11.神聖の間


 吠えた熊の魔物が大きく口を開けると、鋭くとがった牙が見えた。


 獲物を誰にしようか言っているように、チサたちを見回している。一歩でも動いた瞬間に、その口に襲われそうな緊迫感に包まれていた。


 恐怖を感じる一方で、癒しのように水が流れる音が、さっきよりも増して大きく聞こえていた。


 チサはこわばった顔を動かさずに、そうっと視線だけ熊の足の向こうに送った。


 神殿の左右にある泉が溢れ出し、じわじわと地面をはうようにその面積を広げていた。ささやかに泉に落ちていた小さな滝は、怒り狂ったように大量の水を放出していたのだ。


 溢れた水は、絨毯と巻物に近づきつつあった。


「絨毯と巻物を」


 マリッサの声が響いた。


 誰に指示したわけでもなかったその一言で、ランドルフと絹原が魔物ギークの足元にある絨毯と巻物に向かって走り出した。


 魔物はそれに気づいて、鋭い爪を振りおろす。


 ランドルフと絹原は、サッと避ける。


 魔物の爪は、地面に突き刺さり、硬い土がいとも簡単にえぐられた。


 すぐに魔物は、身を起こすが、二人を見失っている。


 魔物の足元で、ランドルフは絨毯を素早く巻いて肩に担いだ。


 絹原も巻物を確保して、その場で両手を組んだ。


 すると、絹原とランドルフは黄色い光の玉に包まれた。


 ふわっと、それが宙に浮くと、魔物の足元をすり抜けた。


 黄色い閃光を伸ばして、壁際に退避していたマリッサの元へ一瞬で移動した。


 一度、光が消えると、絹原とランドルフの姿がそこにあり、閃光を追ってきた魔物が前傾姿勢で爪を振りかざそうとしていた。


「マリッサ先生――」


 チサは、危ないと思って声を上げたつもりだった。


 しかし、すぐにマヤトに手を向けられて動きを制止させられた。マヤトは、なにも言わずにただ首を左右に振るだけだった。


 チサは、マリッサたちを助けなければいけないという思いでいっぱいだったが、なぜマヤトに止められたのかがわからなかった。


 そのマヤトは、マリッサではなく魔物を注視していた。


 一度消えた絹原の魔法が、再び発動する。


 今度は、マリッサを含めて三人が黄色い光の玉に包みこまれた。


 ――マリッサ先生、どうして。


 チサは、心の中で問いかけた。


 絹原が発動させた黄色いその光は、空間移動魔法テレポートであるとわかっていたチサ。マリッサが自分たちだけここから脱出してしまうことに困惑していたのだ。


 それとも一人ずつ救出してくれるのかとわずかな期待もチサにはあった。


 マリッサたちを包みこんだ黄色い光は、そのまま一直線に打ち上がり、洞窟の天井を突き抜けようとした。


 しかし、大きな衝撃音とともに、黄色い閃光は天井で止まった。


 光の玉は、半分ほど天井にめりこんだまま、海底洞窟から空間移動できずにいた。


 空間移動魔法は、壁の厚さや距離は基本的には関係なく飛び越えることができるはずだった。もちろん、魔法発動者の魔力不足や明確な場所を思い描けないところには移動することはできない。


 チサは、絹原がそのどちらも欠いているとは思えなかった。マリッサたちがその場からいなくならなかったことを心のどこかで良かったと思ってしまった。だが、それを悔やむ間もなく、魔物が光の玉に向かって爪を突き刺そうしていた。


 すぐに空間移動魔法が天井から下がり、魔物の攻撃をかわした。


 魔物の爪が天井の岩を削り、しっかりと爪痕がつけられていた。


 その爪に体が触れでもしたら、傷跡どころでもすまないと想像がつく。


 絹原は、ふたたび空間移動を試みようと一閃の光を伸ばして天井に向かっていく。


 しかし、その場から光の玉が消えることはなく、また天井にめりこんだ。


 光を追って、また魔物の爪が天へと振りあげられた。


 間一髪で、爪の攻撃を避ける絹原だった。


 何度か同じようなことが天井付近で繰り返され、天井が削られるたびにマリッサたちの安否に一喜一憂させられた。


 このまま魔物をどこかに誘導してくれればと思ったが、この狭い洞窟では無理だった。


 チサたちが通ってきたトンネルの道は、魔物が通れるほど大きくはない。そこへ逃げればと思ったが、もうそこには泉から溢れ出た水が流れこんでいた。


 そして、今度はチサの頭上で黄色い光の玉が、天井に消えた。空間移動がしたかのように思えたが、玉のほとんどが天井にめりこんでしまっていただけで、海底洞窟から抜けることはできなかった。


 そこに魔物の爪が、空気を切り裂くように天井を突き刺した。


 チサは、黄色い光がそこから移動したのを確認できなかった。


 すると、魔物の腕を避けるように、マリッサ、ランドルフ、絹原が姿を現した。空間移動魔法を解除したようだ。


 魔物が天井に突き刺さった爪を引き抜いた。


 細かい瓦礫がチサの頭に振りそそぐ。


 そして、天井から魔物の爪でえぐられて剥がれた大きな岩が、チサの頭上に落下してきていた。


 チサは、息をすることも声をあげることもできなかった。


 すぐにマヤトが落下する岩に浮遊を魔法をかけたが、マヤトの魔力では落下を止めることはできなかった。


 もうダメだと、チサは目を瞑った。


 真っ暗になった自分の視界が、現実なのか、それとも死後の世界なのか判断つかずにいた。大きな衝撃が一瞬あると思っていたが、いつになっても感じられなかった。


 ――もう、私は。


「やっと、姿を現したか」


 それは、マヤトの声だった。


 チサは、見知らぬ世界を見るようにゆっくりと目を開けた。


 そこは海底洞窟で、一歩たりとも自分が動いていないことがわかった。そして、頭上を見上げると、手を伸ばせ届く位置で大きな岩が宙で静止していた。


 横を振り向くと、マヤトが肩をなでおろして男を見ていた。


 そこには、黒いローブをまとった若い青年がチサの頭上の岩に向かって、手を伸ばしていた。


「あ、あなたは……」


 今まで海底洞窟にはいなかった人物にチサは声をかけた。


「ずっと白鹿をつけまとっていたやつだ」


 マヤトは、口角を少し上げて言った。


「そういう言い方はよしてほしいな。彼女を守るのが、僕の仕事なんでね。それに君たちのことは、ティーダ先生から聞いているよ」


 黒いローブ姿の男は、軽々岩を地面に置いてみせた。


 魔物を刺激しないように、ゆっくりと音を立たせずに岩を置いたところを見たチサは、繊細な魔法制御ができる人物だとわかった。


「それじゃぁ、あなたが見えない護衛の方?」


「そう。上城かみじょうツトムだ」


 チサは、てっきりもっと大人の人を想像していたので、その若い彼の底知れぬ魔力に驚いた。


 ――これが伝説都市ニューヨークに留学した魔力。


「空間移動魔法で、ここから出れない理由はそういうことか」


 上城は、天井を見上げていた。


 つられるようにチサとマヤトも見上げた。


 チサの上に落ちた岩があった場所は、すっぽりなくなり、穴の空いた奥にオレンジと黒の幾何学模様の光が張られていた。


「防壁魔法?」


 チサは、見たことのない魔法の種類だった。


「障壁魔法でもなさそうだな」


 続けてマヤトが言った。


「どちらでもない。魔法限界だね」


「魔法限界?」


 チサが聞き直す。


「僕らは、この魔法限界の上に立っているんだよ」


「どういうことですか?」


 チサが問うと同時に、魔物が咆哮をあげた。


 まるで黄色い光を仕留められずに不機嫌さが混じっているようだった。


 すると、泉に流れ落ちる水量がさらに増し、洞窟に向かって放水するようにいっきに水かさが増えて行く。


 その勢いに押されて、ヘンリーが水中へと沈んでいってしまう。


 チサたちは水に触れないように浮遊した。


「今、あれこれ話している時間はなさそうだ。まずは、魔物だ」


 落ち着いていた上城の目が、キッと魔物を見つめた。


 魔物は上城の視線を感じたのが、同じように上城を睨み返した。そして、足を踏みこんで、突っこんできた。


 チサは上城に抱えられて、魔物の突進をひらりとかわす。


 大きな体の魔物といえど、素早い動きに油断ならなかった。


 上城はそれ以上に速く移動し、サトシとヨーコのいるほうに向かう。チサはその場で解放されて、上城に軽く耳打ちをされた。そして、まだ移動してしまう。


「あの人は?」


 サトシが聞いた。


「私を護衛していた人。それより、上城さんが魔物の動きを止めるから、また核を私たちで狙えって」


「狙うっていっても、どこに核があるかわからないのに」


「それは、きっとマヤト君が」


 マヤトは、壁際で両手を胸の前で組み、解析魔法を発動させようとしていた。


 魔物は天井を蹴り、横の壁に飛びつき、神殿の柱につかまったりし、さっきから動きを止めようとはしなかった。上城になにかされることがわかっているかのようだった。


 そして、魔物はマリッサたちのほうへ飛び跳ねた。蜘蛛の子を散らすように、マリッサたちはバラバラに逃げる。


 魔物はマリッサを追い、爪を振りかざす。


 マリッサはギリギリそれを避ける。


 しかし、本当にギリギリで肩にかけていたカバンを爪に引っかかれた。そのカバンの穴から、リンゴがポロポロと水の中に落ちていった。


「え、マリッサさんも……どうしてリンゴを」


「いったい全体、わけがわからないな……」


 チサにそう言ったサトシは、ローブの腰付近から出ている左右の紐を引っ張った。袖がぎゅっと縮み、足を覆っていたローブは中央から左右に分かれた。


「俺も、魔物の動きを止めるほうにまわる。核の破壊は、まかせた」


 サトシは、足元に手を振りかざすと、サトシの靴が光り出した。宙を蹴る素ぶりを見せた瞬間、サトシは猛スピードで魔物に向かって飛行していった。


「ちょっと! まかせたって……サトシ」


 チサの声は、サトシには届かなかった。


「でも、どうにかしないと本当に」


 ヨーコは下を見て言った。


 チサも見た。


 いつの間にか自分たちの足元に水が迫っていた。神殿から吹き出る水の勢いは衰えていない。水かさは増えて行くばかりで、ドーム上になっている洞窟は、水が溜まれば溜まるほど、自分たちの逃げ場がなくなる。


 それは、自然と魔物との距離が縮まることを意味していた。


 サトシが魔物に近づいたことで、魔物は一瞬、動きを止めた。


 その隙を逃さず、上城が魔物に静止魔法を放った。


 魔物の動きがピタリと止まった。


 しかし、それに抗うように咆えると、ジリジリと腕が上がって行く。足もゆっくり動き出そうとしていた。


 すぐに、サトシも魔物の動きを止めにかかった。


 すると、ピタリと動きが止まったが、魔物の険しい表情は変わらない。


 それにサトシと上城の表情もずっと力みっぱなしで、相当魔力をこめているに違いなかった。


 すかさず、マヤトが魔物の前に移動して、解析魔法を発動させた。


 洞窟全体に冷たい空気が一瞬流れた。マヤトが展開する解析魔法の領域に入ったからだ。そして、マヤトの目の前には、虹色に光る魔法のレンズが出現していた。


「眉間だ。魔物の眉間に魔法核がある。早く、そこを」


 マヤトが叫んだ。


「ふー。ここは、私がやるしかないみたいね」


 ヨーコは、ぎこちない笑顔を見せていた。そして、手を伸ばすと、氷の剣を出現させた。


「ヨーコ……」


「チサについて行くって言ったのは私だから、しっかりチサを守らないと」


 ヨーコは大きく息を吸って、魔物の正面に向かっていった。マヤトの横に並び、場所を確認しているようだった。


 そして、氷の剣先をまっすぐ魔物に向けて構えて、動きを止めた。


 ヨーコは魔力を高め、ヨーコの周囲に黄色い光が発光する。


「あぁぁぁぁぁーーーーーー」


 ヨーコは声を上げて、魔物の顔に向かって剣を突き出して、向かった。


 空間移動魔法の黄色い閃光のように、光の帯を伸ばしていく。


 一瞬で、ヨーコは魔物の眉間に到達した。


 パキーンと氷の剣が折れた。


 なにが起きたのかわからなかったヨーコは、魔物の眼前で動かなくなってしまった。


 魔物が怒声を上げると、止まっていた腕が上がり、ヨーコを狙って振りおろされる。


 が、その寸前、ピタッと魔物の動きが止まった。


「も、もう一度だ。早く」


 上城が息苦しそうに言った。


 ヨーコは我に返り、魔物から距離をとった。


 しかし、また氷の剣を発動させようとはしなかった。


「さっきのより硬い剣なんて私には作れない……」


「ヨーコ?」


 チサは、ヨーコの隣に急いだ。ヨーコの手は震え、目には涙が浮かんでいた。


「ヨーコ……」


「早くしろっ」


 サトシの息の詰まった声。


 そんなことはわかってる。チサは、心の中で叫び返した。


 どうしたら魔物の眉間を貫けるか必死に考えた。


 もし、私ができるのであれば、そうしていた。でも、それをわかっていたヨーコが、買って出てくれた大役。どうにかして、方法を……。


 しかし、チサはどこかでマヤトが解決策を出してくれていると思っていた。


 けれど、マヤトの声は聞こえてくることはなかった。


「流星っ!」


 マリッサの声だった。


「流星……魔法。ヨーコ、流星魔法は?」


 流星魔法なら、剣を突き刺すよりもっと強い力を放つことができる。


「あと一回だけなら……。でも、もし失敗したらもう一度発動させることはできない」


 ヨーコの言葉に力はなかった。


 だったら一回で決めよう、なんて軽く言うことはできなかった。


「洞窟の入り口で放った流星魔法は、ほぼ的を得ていたから」


「あの時は、力を抑えていたから方向も制御できた。さっきの剣の当たりを考えると、力をおさえることはできない。もし、それで外れでもしたら……」


「だったら、真っ直ぐ飛ばせばいいだけだ」


 マヤトがそういうと、両手を魔物に向けた。


 すると、マヤトから魔物の眉間に向かって、虹色の筒状の光が一直線に伸びた。


「ただこの光にそわせて放て」


「それだったら……」


 ヨーコはうなずいて、マヤトの前に移動した。虹色の光を遮ったが、ヨーコの体を貫いて魔物に光は向かっている。


 ヨーコは両手を魔物に向けて、魔力を引き出して行く。すると、ヨーコの前に赤や黄色の粒の光がぐんぐんと集まりはじめた。人の顔二つ分ほどの大きさの星が生まれた。


「ハッ!」


 狙いをさだめたヨーコは、洞窟の入り口で見せた流星魔法とは桁違いの威力のある流星魔法を放った。


 マヤトの引いた虹色の誘導線を完璧になぞるように、星は速度を上げて流れていく。


 辺りに光の粉をまき散らす光景は、まさに流れ星のごとく、瞬く間に魔物の眉間に到達する。


 なんの抵抗もなく、魔物の眉間を貫いた。


 そして、魔物の背後の神殿に流星は直撃して、大きな衝撃と爆煙が上がった。


 ヨーコは、ガクッと両手を下ろすと、そのまま力が抜けたように落下して行く。


「ヨーコ」


 チサが追おうとした時には、マヤトがヨーコを抱えていてくれた。


 魔物の眉間に空いた穴から、灰色の煙が勢いよく上がっていた。そして、洞窟を響き壊すかのごとく叫び声を上げ、魔物の体が黒い煙を放って爆発した。


 一瞬、洞窟を闇が包みこむと、すぐに黒い煙は静かに消えていった。


 そして、気を失った織田が元の姿で、水の上に浮いていた。


 しかし、どんどん増えて行く水の勢いで生まれた波に飲みこまれた織田は、沈んでいってしまった。


 洞窟の入り口へと続くトンネルは、とっくに水の中に沈んでしまっている。チサたちは、天井付近で水に満たされるのをただ待つしかなかった。


 チサの頭は天井についてしまっている。もう水は、足に触れようとしているところまで迫っていた。チサは少しでも水から遠のけようと、足を抱えこんだ。


「上城ツトム。あなた、消えたって聞いていたけど、いったい今までどこに」


 マリッサが上城に声を掛けた。


「僕の名前を知っているとは」


「次の賢者になる最有力の人間だったでしょ」


 マリッサの口調は、怒っているようだった。


「それはどうかな。この状況をどうにもできない人間だけどね」


 上城は、苦笑いをした。


「ランドルフ?」


 絹原の声だった。


 ランドルフは、すでに水に沈みかけていて、その表情からして気を失っている。ランドルフが持っていた絨毯は、手を離れてしまっていた。


 巻かれて棒状になっていた絨毯は、ゆっくり広がっていきながら、ゆらゆらと水の流れに乗って底へ沈んでいってしまう。


 ヒタっと靴が濡れる感触があった。それを感じた瞬間から水の冷たさを全身で感じるのは早かった。みんな少しでも長く息をしようと、口を上に向けている。


 呼吸はできているはずなのに、次々と沈んでいってしまった。


 チサは、水に浸かってわかった。


 水が魔力を吸収しているようで、どんどん体の中にある魔力が少なくなって脱力していった。


 ――も、もうダメ。


 浮いている力もなくなり、口を閉じ、目を瞑る。それくらいしかできなかった。


 ――苦しい……。


 息をしようと、口を開け、息を吐く。


 溜まった空気が上がって行く。


 ゴボゴボっと自分の息と入れかわりに、大量の水が口の中に、喉へ流れこんできた。


 飲みこんでも吐き出すこともできず、鼻からも水が流れこんできた。


 さらに息が苦しくなって、こめかみが痛くなる。


 しだいに意識が遠のいていくのが、自覚できた。


 ――だ、誰か、助けて。


 ――ま、マヤトくん……。


 チサは、最後にマヤトを見ようと水中で目を開けた。


 歪んだ暗い世界に、力なく沈んで行くマヤトやサトシ、ヨーコの姿もあった。


 ――みんなと一緒に私も……。


 その時だった。


 底の方から、眩しいほどの光が放たれた。


 その光の正体はわからない。


 チサに考える余裕はなく、消えゆく意識の中、光の源が近づいてくることだけがわかった。


 ――きっと死の入口。


 ――もうすぐそこへ行く。みんなで……。


 沈んでいったランドルフが光に飲まれて行く。


 それに続いてヨーコやサトシ、上城、マリッサ、絹原もその光の中に姿を消して行く。


 眩しい光を放つそれが、マヤトを吸いこみ、四角い光源がチサに向いた。


 それは、絨毯だった。


 広がった絨毯から光が溢れ出していたのだった。


 そして、光がチサを包みこんで、視界が真っ白になると同時にチサは意識を失った。






 …………


 …………


 チサは、はっきりしない意識の中、誰かがせきこんでいるのがわかった。


「なんと騒がしいと思ったら、なぜこんなに」


 男の濁声。


「絨毯の存在が、こんな子供たちにも知られているということは……か、上城ツトム、お前」


 はっきりとした別の男の声。


 ――かみじょう……さん。


 チサは、真っ暗な意識の中で、水の底へ上城が沈んでいく光景が浮かんだ。そして、自分自身も沈んで、苦しい意識が消えていったと思ったとき、チサはむせて、喉につまっていた水を吐いた。せきをする合間合間で、息を吸う。


 ――息ができる。


 パッと、目を開けた。


 真っ白な世界だった。どこまでが天井で、それがどこまで広がっているのかもわからない。


 チサは体を起こすと、絨毯の上にいた。チサだけでなく、マヤトやサトシ、ヨーコ、マリッサも海底洞窟にいた人たち全員の姿がそこにはあった。もちろん織田と裸のヘンリーの姿もあった。


 チサは、ドキッとして自分の姿を見ると、服もローブも濡れてはいたが身につけていた。一安心することはできたが、頭は痛く、体が重い。それに魔力がまったくない状態で、頭がフラフラしていた。


 すでに上城は立ちあがって、銀色のローブをまとった上城と同じくらいの年齢の男と話をしていた。


「ツトム、どうしてお前がここに」


「リチャード」


「ついに選ばれたのか」


「ということは、ここが」


 上城は、左右に首を振ってから言った。そして、真っ白な辺りを見渡した。


「あぁ、ジーニアス・パレスだよ」


「これが、神聖の間の入り口だったのか」


 上城は足元の絨毯を見た。


「俺が賢者に選ばれた時、別の場所からここへ連れてこられたけど、なんで絨毯が」


 リチャードが答えた。


「初代三賢者たちの遺産だ。初めて見るな。もうそれは使われていないって、聞いていたが……まだあったとはな」


 濁声の男は、リチャードと同じ銀色のローブをまとった老人だった。長く白いあごひげを引っ張りながら絨毯を見ていた。


「シュナイダー様でも、知らない歴史品がここに」


「シュナイダー……。ケヴィン・シュナイダー様?」


 上城は驚いて、あらためて会釈をした。


「その世代で知っているやつがいるとはな。四代目賢者最後の老いぼれだ。交代する気がないなら、とっととココから帰れ。賢者でないものがいるべき場所ではない。それに」


「あんたたち、いつまで喋ってるんだい? 仕事に戻りな」


 遠くから女の声が聞こえてきた。


「ほらな。怖い女賢者に噛まれないうちにな」


 シュナイダーは、優しい笑顔を見せてその場から歩きはじめた。


 チサは、老人の歩いていく先を見た。


「な、なんなの……」


 チサは思わず、言葉がもれてしまった。


 宙に浮いた赤黒い大きな球体があり、そこから上に木が生え、枝葉を広げていた。それは、血管が隅々までに伸びているように脈打ち、木の表面から浮き出た赤い線が不気味に光を発していた。


 そして、枝先に血の雫がついているかのような赤い実をいくつもつけていた。そのうちひとつが落下するのがちょうど見えた。


「で、どうして賢者に選ばれていないツトムがここに?」


 リチャードが聞いた。


「俺は、彼女を護衛していただけだ」


 上城にチサは、見られた。


 リチャードにもチサは見られた。


「毒リンゴを持った魔法使いに追われているとかで……」


 上城は、冗談まじりに言った。


「毒リンゴ……え」


 リチャードがチサたちに並んで横たわっているマリッサにかけ寄った。そして、肩を揺する。


「マリッサ」


「……に、兄さん」


 マリッサは、水を吐いて目を覚ました。


「マリッサ。お前まで、どうしてこんなところに……」


「わ、私は、リンゴの毒をなくすために。兄さんのために」


 意識がだんだんとはっきりしてゆっくり起き上がったマリッサは、肩に掛けていたカバンから赤い液体の入った注射器を取り出した。


 そして、カバンに残っていたリンゴを取り出して、それに注射器を刺した。赤い液体がリンゴに注ぎこまれていくと、リンゴ本来の赤々とした艶やかな色がよみがえっていく。


「見て、兄さん。この血で毒は消えるの」


「その血は、いったい」


 目を丸々とあけたリチャードが聞いた。


 すると、マリッサはチサの手をつかんだ。マリッサの手は冷たく、人の手とは思えないほどだとチサは感じた。


「この子の血に隠された魔法を使えば、毒が消えるかもしれない。リンゴで成功したから、血を全部使えば、きっと世界も」


「マリッサ、なにを言っているんだ」


 驚嘆しているリチャードは、マリッサの両肩を持って左右に首を振った。


「私は、兄さんが賢者でいる必要がないように」


「俺は、ここの決まりを破って毒を消す方法がないか頼んだ。でも、人を犠牲に、とは言っていない」


 マリッサの手に力が入れられたチサは、痛かった。


「でも、人ひとりで、世界が救われるのよ」


「これは、いったいなんの騒ぎだい?」


 と、背後で声がした。


 振り向くと、死んだはずのヘンリーが立っていた。そのヘンリーの体からは、すでに灰色の煙が立ち上っている。


 チサは、マリッサに腕をつかまれていることすらも忘れて、全身が凍りついた。


 ヘンリーが魔物になる兆候を示しているだけでなく、死んでいたはずなのに生き返っていたことに驚いていた。


「神聖なる間に、賢者でもない者は入ってはいけない。ここを守り、絨毯を管理しなければならない初代賢者マルヤマ・マクスウェル家の汚名を返上すべく、このヘンリーが部外者を排除してくれる」


 ヘンリーは、落ちていたリンゴを手に取って、躊躇なくかじった。すると、さらに体から立ち昇る煙の量が増えていった。


「ぐあぁぁぁぁぁ」


 ヘンリーは、腹を抱きかかえるようにして背を丸め、溢れ出すなにかを抑えこんでいるように見えた。そして、叫び声を上げて、いっきに背を反らせた。同時に黒い煙が爆発するように広がった。


 マリッサが突然立ち上がった。


「ここがなくなれば、絨毯や賢者も必要なくなるのよ。来なさい」


 ふらふらな足でやっとの思いで立つマリッサは、チサを立ちあがらせる。


「痛い。マリッサ先生、どうして」


 チサは、この状況を理解できずにいた。


「どうもこうもないわ。兄さんが賢者に選ばれてから、私はただリンゴの毒を消すためだけに生きてきた。そして、やっと毒を消す魔法を見つけたのよ。それがあなた」


「そ、それじゃ……」


「マリッサ。よすんだ。賢者がいれば、星は終わらない。まだ、時間はある」


 リチャードがマリッサとチサの間に割って入ろうとするが、マリッサはチサを羽交い締めにして放そうとはしなかった。


 その時、空からボツボツと赤黒い実が落ちてきた。


「まずい」


 上を見上げたリチャードが言った。真っ白な空に広がった木が赤黒く光り出し、リンゴが次々と落ちてきている。


「リチャード。戻ってこい」


 シュナイダーが呼んだ。


「いいかツトム。ここは心配するな。全員を連れて、ここから出ていけ。頼んだぞ」


 リチャードはツトムに言って、木の生えた巨大な球の下へ飛んでいった。


 三人の賢者が、その球の下に座って、球に向かって光を送りこむ。


 勢いよく降ってきていたリンゴの雨が、少しずつ止んでいく。


「これが賢者の仕事というわけか、リチャード」


 上城が巨大な球の方を向いて小さく呟いた。


「上城、あなたが賢者になっていれば、兄さんは一生をここで過ごす必要はなかったのよ」


 上城はマリッサを見たままなにも言うことはなかった。


「ここまで来たからには、兄さんも星も救い出すわ」


 マリッサは、ふらふらしながらチサを引っ張って、球の方へと向かいはじめた。しかし、数歩進んだところで、足がもつれてチサともども倒れてしまった。


 なにかをされると悟ったチサは、マリッサから離れようと覆いかぶさるマリッサを押しのけて、四つん這いになって逃げようとする。


 しかし、マリッサは力をふりしぼってチサに手を伸ばし、円状の光を放った。


 その光は、チサの両腕を拘束するように胸の辺りで縛りつけた。チサは、その光の輪から抜け出そうと体を揺らすが、歯が立たず、バランスを崩してその場に倒れた。


「仕方ないわ……大人しくそこで待ってなさい」


 魔法を放って息の上がったマリッサは、その場に落ちていたリンゴを手にした。


「マ、マリッサ先生、やめて」


 チサは叫んだ。


 しかし、マリッサは動きを止めることはせず、リンゴを口に運び、ひとかじりした。


 果実がマリッサの喉元を通るとすぐに、マリッサの体から灰色の煙がしゅわしゅわと湧きあがる。


「はっ、はっ、はぁ、はっ、あぁぁぁぁぁ……」


 マリッサの息が大きく乱れはじめて、体を抱えこむ体勢になった。


「マリッサせん……せい……」


 マリッサが背中を反らすと同時に、空気を切り裂くような甲高い悲鳴が響いた。


 そして、体からいっきに黒い煙が巻きあがる。


 その煙はぐんぐんと立ち昇り、上空でもう一つの黒い煙と混ざり合う。


 それは、ヘンリーの黒煙と一つになっていく。


 空中で黒い玉ができあがり、激しく混ざり合って、いっきに破裂した。


 辺り一面に、黒い閃光が飛び散った。


「これはいったい……」


 サトシは起きて見上げていた。


「チサ」


 ヨーコも目を覚まして、ふらふらになりながらチサの元へやって来た。


 しかし、マヤトはまだ横たわったままだった。


「あれは、なんて魔物だ」


 サトシの声を聞いて、またチサは視線を上空にやった。上城も見上げたまま呆然としていた。


 チサは、今までにその獣姿を見たことなどなかった。


 下半身は馬で背に黒い羽があり、上半身は人だった。前頭部から角が一つ生えている。そして、その体の半分右側はヘンリーの男の体で、左半分はマリッサの女の体に見てとれた。


 ヘンリーの手に斧が、マリッサの手には長い鞭を握る半人半獣の魔物が、黒い羽をはばたかせて宙に浮いていた。


 チサは、マリッサの片目が赤く染まっていることに気づくと、脳裏に赤い目の魔法使いの姿がよみがえった。

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