
『円』は『囲い』。
『三角形』は『循環』。それを二枚重ねた六芒星は、『循環』に加えて『浄化』も司る。
六芒星の中に描きこむ一文字一文字にも意味がある。それらを組み合わせ、魔術師は『あちら』へと語りかける。
ジジは、祭壇の向こう側に立っていた。
海を背に、尖った銅板の欠片を握って、その断面を肌に食い込ませた。
「オルクスのしもべ……————ヤヌスの許しを……—————トリウィアの導きを……—————」
けして大きな声ではない。しかし、聞こえない距離でもない。
サリヴァンのくぐもった声は、霧中に取り残されるように遠ざかる。海を背にするジジは、ミルクのような闇の先、霧のうねりで瞬いて見える赤黒い光を見つめた。
唐突に、強く、
空の向こうで、鳥に似た甲高い音がした。
サリヴァンは、まだ絶え間なく呪文を呟いている。塩が傷口に融けだし、傷を苛む。血で汚れたクロス、赤く染まった結晶、今にも風に攫われそうな篝火から伸びる細い煙―――――それらが白い暗闇の中に、ぽっかりと漂流している。
ジジは、なおも強く銅板を握った。その瞳は見開かれ、闇に孤立しながらも、微動だにせずすべてを見届けていく。
魔人の鋭敏な耳が、霧の向こうから鳴子を避けてやってくる足音をとらえる。
霧に滲んだのは、か細く、薄い『青』だった。
たどたどしいほどに躊躇いのある足取りとともに、ぽっかりと『青』が、霧を掻き分けてやってくる。
サリヴァン以外の目が、その存在に気が付いた。
冥界の青い炎は、親指ほどしか無い。
ああ……と、最初にか細く声を上げたのは誰だったのだろう。それきり、誰も声を漏らしたりはしなかった。
ほんの少しの間だった。
彼は、霧の奥に、まっすぐ見つめ返してくる兄の姿に動揺したに違いない。
「……アルヴィン? 」
カラ――――ン……。
後ずさる
「アルヴィン! 」
「アル! 戻ってこい! 」
カラ、コロ、カラコロカラカラカラ…………——————。鳴子の音が遠ざかって、青い炎も霧の向こうに消えていく。
白い闇が再び祭壇をのみ込み始め、吹き荒れた海風が凪いだ。
燭台で、溶けきった蝋燭の軸が、糸杉のように細く伸びて消える。
彼らに見えたのは親指ほどの青い炎。—————そして、石畳の上で
右足は脛の半ばまで、左は、踵すらなかった。
心臓の位置に燃えていた青い炎が、網膜に焼き付いてチカチカと目が眩む。
白いヴェールの向こうを見つめる三対の目は、それぞれに揺れていた。
「まだ終わってないぞ」
魔人が笑いながら言った。
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