バイト先は地獄でした。

寄鍋一人

プロローグ

0.非日常は憧れでした。

 孟子もうしが唱えた性善説。人は生まれつき善であり、成長すると悪を学ぶ。

 荀子じゅんしが唱えた性悪説。人は生まれつき悪であり、成長すると善を学ぶ。


 どちらの説が正しいかなんて俺には分からない。

 善と悪は表裏一体。

 結局人はちょっとしたことで善にも悪にもなる。あるいは、自分が良かれと思ってやった行為も相手にとっては迷惑極まりないことがある。


 例えばこの日本が長きに渡って付き合い続けている自然災害。

 ボランティアや救援物資は善だが、それが不適切なものだったりやりすぎだったりすると、被災者や現場で活動する自衛隊、市の職員にとっては困りもの、悪になる。


 ネット上で言えば、ツイッターで炎上する人たちやアンチの人たち。

 自分が正しいと思って言ったことがいつの間にか数万と拡散され、世間からは貶められることがある。もしくは注意喚起をしたりオススメしたりした結果、それが根拠も何もないデマであると判断されれば、最悪警察沙汰や裁判沙汰にまでなる可能性がある。


 ネット上に限らずとも、それは日常生活でも起こりうる。

 優先席に座る少女に声を荒げるお年寄り。実は座っていた少女は足を怪我していた、なんてこともあり得る話であり、善悪の立場は一転する。

 学校生活を見れば、悪気もなく言った言葉が相手を傷つけていじめに発展することもある。そして、場合によっては若い命が一つ、また一つと消えていく。


 しかし、善悪の立場がその人の生まれながらの立場でないのは百も承知、「性善説と性悪説のどちらが正解なのか」の話に戻る。

 だから目の前で起こっている出来事――地下鉄の駅のホームでの発砲――の犯人が、生まれてから今までずっと悪人であるはずももちろんなく、人に感謝されるようなことも少なからずしてきたはずだ。


 しかしそれは過去の話。

 動機が何なのかは知ったことじゃないが、今この瞬間、犯人の言動に限って言えば誰が見てもその男は悪であり、逮捕されてしっかり罰を受けるべきだ。



 これは偶然か、はたまた計画的なのか。

 事件発生は上りと下り、その両方の電車が到着しドアが開いた直後。線路に挟まれる形の島式ホームはほぼ密室状態となった。

 残された道は上の階へ続く階段とエスカレーターのみ。

 そこを目掛け、我先にと押し寄せる人の波。

 泣きわめく子どもの声。恐怖で震える女性の叫び声。「早く行けよ」と、焦りと怒りが混ざった男性の声。

 それらが一体となりホームは一瞬にして戦場となった。朝の通勤ラッシュの時間帯のせいで、波も音も大きさが尋常じゃない。

 ましてや狭い地下だ。もはや身動きもまともにとれやしない。

 突然の非日常の訪れに俺は恐怖を通り越して冷静になり、周りの状況が鮮明に頭に流れ込んでくる。


 ――どうして今なんだよ……。


 実のところ、もともと非日常には憧れていた。

 別に今までの日常が退屈だったわけではなく、むしろ友だちに恵まれて楽しい高校生活だった。

 いつも一緒にいた俺を含めた四人は、一年の頃に知り合ってから三年間、そのメンバーでふざけあって、一緒に勉強して、色々なところに出かけた。


 三年になり大学を意識するようになってからは、そんな日常が続けばいいなと思う一方でこいつらと離れたら俺はどうなるのか、こいつらのいない日常はどんなものなのか、それを密かに考えていた。

 俺も友だちも、お世辞にも頭が良いとは言えないグループだ。昔から理系科目も文系科目も平均的で、悪く言ってしまえば中途半端。

 なんとなく将来役に立つだろう。そんな軽いノリと勢いで理系を選んだ高校三年生である。


 受験学年も残り半分になろうとしているころ、どういうわけか情報系の職に就きたいと思い始めるようになった。急にスイッチが入ってしまい、それなら情報系の学科に進もうかと、ついに将来を考えて道を選んだ。


 そこからはもう必死だ。後悔先に立たず。数学やら物理やらの参考書と問題集を買い漁り、ひたすらに勉強し続けた。

 二、三回模試を受験すると、結果はすぐに出た。偏差値と得点がそれはもう面白いくらいに上がる上がる。

 自信がついた俺はみんなと違う大学を受験することを決め、それがばれないように上手い理由をつけて内緒で勉強した。学校の定期テストでは本当の点数を隠し、嘘の点数で友だちと笑い合った。

「謝っても謝りきれねぇよなぁー……」

 入試本番を目の前に控えて改めて考えてみると、約半年間自分の友だちを騙し続けていたことになる。

 問題集と戦いながら、罪悪感を抱きながら、そして非日常を考えながらの受験学年を送った。



 この一年間、口には出さずとも考えない日は無かったほど望んだ非日常。しかも大学デビューという一番安全で健全なものを待ち望んでいたのに、その待ち時間は一発の発砲という形で終了の合図を出す。

 そしてこの非日常が俺の日常へと変わっていくのを、今の俺には知る由もない。

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