映画について語る時、人は素直になる

江戸川台ルーペ

ある愛の詩(1970年)はノルウェイの森だ


 映画「ある愛の詩」は、メインテーマと相まって物悲しい話だ。冒頭の孤独なモノローグや、ヒロインの生意気さ加減は、村上春樹のノルウェイの森の緑に通じるものがある。この映画の閉塞感、陰鬱さ加減、限りなくノルウェイの森だ。


 両者の話の筋は、大学生の恋愛話という以外は全然異なるものだ。この「ある詩」(略した)は、生まれや家柄に反発した男がきっちりとその責任を引き受ける話であり、「ノル森」はざっくり言えば、個々人が内側から喪失していく物語である。話のエンジンが外と内にはっきりと区分されており、共通事項は少ない。にも関わらず、僕は「同じだ」と感じている。第六感がこの「ある詩」が少なからず「ノル森」に影響を与えていると、ゴーストが囁いている。具体的にどこが、と言えないのが辛い。あと百回観たら絞り出せるかも知れない。でも僕はそこまでは出来ない。こんな悲しい話を百回も観られない。着メロまでメインテーマに変えかねない。


 この映画の外国題は「Love Story」。ノルウェイの森の有名なキャッチコピー、100パーセントの恋愛小説、というキャッチコピーもここからきているんじゃないか、と僕は睨んでいる。激しい目力をもって(何の役にも立たない)。


 絶対に誰かが指摘しているだろうと思って、ネットの海をグーグル先生に誘ってもらったのだが、残念ながら誰もそんな事は言っていないようだった。「ノルウェイの森って、ある愛の詩のパクリだよねー」的な事を、当時の若者は言っていたのではないかと僕なんかは想像しているのだけど、僕の検索スキルでは探し当てられない。こんな検索スキルで2018年を無事に生き延びられるのだろうか。


 と、そこで村上春樹の小説「アフターダーク」の中で、「ある詩」が登場していたという書き込みがヒットした。僕はその小説を実家の最寄りのTSUTAYAで買い求めて読んでいたけれど、全然忘れていた。


 確か、アフターダークという小説は、読者が映画のカメラワークのような「半透明」な存在になって、その世界で繰り広げられる物事を第三者の視点で読み進める、村上春樹の中でも異色の作品だった。読後は狐に鼻を摘まれたような気分になった。オウムサリン事件の暴力性が色濃くその作風に刻まれていた覚えがある。きっと、村春(遂に略した)はその小説の中で、何かしら大切な実験をしていたのだろう。まあ、それはともかくとして。


 小説アフターダークの中で、映画「ある愛の詩」のエンディングを主人公が改変して、ハッピーエンドとして話をしているそうだ。食うために好きな音楽をやめて法曹界に入る主人公が(法曹界はある愛の詩でも主人公の男が目指し、結果として成功した世界であり、共通性はある)、女の子に「ある詩」を例に挙げて話をしているシークエンスでそのように語られる。


 何故、村上春樹はその小説の中で、映画「ある愛の詩」を「ハッピーエンド」に改変したのか? もうだいぶ前の小説なので、真面目に推測している読者の影はほとんど無いし、それほど熱心に議論されていた熱量も感じられない。「なんで主人公は嘘ついたんだろーねー」「ねー」、で終わりだ。待てと。僕は言いたい。このカクヨムの片隅で見捨てられた最新作、「空気の中に変なものを」を小脇に抱えながら言いたい。待てと(非力過ぎて可哀想なので百円ください)。


 僕はその理由を二つ思い付ける。いや、二つしか思い付けない。前提として、フィクションの世界の中では何でもアリなので、実在の映画の名前を出そうがその筋をどうするかは作者の自由である。でも、少なくとも僕は小説内で映画を実名で出して、その筋を誤って表記するという小説を読んだことはない。だから、意図的にハッピーエンドに仕立てた、という線は極めて太い。では、なぜ改変したのか?


 1 「ある愛の詩」の筋があまりにもベタ過ぎて恥ずかしかった


 真剣に生きている人に映画の話をするのは恥ずかしい。そういう感覚を持ったことはないだろうか? 彼らは「ガチ」で生きているし、映画を観る時間があるのなら、人生により有益な情報(節税対策や保険についてなど)を得たり、職制上賃金が上がりやすい有利な資格を取得する勉強をしたい人達だ。「心」はお金や権力の次くらいに序列されるものであって(いや、もしかしたらその種の人達にとって、「こころ」のランク付けは、隣家の犬小屋の屋根の色と明日の近畿地方の天気の間くらいかもしれない)、それを一番上に持ってくる者たちを子供呼ばわりする。そうした人達に、「バットマンみた?」と語りかけたとしても、「へー、面白いんだ(で? それが僕・私の人生にどのような作用をもって金銭的に豊かにしてくれるのかしら)」で済まされてしまうだろう。仕事においても、「嫌な事をやってお金を稼ぐのが当たり前」「楽しいは仕事ではない」と考えがちな方々だし、他人においてもそのスタンスを自然と求めがちである。考え方の一つではあろうかと思う。でも、クリストファー・ノーランについて話そうとしている僕やあなたにとっては、居心地の悪い瞬間と言える。


 いや、バットマンを観ている人が一様に人生を適当に生き過ぎてると非難したい訳ではない。バットマンといったらティム・バートンだろ、という話をしたい訳でもない。例えば、の話だ。ええい、面倒くさい。百円くれ(またか)。


 ストーリーの改変が行われたのは、主人公が相手にそのような「ガチ臭」を感じとった結果、わざとこの映画【ある愛の詩】のストーリーを改変したのではないか。「本当の悲劇の結末」である、ヒロインが白血病で死んでしまうと話した場合に、「へー、死んじゃうんだ(で、それをどうして映画にする必要があったのだろう?)」という返答を避けたのではなかろうか。僕にはその気持ちが分かるような気がする。その映画が「心底大好き」な場合、そうした改変は起こりやすい。無用な嘘を付いてしまう。観たこともない人に好きな映画をクサされるのは、良い結果をもたらさないからだ。そして改変した結末の映画なら、どんなにバカにされようと構わない。つまらないと分かって話をしているのだ。


 他に、「どうせ相手が知らないから」「ベタなストーリーを話してて恥ずかしいから」「結末が悲劇だと、相手が嫌な気持ちになるかも知れないから」などがないまぜになって、つい「嘘」をついたのではなかろうか。これは本を読んでみないとわからない。今は推測でしかない。



 2 ガチで間違えた


 村上春樹がこの「ある愛の詩」が好き過ぎて、脳内で何度も再上映・リバイバルを行った結果として、徐々にストーリーが書き換わっていった説。極めて可能性は低いが、まったく有り得なくもないと僕は思う。昔観た映画の筋が、「思っていたのと違っていた」という経験は誰にでもあるものだ。その記憶の改竄はどこから生じたのか? 勘違いは大いにある事だが、より本人にとって重大過ぎる出来事である場合、それは起きやすいと言えなくはないだろうか?



 以上二つの仮説から導き出される結論は、「村上春樹は映画ある愛の詩が大好き侍だった」という事になる。

「で?それが私の人生に何の利益をもたらすのかしら?」

 奥さん、声、漏れてますよ。後半、かっこで挟んで下さい。

 地味に傷つきますから。


 もたらしません!

 もたらし団子!(言ってみたかっただけ)

 でももう一回言わせてください。

 ある愛の詩は、ノルウェイの森なんだー(なんだーなんだー)

 逆だわ。

 ノルウェイの森は、ある愛の詩なんやー(なんやーなんやー)



 他に、この映画の良いところを二点記載させていただいて、この講義を終了させていただきたいと思います。講義だったのかって? そうだよ、百円置いてけよな!



 この映画は、主人公と結婚したヒロインが白血病で死んでしまう。そのカメラワークは、最初からほとんど最後まで、じっとその若いカップルに寄り添っているものだった。我々観客はその二人を見守り、ずっと応援していた。


 でも、ヒロインが死んだ時、僕ら観客の視点は他人だった。外から病院の待合所に入っていく父親と、エレベーターから出て来た主人公の男が回転扉ですれ違い、父親が回転扉を一周し、追いかけて再会する。その描写は、親子が絆を取り戻したという比喩として間違いはないのだが、父親が

「なぜ嫁がそんな大変だったことを俺に教えなかったのだ」

 と息子を非難すると、

「妻は死にました」

 と主人公が答えるのである。

 そこで初めて、我々観客も妻=ヒロインが死んだ事を知る事になる。死ぬ瞬間の、いわば映画的な【おいしいとこ】をすっ飛ばしている。…その手前で結構長めに尺をとって【おいしく】やってはいるのだけど、セカチュウみたいに「だずげでぐだざい!」的なド派手なものはない。そこが良かった。


 その後のやり取りで、超有名な台詞【愛とは後悔しない事だ】が出てくるのだけど、それはちょっと僕には荷が重過ぎるので脇に置いておいて(置くんじゃない)、その後主人公が歩いて行く先が冒頭のモノローグの場所である。冒頭、俯瞰から主人公の後ろ姿にズームしていった時は、既にヒロインが死んでいた後だったのだ。そして、同様にズームアウトしていく最後のカットは、周囲の風景が膜を張ったようにボンヤリとしている。冬の寒空の下、スケートリンクを見下ろして腰を下ろしている主人公の背中だけをクッキリとスクリーンに残し、それ以外をボヤかしながらズームアウトしていくのだ。シンプルにして見事な映像表現だった。


 そう、それが世に言う、村上膜である。村上春樹の小説に出てくる主人公はしょっちゅう(パスタを茹でてる最中に電話が掛かってきたり、飼っていた猫が居なくなったりして)自閉的になり、何かしら起こる度に風景が膜を張ったように不鮮明になる。空気はゼリーのように不確かな手応えのあるものに変質してしまう。


 村上膜のイメージ化こそが、この映画をノルウェイの森の世界たらしめている、と言っても過言ではないだろう。村上膜って、口に出して言うと夢枕漠みたいだな。


 その他、良かったところは小切手を切るシーンだ。

 主人公が余命少ない嫁(駄洒落ではない)の治療費を貰いに、縁を切った父親のところに金を無心しに行く。ここはすごく良かった。小切手を切るだけの仕草で、その人物、父親がどういう人間かを表現できる。そしてその仕草と小切手は、家族が縁を取り戻す儀式として交わされるべき契約書のようなものだったのだ。



 長々と書いてしまった。

 ここまで読んでいただいた方に深い感謝を申し上げたい。



 僕が言いたい事は、悲しい物語に惹かれる我々は、同時に自由を希求しているのではないか、という事だ。自由と引き換えに悲しいはやってくる。不自由であれば、悲しみは手加減をしてくれるだろう。電話ボックスから周囲を見渡して、僕はどこにいるのだろうと思う時、自由はそこにある。奥さんが死んで悲しいと思う気持ちに寄り添う時、捉えるカメラは第三者として自由に世界を駆けており、悲しみを背負っている人は外側から見てもわからない。妻を亡くしたばかりの、群衆に紛れたライアン・オニールはただの青年でしかない。悲しみや辛さというものは、人の中に抱え込まざるを得ないものであるからだ。…でも、もしかしたら分かち合う事ができるかも知れない。その可能性を見出したいが為に、僕や誰か(あなたとは言わない)は悲しい物語を無意識に求めてしまうのではないのだろうか。



 よく分からないことを言って煙に巻こうとしている時、時刻は午前三時を回っている。そして、村上膜という言葉はググっても誰も言ってない。これは僕の専売品ということで、これから使う度に五円程銀行口座に振り込んでいただければと思います。村上膜、一回五円。


 おやすみなさい。


 P•S

 十年後くらいに同じ事を思ってググった人が、上の文章を読んで「こいつバカじゃねーの」と思われないように祈っている。


(おわり)






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