古きよき、写真の陰影
冠梨惟人
写す
男は影に恋していた。それとも、光を愛した。というほうが妥当かもしれないか。
男はなぜか、若かりし頃からどこか根拠のみえない自信に溢れ、先輩と言われるような立場の者を苛立たせる性分を言動に載せ発しては、追い風に巻かれるように関係する人々を変えていった。
少年時代は学校の部活動だったり、青年時代ともなると職場や職種だったりした。失敗といわれるような、傷として残る、若気の至りでは言葉として軽すぎるような出来事も幾度か重ね列ね、いつしか男はいい歳と見られる時代を生きている。
元来が新もの好きで、わりと飽きっぽく趣味も多彩なその男が生涯を惚れ込んだもの、それは、古典音楽の弦の響きと写真機が写す白黒で簡潔された世界。
足を踏み入れるには、もう、少し遅い。長過ぎる回り道をして、たまたま見つけてしまったやりたい事。諦める理由には十分な時間を他業種でやり過ごすように食いつないでいた。それでも男は魅入ってしまった、それはまるで遅く来た初恋、意志をはっきりと語りかける光のような濃い影の沈黙に男の心は燃え立った。これだ、俺の求めていたもの、世界は。
思い立ったら辞表を書くのに迷いはなかった。もちろんつてなどあるはずもない、なのに男は心を焦がした白黒の世界に踏み込むための職種への道をあてどもなく歩いた。男が目にしたもの、恋した一枚は芸術だった。ただ、写真が撮りたいのではない、芸術を描きたい、光と影で、それは譬えることを許されるなら、はなはだ長過ぎる終わることを知らない恋煩い。
憧れる世界は海外にあった。あまりにも遠すぎる、それでも写真を撮って食っていける仕事に就けば、あわよくば、濃い沈黙が語る世界に、つながっているのだから。男は腕のいい写真技師を求め、探し歩く事になる、技術を盗み、思い描く芸術を撮るために。
誰かに、その姿を写される。それは確かになにかの記念日として刻まれる、そのくらいに写真技師と呼ばれる人達が専門職としてなりたっていた、写真を撮るという行為が、写真を撮る機械が、まだ真新しく、珍しく、そして高価で、だからこそ特別なものという意識を抱かせた、これは最も終の時代の語りとなるだろう。
男には困ったところが、玉に傷と呼ばれるような、簡単に言えば短所とか欠点とかそんな感じで呼ばれるようなところがあった。それが年上の先輩の気に障るのも仕方なかったと、今となって回想しては反省もするような、つまりは気位が高く、過ぎるくらいの自尊心が言動どころか行動、果ては表情にまで写し出され、要らぬ反感を買っては安売りをしなくてはならなくなると、そんな日々を越えてここまで来た。
だがここに来てそんな気位にも自尊心にも反感どころか好感にさえ交換してくれる人物に会えるとは、まさかその人物が自分の写真技師としての師匠になるとは、男も自分の運の強さ、幸運に感心したくらいだ。
男は割と本能に素直だった。言葉を変えれば求めるものに貪欲で与えられる質にこだわりを持っていた。男が心に抱いていたのは量より質。上質の、作品と呼べるような一枚、どれほど見ても見飽きない溜め息がこぼれるような写真を写すような人物でないと師事するには値しない、やはり男の本質は変えようがなかったし、男も変えようとも思っていなかった。そしておそらく、変えなかったからこそ出会えたのだろう、男が巧いと唸るような姿を写す人物と。
写真は、魔物。写される人物が写す人物の技量でいかようにも写される。捉えているのは造形や色彩や輪郭だけではない。写され、残るのは刹那の心情でもある。印画紙に焼き付けられる刻まれた時間。時は残酷にも、優しく語りかける、華やかな時代も枯れゆく時代も、いかなる時代も一時の記憶に過ぎないと。
男は別に清貧を好んでいたわけではない、ただ貧しい生活を続けた。写真技師を目指した時も、金は銀行どころか懐にもなかった。働かなかったというわけではない、稼いだだけを使ったというだけのこと。といってもそれほど稼いでいたわけでもなく、なんとか生きていければ、くらいの気持ちで働いていた。寒い田舎から都会に出て来たのは働く場を求めてだったらしい。どこでどうなったのか、なにがきっかけなのか詳しくはわからないが、結果として写真機を握りしめ、婚礼の式典を小さな穴越しに見つめていたらしい。白黒の世界に憧れたが、現実は光で彩られた色の世界からはじまった。写す場所は大人数が詰め込まれた広い客室だったり、専門の式場だったり、教会だったりしてかわるが、写すのはかわることない極上の笑顔。幸せという言葉を絵にすることが仕事になっていた。
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