4
展示室の奥に残っていた四人に変わりはなかった。強いて言うなら、真壁の口元の鼻血が拭き取られてあったことだろう。よく見れば彼の右の袖が赤く汚れており、それでぬぐったことは、おれでさえ想像がついた。
無事に再会を果たした宗佑と佐々木は、抱き合って喜んだ。その臆面もない様子に古賀は渋面を呈するが、おれも複雑といえば複雑だった。
気づいたのか、宗佑は佐々木の体をそっと離すと、ばつが悪そうにおれを見た。
「悪かった。はしゃぎすぎた」
そう詫びた宗佑を、佐々木が不服そうに見る。
「そーちゃん?」
普段から佐々木は宗佑にべったりなのだ。今回に限ったことではない。宗佑の今の態度が意外だったのだろう。
「秀美、状況が状況だし」
宗佑が言うと、佐々木ははたと気づいたらしく、表情を変えた。
「そうだよね。大変なことが起こっているのに、いちゃいちゃしていたら不謹慎だよね」
おそらく佐々木は、おれと松井との展開を知らなければ、松井の死も知らない。悪気はないのだ、と思うことにした。
「でも、この手、どうしたの?」
佐々木は宗佑の左手を見た。
「手のひらをちょっと切った。血は止まってきたから、すぐに治ると思う」
「せっかく持ってきたんだ。使ってくれ」
おれは救急箱を掲げた。
「わたしがやる」
買って出た佐々木に、おれは救急箱を渡した。
「ニッタ、これはどこで?」
「事務室にあったんだ」
「そうか、ありがとう」
宗佑はおれに笑顔を見せた。
佐々木はしゃがんで救急箱を床に置くと、ふたを開けて中身を確認した。そして、「消毒してから包帯を巻くよ。じっとしていてね」と宗佑に告げ、作業に取りかかった。
「秀美、世話をかけちまうな」
佐々木に左手を差し出した宗佑が、おれを見た。
「玄関のほうへ移動しないか?」
突然の提案におれは躊躇した。
「どうして?」
「無事なやつがまだいれば、ここに逃げてくるかもしれない」
つまり、逃げおおせてきたやつを中に入れるためにいつでも解錠できるように待機しておくわけだ。
「そうだな。今だって来ているかもしれない」だが、懸案事項があった。「有野は?」
「本人には申し訳ないけど、外に出そう。おれがやる」
宗佑の言葉を受けて、おれは提案する。
「外に出るのは危険だ。それより、事務室の隣の備品質にブルーシートがあったから、とりあえずそれをかけておこうよ」
「そうか……そうだな、そうしよう」
宗佑は納得してくれた。
「有野くんが、どうかしたの?」
怪訝そうに尋ねてきたのは城ヶ崎だった。
「やつらにやられたんだ。玄関に倒れたままなんだよ」
宗佑が答えた。
「やられたって?」宗佑の手当てをしながら、佐々木が眉を寄せた。「まさか?」
佐々木も城ヶ崎も、女子トイレから出たときに有野の遺体に気づかなかったらしい。
「そういうことだ」
短く答えた宗佑が、早瀬と水野に顔を向けた。
早瀬は不安げにおれたちのやり取りを見ており、その隣に立つ水野に至っては、状況を把握しようとしているのかいないのか、うつむいたままだ。
「早瀬と水野も来てくれよ」
宗佑の言葉に早瀬が頷いた。
「そうだね。みんな一緒のほうが、いいと思う」
「早瀬は水野を頼む。それから」と宗佑は、へたり込んだままの真壁を見た。「真壁はおれとニッタで移動させよう。置いていくわけにもいかないしな」
「そうしよう」
おれの賛意表明とほぼ同時に、佐々木による宗佑の手当てが済んだ。包帯に巻かれた左手は不憫だが、これで不用意に傷口を痛めることは避けられるだろう。
おれが真壁の右脇に腕を通すと、宗佑が真壁の左脇に腕を通した。二人でこの哀れな担任を抱え起こす。
宗佑の「さあ、行こう」という号令で全員が歩き出した。
救急箱を大切そうに両手で抱える佐々木の姿を見て、おれは松井がたまらなく恋しくなった。
ロビーは静まり返っていた。
玄関のほうを見るが、有野の大小二つの遺体があるだけで、外に人の姿はない。
売店の前に四人がけのベンチが二つ、横に並んでいた。その一つの端に、おれと宗佑は真壁を座らせた。早瀬が水野とともにその隣のベンチに腰を下ろす。
ベンチの横の床に救急箱を置いた佐々木が、宗佑の前に立った。
「わたし、売店に何か飲み物がないか、探してみる。適当なものを人数分、もらっちゃっていいよね?」
「そうだな。誰も文句は言わないだろう」
宗佑が認めると、城ヶ崎が片手を低く挙げた。
「わたし、手伝ったほうがいいかな」
どことなく、不本意である、という趣があった。
「頼むよ」
宗佑が言うと、佐々木と城ヶ崎は売店の物色を開始した。
「わたしは少し休ませてもらうわ」
古賀は宣言するなり、真壁と同じベンチに腰を下ろした。もっとも、真壁とは最大限に距離を置いている。真壁はうつむいたままであり、古賀を見ようともしない。
「有野のほうはおれがやる」おれは宗佑に言った。「宗佑はみんなを見ていてくれ」
みんなというより、真壁と古賀を監視してほしかったのだ。
「ニッタ、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。リーダーはここにいてほしいな」
「そうか、わかった」
小さく頷いた宗佑は、おれの意図を汲んでくれたようだ。
おれは備品質からブルーシートを持ち出すと、玄関ホールに向かった。
自動ドアが開くまで有野の遺体を見ないようにしていたが、それにも限界がある。玄関ホールに入ったおれは、有野の首なしの体に向かって歩いた。
背後で自動ドアの閉じる音がした。自分だけがみんなから引き離されてしまったかのようだ。いつの間にか、浮き足立っていた。
振り向くと、こちらの様子を窺っているのは、ベンチの前に立つ宗佑だけだった。それでいい。こんな作業を女子たちに見られるのは気が引ける。
有野の体は、うつ伏せの状態で、狭いホールの中央にあった。頭部は玄関ドアのすぐ手前だ。
おれはブルーシートを床に置くと、有野の両足首を持ち、その体を玄関ホールの端へと引きずった。ブロックタイルの床は滑りにくく、それなりの重さを感じた。首の切断部からあふれる血が、床に生々しい跡を残す。遺体の両腕が若干開いてしまったため、手抜きせず、それを閉じてやった。
続いて、玄関マットの上に転がっている頭部だ。おれのほうに向いているのは、ちょうど後頭部だった。彼の顔は見えない。とはいえ、それを素手で持つのは勇気が必要だ。いや、勇気はないが、踏ん切ればいいだけのことだ。
おれは両手で有野の頭部を持ち上げた。手を当てたのは、左右の耳の辺りだ。まだなんとなく温かく、皮膚や毛髪の感触も、生きている人間と変わらない。意表を突かれたのは、その重さだ。同程度の大きさのスイカと同じか、もしかするとやや重いかもしれない。
有野の顔を見ないように、そしてロビーのみんなに向けないように、ずっしりとした頭部を、切断部同士が合うように置いた。
体はうつ伏せだが、頭部はどうしてもうつ伏せにできない。とはいえ、立てて置くのは異様に思える。仕方なく顔を壁に向けるように横向きに置いた。つまり、横顔が見えてしまうのだ。半開きの目が、有野の死を如実に訴えていた。
首の切断部からしたたり落ちた血が玄関マットや床に点々と付着していた。引きずってできた細長い血痕と相俟って、現代アートのような模様を作り上げている。
広げたブルーシートで有野の遺体を覆った。遺体は完全に隠せたが、血の絵画までは覆いきれない。
玄関ドアの外を見た。
霧は相変わらず濃かった。
白い闇の中を複数の何かが飛び回っていた。ぼんやりとしたシルエットしか見えないが、蛇のような胴体に巨大な翼を有するものだ。羽ばたきながら飛んでいる。
やつらは資料館を取り囲んでいる。これでは一歩も外へは出られない。
おれは売店の前に戻った。
「ありがとう」
ベンチの前に立つ宗佑が、おれに言った。
「礼なんていいよ。それより、あいつらが飛び回っているんだ」
「そうか。当分は外に出られない、っていうことだな」
宗佑は思案顔で頷いた。
「そーちゃん、これでいいかな?」
佐々木が四本の五百ミリリットルサイズのペットボトルを抱えて戻ってきた。
ベンチのほうへは城ヶ崎が行く。同じく四本のペットボトルを抱える彼女は、真壁を覗く三人にペットボトルを配った。
佐々木から宗佑に渡されたのは麦茶だった。麦茶かウーロン茶、コーラの選択を問われたおれは、ウーロン茶を受け取った。佐々木は麦茶を自分の手に残し、コーラを真壁の横に置く。
ペットボトルは程よく冷えていた。たったそれだけのことで、まだ見放されていない、という気になれた。
「この状況、いつまで続くのかな?」
ウーロン茶を飲みながら、おれは独りごちた。
「というより」水野の横に座る早瀬がおれを見た。「この霧がどれくらいの範囲を覆っているのかが、気になるよ。この一帯の狭い範囲で起きている現象なら、いずれは救助が来るかもしれない。でも……」
言葉を濁した早瀬に変わって、城ヶ崎が言う。
「この霧の範囲がもっと広かったら……例えば日本全土を覆っていたりしたら、救助なんて期待できない」
「どうして?」佐々木が城ヶ崎を見た。「どうして救助が来ないの?」
「だって……それって、日本のすべてが襲われている、っていうことなんだよ。警察だって自衛隊だって、ここに来るどころじゃないはずだもの」
城ヶ崎が躍起になった様子を見せると、麦茶を飲んでいた宗佑が、口を開いた。
「とにかく落ち着こうぜ。落ち着かなくちゃ、いい案も浮かばない」
「そうね」ウーロン茶のペットボトルを片手に、古賀が言った。「まずは飲み物をいただきましょう」
古賀に賛同するのは不本意だが、現状ではそれが最善の選択だろう。
それぞれがペットボトルの飲料を飲み始めた。
うつむいたままの真壁と水野だけは、ペットボトルを持とうともしなかった。
真壁と水野を除く六人がそれぞれの飲料を飲み干した。空になった六本のペットボトルを回収した佐々木と城ヶ崎が、それらを売店の横のゴミ箱に入れた。
飲めば出したくなる。古賀を含めた女性陣がまとまってトイレに行った。数分後、宗佑がトイレに行き、そのあとにおれが行った。真壁と水野、動きたくなさそうなこの二人は、ベンチに座ったままだ。
「おなかすいた」
ベンチの元の位置に腰かけている古賀が、腹をさすりながら言った。
「お菓子とか、パンもあったよね?」
佐々木が城ヶ崎に尋ねた。
「うん……あったかも」
一本調子で答えた城ヶ崎は、乗り気ではないらしい。
「今度はわたしが行く」見かねたのか、早瀬は言うと、おれと宗佑に顔を向けた。「澪ちゃんのこと、見ててね」
「わたしたちも一緒に行こうよ」
佐々木が城ヶ崎のブレザーの袖を引いた。
「うん」
城ヶ崎は不服そうに承諾した。
結局、女子三人が食べ物を物色することになった。
「じゃあ、おれたちは一足先に作戦会議を始めようか?」
おれは宗佑に向かって提案した。
「作戦会議を始めるというより、女の子たちが食べ物を集めている間はわたしと真壁先生を見張っている、というのが本音でしょう?」
やはり元の位置に座っている古賀が、皮肉っぽい表情を浮かべた。
真壁も元の位置に座っているが、相変わらずうつむいたままだ。
「それもある。でも……」おれは古賀を見下ろした。「あんたがかけた呪いなら、当然、あんたに解いてもらわなきゃならない。だから、作戦にはあんたの参加も不可欠だ」
「別に参加してあげてもいいわよ。ただし、役に立てるとは思えないけれど」
「まだしらばっくれるのか」
いきり立ったおれは、肩を軽く叩かれた。宗佑だった。
「女の子たちが動揺するぞ」
宗佑は横目で売店を見た。
三人は懸命に食べ物を物色している。幸いにも、おれの怒気に気づいた様子はない。水野に至っては、すぐ目の前に座っているにもかかわらず、おれの声など聞こえなかったのようだ。
「全然落ち着けなかったようね」
古賀は呆れたように横を向くが、そちらには放心状態の真壁がいた。さらに気分を害した様子で、彼女は反対側に顔を背ける。
「とりあえず考えたんだが」宗佑は言った。「外に出られないということは、当分の間はここにいなければならない、ということだよな。なら、食べ物は節約して少しずつ食べたほうがいいだろう。長期保存に向かないものから食べるんだ」
もっともな意見だ。おれは頷いた。
「水道は生きているから、水については、今のところは問題ないだろう」
宗佑は言うと、天井を見上げた。
「電気も来ているし」
代わりにおれが告げた。
「そういうことだ。そのうえで、外の確認は怠らない。霧がどういう変化をするのか、逐一記録すれば、脱出の方法が見つかるかもしれない」
「わかった。あとさ、一つ気になることがあるんだ」
「なんだ?」
「駐車場にあったでかい足跡だよ。ガイドの里村さんやバスを踏み潰したやつがいる、っていうことじゃん」
おれが言うと、宗佑はこめかみをかいた。
「うーん、あれが足跡なら、かなり巨大なやつだよな。怪獣だよ。でも足跡だとすると、かなりめちゃくちゃな動きをしていたことになる。どっちがつま先かわからないけど、先割れの部分はあちこちに向いていた」
「足跡じゃないのかな……」
「わからない。仮に巨大なやつがいるとして、少なくとも、今はこの近くにはいないようだな」
宗佑はそう言って、玄関に目を向けた。
その視線をおれも追う。
ブルーシートの青と、霧の白とが、冷気のようなものを連想させた。
ここからでは、霧の中を飛び交う影は確認できない。
「とにかく、ばかでかいそいつにも注意しなければならない、っていうことだ」
玄関のほうを見ながら、宗佑は言った。
「そーちゃん」
売店で佐々木が宗佑を呼んだ。
おれと宗佑は振り向いた。
レジ台の上にパンや菓子などが山になっていた。
その傍らで、女子たちが集まっている。いや、そこからベンチの水野を見ているのだ。
おれと宗佑は水野に目をやった。
目の前のベンチに座る水野は、頭がのけぞっていた。目も口も半開きである。
とっさに立ち上がった古賀が、上着を脱ぎ、それをたたんで水野の横に置いた。そして水野をベンチに寝かせる。古賀の上着が枕代わりだった。
駆け戻ってきた三人の女子が、水野を見下ろした。この状況にもかかわらず、真壁はうなだれたままだ。
水野は目を閉じた。息遣いが荒い。
身を屈めた古賀が、水野の額に自分の手を当てた。そして言う。
「熱はないみたい」
この行為が何を意味するのだろうか。偽善に違いない――そう思いたかったが、それ以前に、古賀のような迅速な対応ができなかった自分が腹立たしかった。
水野のぶんのペットボトルを手にした古賀は、そのキャップを開けた。中身はオレンジジュースらしい。
「城ヶ崎さん、水野さんの頭を少しだけ、起こしてもらえるかしら」
「はい」
自分の担任に指示された城ヶ崎が、水野の頭の横にしゃがんだ。
地響きがした。ほんの一瞬だった。おれの気のせいだったのかもしれない。
そのときだった。
「あはははははは!」
笑い声を上げながら、水野が上半身を起こした。
古賀は飛び起き、城ヶ崎はへたり込んだ。うなだれている真壁はそのままだが、おれと宗佑、早瀬の三人がのけ反った。
人間業とは思えぬ素早さで、水野は左手を突き出し、城ヶ崎の胸ぐらをつかんだ。
狂気じみた笑顔の水野は、目を見開き、とらえた城ヶ崎に焦点を定めていた。
「水野、しっかりしろ」
宗佑が水野の左腕を押さえようと手をかけたが、同時に、城ヶ崎を見つめたままの水野が、右手で宗佑の胸元を素早く突いた。
バランスを崩した宗佑は、佐々木に背中から抱き止められた。
城ヶ崎の胸ぐらをつかんだまま、水野は立ち上がった。
「この手を離して」
わめいた城ヶ崎は両手で水野の左手を引き剝がそうとするが、効果は見られない。
水野は城ヶ崎を引っ張って玄関のほうへと歩き出した。
ようやく我に返ったおれは、右手で水野の肩をつかんだ。
「やめろ水野!」
しかし水野は、答えるどころか、軽く肩を揺さぶっただけでおれの手を弾いてしまった。
叩かれたような痛みが手のひらにあった。もしくは電気が走ったかのようだ。
再び宗佑が水野に近づいた。おれもそれに倣う。
どこかでガラスの割れる音がした。
思わず、おれは足を止めてしまった。
ガラスの割れる音が続いた。左右から聞こえる。備品室、事務室、トイレ――自分で施錠を確認した窓という窓が、おれの脳裏に浮かんだ。
宗佑が水野の右腕をつかんだ。
「城ヶ崎から手を離せ」
しかし、彼の手も簡単に弾かれてしまう。
申し訳ないと思いつつ、おれは水野の両脇に手を回して羽交い締めにした。そして宗佑が、水野の左手に両手をかけ、城ヶ崎を解放しようとする。
おれの顔に水野の髪がふれた。香水なのかなんなのか、よくわからないが、柑橘系の甘酸っぱい香りがした。
香りは柑橘系だが、力はまるで巨漢のものである。おれも宗佑も城ヶ崎も、水野一人によってぐいぐいと引きずられてしまうではないか。
ブルーシートのしわが目視できる距離まで進んだ。
自動ドアが開いた。
「やめてよ」
城ヶ崎は泣いていた。
なすすべがないまま、四人は玄関ホールに入った。ブルーシートは、もう足元である。
突然、玄関ドアが外側に吹き飛んだ。
同時に、背後で鈍く大きな音がした。
振り向くと、二枚の自動ドアがロビーの床に倒れていた。その奥で、佐々木と早瀬、古賀の三人が、呆然と立ち尽くしている。ベンチの真壁は、まだうなだれたままだ。
「何がどうなっているんだ」
口を引きつらせながら、おれは毒づいた。
「ニッタ、もうすぐ外に出てしまうぞ」
宗佑の声は諦念を帯びていた。水野と城ヶ崎を見捨てるつもりなのだろうか。
「だからって、離すわけには」
もう誰も犠牲にしたくなかった。その一心で、おれは水野に振り払われないよう、力を抜かなかった。
水野に引きずられるまま、とうとう外に出てしまった。
視界は二、三メートルというところだろう。
まとわりつく湿気が、体の中に入ってくる。
やつらの哄笑が霧を伝って感じられた。獲物にありつけるという喜び、そのものだ。
水野が足を止めた。
足元を見ると、アプローチのコンクリート――ではなく、アスファルトだった。どうやら駐車場まで来てしまったらしい。
「あははは……獲物はここよ。さあ、いらっしゃい」
水野の声が、白い闇に吸い込まれた。
やにわに羽音が聞こえた。複数だ。
一本のロープ状のものが、城ヶ崎の右肩から左脇に袈裟懸けに巻きついた。
「きゃああああああ!」
悲鳴を上げた城ヶ崎が、ふと、宙に浮く。
「させねえっ!」
宗佑が城ヶ崎の腰に抱きつき、彼女を引きずり下ろそうとした。
「ほかの女に抱きつくな!」
叫んだのは水野だった。おれを指しているのかと思ったが、彼女は宗佑を睨んでいる。
宗佑が水野の顔を見た瞬間、別の一本が現れ、宗佑の腰に巻きついた。
「宗佑!」
誰も犠牲にしたくない、という気持ちに変わりない。
城ヶ崎を救いたい。
だがおれは、とっさに水野を解放し、宗佑に巻きついているものを両手でつかんだ。
ひんやりとしたゴムのようだった。鋭いとげは固そうだが、幸いにもとげのない部分をつかんでいた。
化け物の長い胴が、大きくうねった。
とても耐えられず、おれはアスファルトの上に投げ出された。
すぐ横に、宗佑も投げ出されている。
おれと宗佑は同時に立ち上がった。
宗佑の体を解放したものが上空に素早く引いた。同時に、城ヶ崎の体も上空に連れ去られる。彼女の悲鳴が上がったが、すぐにそれは聞こえなくなった。
まだ終わっていなかった。水野の上半身も巻きつかれていた。一本のロープ状のものによって、両腕ごと捕縛されているのだ。
「水野!」
おれは駆け寄ろうとしたが、紙一重の差で、彼女の体は頭上の霧の中へと引き上げられてしまった。 最後に見えた彼女の顔は、やはり笑顔だった。
「澪……」
つぶやきがあった。いつの間にか、おれの横に真壁が立っていた。この視界の悪さと音の伝わりにくさがあっては、何が突然姿を現してもおかしくない。
「澪、おれを置いていくなよ。なあ……澪……おれも連れていってくれ。おれにはもう何もないんだ。なあ……澪……」
嘆いた真壁は、ほうけた表情で頭上を見上げていた。
そんな彼の背後に、古賀が現れる。
「冗談じゃないわ」古賀は真壁の肩をつかんで自分のほうへと振り向かせた。「あなた、逃げる気? 山田先生を殺した罪は免れないわよ。それに、わたしとのことだって、清算してもらわなくちゃ」
古賀の右手は真壁の左肩をつかんだままだ。
「嫌だ。おれは、帰らない」
首を横に振った真壁が、後ずさろうとする。
古賀は右手を下ろすと、今度は左手で真壁の胸ぐらを締め上げた。
「逃がさないわ。あなたには生きていてもらう」
とたんに、おれたちの周囲から霧が引き始めた。
駐車場のあちこちに残された巨大なへこみと、無残にひしゃげた観光バス、駐車場の外縁に立つ外灯などが視界に入る。もっとも、外灯はすべてのライトが割れていた。
資料館の玄関があらわになった。アプローチのコンクリートの上に二枚のドアが倒れており、ガラス片が散らばっている。
佐々木と早瀬が、ブルーシートを避けつつ玄関から出てきた。
霧は完全に引いたわけではなかった。見通しが利くのは、状態資料館と駐車場の一帯だけだ。
羽音は聞こえない。遠くに目を凝らしてみるが、霧の中にやつらの影は確認できなかった。
当面の安全を確認したおれは、古賀を睨んだ。
「古賀先生がこの霧を払ったんじゃないのか?」
おれが問うと、古賀は真壁の胸ぐらを突き放し、顔をこちらに向けた。
「まだそんなことを」
「あんたが真壁先生に、あなたには生きていてもらう、と言ったとたんに霧が引いていったんだ。これって、偶然?」
追求したおれに返されたのは、古賀の呆れたような顔だった。
「そう、偶然」
水掛け論だ。おれは追求を断念した。
「おれが城ヶ崎にしがみついたとき」宗佑が口を開いた。「ほかの女に抱きつくな、って水野が叫んだよな」
「ああ、そうだったな。何か、意味があるのかな……」
気になるのはもっともだが、それより、その顔に疲れが浮かんでいる。少し休ませたほうがいいかもしれない。
佐々木と早瀬がおれたちのところにたどり着いた。
「助かったの?」
早瀬が周囲を見渡しながら尋ねた。もっとも、誰に尋ねたのかは、わからない。
おれは答えられず、宗佑を見た。宗佑も周囲に目を配っており、警戒を怠っていないのが見て取れた。
「でも、中にいたほうが安全かもしれない。少なくとも照明は点いている」
宗佑が言うと、早瀬は頷いた。
「そうだね」
「中に入っても同じことじゃん」
言ったのは、佐々木だった。
「どうして?」
早瀬が尋ねた。
かすかな地響きを感じた。鼓動のリズムのように、短い響きが連続している。気のせいではない。眉を寄せて周囲を窺っている宗佑も、感じているようだ。
「もうすぐ終わるから」
柔らかな笑みを浮かべて、佐々木はそう答えた。
古賀も早瀬も、佐々木を見ている。
「やっぱりな」宗佑だった。「秀美、おまえだったんだな?」
佐々木は笑顔のまま、黙って宗佑を見ていた。
「全部、おまえがやったことなんだ」
疲れた顔が、痛々しかった。
地響きが遠ざかり、やがてまったく感じられなくなった。
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