12.聖なる魔法
1
身動きのとれないチサは、マリッサの赤い目にギロッと見つめられ、背筋が凍った。
「マリッサ先生……」
優しく微笑んで、物知りだったマリッサが自分の命をずっと狙わっていたことをチサは信じられなかった。
――巻物の記憶を見せた時、すでに私はここに誘導されていたんだ。
チサは、息を飲んだ。
宙に浮くマリッサとヘンリーが融合した
「私の邪魔をしないで――そっちこそ僕の動きを邪魔しないでくれますか」
魔物の一つの口から、二つの声が聞こえてくるようだった。
――魔物がしゃべってる。
今までの魔物は咆哮をあげることはあったが、言葉を話すことはなかった。その姿が半獣半人で、マリッサとヘンリーが融合しているからなのかと、チサは思った。
瞬く間に魔物は、真っ白な地面に降りたったが、今度は四本の足並みが揃わず、その場にバランスを崩して倒れてしまった。
「意識を私に全てをよこしなさい――僕に指図をするな。無断で侵入にしたこいつらを排除するんだ」
ヘンリーは、持っていた斧を振り上げて、絨毯の方へと向かい出した。
ヘンリーの意識がマリッサの意識を追いやってしまったのか、マリッサの意識が感じられなくなった。
振りあげた斧を絨毯に向かって、勢いよく振りおろす。
――待って、そこにはマヤト君が!
意識を失ったマヤトだけではない。織田やランドルフ、絹原も絨毯の腕に横たわっている。
上城とサトシが絨毯の前に並んで、魔物と対峙する。
二人は平然と立っているように見えていたが、もうほとんど魔力は残っていないはずだった。海底洞窟の水に浸かってしまって、魔力が奪われしまっているのだ。
上城とサトシは、向かってくる巨大な斧に手を差し出した。
二人の両手から自分たちと背後の絨毯を包みこむように防壁魔法の発動させる。
振りおろされた斧の刃と包みこんでいた光の接触面から火花が飛び散った。
硬い魔法壁を破壊することができなかった斧は、その反動でヘンリーの手から弾き飛んでしまった。
その直後、上城とサトシの防壁魔法が消えると同時に、二人はその場に突っ伏すように倒れてしまった。
何度も何度も大きく肩で息をしていた。
二人は最後の最後まで、魔力を出し切ったのだ。
「あ、しまった――さぁ、次は私よ。そんなになにか持っていたいのなら、これを渡すわ」
マリッサは、鞭をヘンリーに手渡した。
「ふん」
ヘンリーは抵抗することなく鞭を持った。
そして、赤い瞳がチサを見つめ、魔物はチサのほうへとゆっくり歩き出す。
「い、いやっ」
チサは尻をついた状態で足で地面を蹴り、背後へ下がって行く。しかし、腕を拘束されているため、体勢が崩れて横に倒れてしまった。
マリッサの黒く巨大な手が伸びてくる。
チサと巨大な手の間にヨーコが立った。
「ヨーコ」
ヨーコの背中が震えているのが見えた。しかし、その勇敢な背中を見る限り、自分よりも何倍も大きい魔物に恐怖しているわけではないと、チサは感じた。
ヨーコも魔力も体力もないのだ。
ヨーコは胸の前で手を合わせ、体の隅々からほぼなくなってしまっている魔力をかき集めていく。
そして、両手を魔物に突き出した。
頭一つ分ほどの火球が弱々しく出現する。
「はっ!」
ヨーコは、魔物に向かって放った。
しかし、魔物が吐いた強い息で、火球と炎の勢いは瞬く間に弱まって、白い煙をあげて火球は消えてしまった。
ヨーコは肩で息をして、ガクッと膝をついて倒れそうになった瞬間、魔物の拳によってヨーコは後方に弾き飛ばされてしまった。何度か地面で跳ねて、回転する体は静かに止まって動かなくなってしまう。
「ヨーコ……」
チサは、すぐに自分の正面に圧迫感を感じて、顔を振り向けた。
もうその時には、マリッサの巨大な手がチサの体を包みこもうとしていた。まるで恐怖の闇に飲みこまれるようだった。
体を巨大な手に握りしめられて、チサの頭だけが拳から出ている状態だった。息はできるが、体の締めつけが強く、思うように呼吸ができない。
このまま握りつぶされてしまう不安も強く、心臓の鼓動が細かく速く打つ。どうやって息をしていたのか忘れてしまったようだった。
チサをつかんだ魔物は、三賢者がいる巨大樹に向かって歩きはじめた。それに近づいていけばいくほど、傘のように広がった枝葉の幹が太いことがわかる。
「これ以上、近づけはさせん」
魔物の前に、シュナイダーが一人現れた。残り二人の賢者は、木の生えた球体の下に座ったまま念を送りつづけていた。
「なぜ、止めるのです。これが成功すれば、あなたもここで一生を過ごす必要はなく、余生を楽しむこともできます」
マリッサが言った。
「
「あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ」
チサは、マリッサに強く握りしめられて、体の軋みと苦しさに叫んだ。
「人一人の血で、星が変わると思うか。犠牲など、悲しみしか生まん」
シュナイダーは、無造作に、巨大樹の幹を切り落とせるほどの光の剣を出現させた。
チサは、自分を握る魔物の腕が、ぴくりと一瞬引く動きを感じた。
「我々の住む星は、毒に侵されて死にかけている。かろうじて、こうして賢者が死なないよう維持しておる。毒抜きもできはじめているし、もう数百年もすればよくなるだろう」
「賢者ならみずからの犠牲は許すというのか」
「命をここにあずけてしまう意味では、犠牲かもしれぬ。だが、自分の魔法が星を守り、その上で生活する人々を守ることができるのが賢者だ。最高の魔法使いの仕事だ」
「きれいごとを言うな、老いぼれ賢者が」
「ふん、なんとでも言うがいい。人を幸せにしない魔法など、魔法とは言わぬわ。ましてや、人の命を犠牲にするなどもってのほかじゃ」
シュナイダーは、語気を強めて言ったのと同時に、自分の体よりも何十倍も大きい光の剣を振りかざした。
ただまっすぐに伸びた剣を魔物に傾けただけのようにも見えた。
音もなく、スパーンとマリッサの肩からチサを握りしめる腕が切り落とされた。
地面に落ちた手の中で、チサは抜け出そうとするが、自分の腕が拘束されているためなかなかマリッサの手から出ることができない。
「ギャァァァァァ――――――ッ」
腕が切り落とされた魔物の肩からは、灰色の液体が放出され、白い地面を黒く染めていく。
ヘンリーの手に持った鞭が怒りにまかせて振りあげられ、空気を切り裂くように鞭が伸び、避ける隙を与えることなくシュナイダーを直撃する。
そのシュナイダーは、一瞬で真っ白な地面にはたき落とされてしまった。同時に、露出した肌が裂けたのか、あたりに血が飛び散った。
「ゆ、油断……しておったわ」
と、シュナイダーは腕をついて体を震わせながら起こした。
すぐに魔物は持っていた鞭を手から離して、そのシュナイダーに手の平を向けた。
シュナイダーを取り囲むように、黒い風が吹き昇り出した。
爆発するようにいっきに上空まで渦を巻く。
「ぐぅわぁぁぁぁぁぁ――――――ぁ」
シュナイダーは、その渦の中をグルグルと巻きあげられながら上昇して行く。竜巻の中から体が飛び出ることはなく、体を切り刻む鋭い風によってシュナイダーの血だけが辺りに飛散していった。
そして、渦の口から吐き捨てられるように、シュナイダーの体は遠くへと飛ばされてしまった。
魔物は、シュナイダーの落下を見届けることはなかった。すぐに、切り落とされた腕を拾い上げようと、片腕を伸ばす。
近づいてくるその手に、チサは抵抗するのをやめた。
諦めた。
――もう誰もなにもできない。
スッと、チサは自分の体が軽くなったの感じた。
その瞬間、チサの体は切り落とされたマリッサの手からスルリと抜け、魔物からずっと後方へと宙を飛んで引き戻された。
あっという間に、絨毯のある場所まで移動した。
そこには、マヤトが立っていた。
「マヤト君!」
――良かった。目が覚めたんだ。
チサを魔法で引き寄せたのはマヤトだった。
しかし、チサはそのしっかり立つマヤトに違和感を覚えた。
残りわずかな魔力で助けてくれたのなら、もうマヤトは立っているのも困難なはずだった。だが、マヤトは立っている。
「やめろと言ったのに……マヤト」
倒れたサトシが顔だけあげて、苦しそうに言った。
「サトシ?」
チサは、マヤトの足元に、芯だけとなったリンゴが落ちているが目に入った。
「マヤト君まで。やめて、今すぐ吐いて、戻して」
チサはマヤトにかけ寄った。
マヤトの体からは、灰色の煙が湧きはじめていた。
「マヤト君」
「ずっと考えていたが、これしか方法がなかった。守ってくれてありがとう、サトシ」
「マヤト君、なにをする気なの」
「俺にしかできないことだ」
マヤトは顔をゆがめた。
このままではマヤトも魔物になってしまう。しかし、チサにはなにもする手立てはなかった。
「使わせてもらう。白鹿の血を……」
マヤトは、マリッサが持っていた注射器を手にしていた。まだ半分以上、チサの血液が注射器には残っていた。
「私の血?」
手の平の上の注射器は、マヤトが発動させた魔法の光に包まれると宙に浮いた。注射器だけが光の粉を発して消え、血液だけが残り、しだいに細かく別れていく。
そして、マヤトの頭上から螺旋を描くように、マヤトの口へと一滴残らず注がれていった。
マヤトは、両手を胸の前で組んだ。
マヤトの全身に、オレンジ色の魔法式や幾何学模様が走り出す。立ち昇る煙は、その光に抑えこまれている。
「マヤト君、いったいなにを……」
チサは聞いたが、マヤトは答えてはくれなかった。
「生きていたのか」
魔物がマヤトに向かって火を吹いた。
一瞬で辺りは火の海となったが、マヤトの赤い防壁魔法で炎は遮られた。
「そいつをよこせ」
魔物が片腕から灰色の液体を垂らしながら、走り向かってきた。
マヤトは防壁魔法を解き、片腕を伸ばすマヤトの片目には、虹色のレンズがつけられていた。
そして、マヤトの手から槍のように尖った針が光速で放たれた。
一閃の光の尾を伸ばしたそれは、向かってくる魔物の胸に突き刺さった。
魔物はその場で動きを止めた。
――や、やったの?
チサは息を飲んだ。
しかし、魔物はふたたびまっすぐ走りはじめた。
「魔法核は、一つじゃなそうだな」
巨大な手が直前に迫ってくる。
明らかにチサをまた捕まえようとしているのが見てとれた。
チサは、マヤトに抱きかかえられて、魔物の手の脇をすり抜けて移動した。
動きが止まって、チサはそっと目を開けてマヤトを見た。
「マヤト……くん!」
マヤトの背中には、黒い羽が生えていた。マヤトは苦しそうに顔をゆがめている。
チサは、ゆっくり地面に降ろされた。
灰色の煙を押さえこんでいたものの、羽が生えたことでマヤトの魔物化が進んでいることは明らかだった。マヤトはチサの血を解析しつつ、魔物化を防ぎながら、魔物を倒す方法を考えていたのだろうとチサは思った。
しかし、それ以上にリンゴの持つ魔力が強く、魔物化への影響を抑えこむことができていなかった。
チサは自分の新しい魔法が覚醒したときに、しっかり習得できるよう学ぶべきだったと後悔の念が押し寄せてきた。
もし、自分がその魔法を使いこなすことができていたら、こんなにもマヤトに迷惑をかけずに済んだのかもしれない。マリッサにさらわれても自分の力だけで、なんとかできたのかもしれなかった……。
「ふははは……そのまま魔物化してまえばいい」
魔物が言った。それをマリッサが言ったのか、ヘンリーが言ったのかチサにはわからなかった。
「くっ」
マヤトは、自分の胸をぐっと押さえこんで、その場で膝をついた。
「マヤト君、大丈夫?」
回復をすれば楽になるのか、毒を抜く魔法をかけたら効果があるのか、チサの頭の中で考えてみたものの確信が持てる答えを引き出すことができなかった。
――人に役立つための魔法、回復魔法ならどんなに深い傷でも治せるくらい魔法を扱えるようになっておけば良かった。
――魔力がなくなった時に、魔力を回復させる道具を生成できるようにすれば良かった。
――歴史なんかよりも魔法薬の選択教科を考慮すればよかった。
結局、チサの考えは、後悔するようなことにしか行き着かなかった。
「白鹿、血をくれ……」
振りしぼった声のマヤトに、チサは見つめられた。
「えっ、でも……」
チサは、魔物化が進むマヤトを見て戸惑うしかなかった。
血をくれと言われても、どう分ければいいのかわからない。
注射器は消えてしまっている。マリッサのカバンの中に予備はあるのか、考える。
そして、血を分けることができても、魔物化を抑えることで手いっぱいのマヤトは、目の前の魔物を倒すことはできないのではないか……。
「早く、血を……。もう少しなんだ……もう少しでできあがる」
苦しんでいるマヤトの表情に笑みがあった。
――なにができあがるのか私にはわからない。
「白鹿。あの魔物から二人を助けるために、君の魔法が必要なんだ」
「――私の魔法?」
チサは、胸の中が急に熱くなるのを感じた。
以前、マヤトが言っていたことを思い出した。
――私の血を狙っていた理由は、死んだ家族を蘇らすため。
――いまは自分の幸せより、マリッサとヘンリーを助けることを選んだマヤト君。
――それは嘘かもしれない。
そう思ってしまったことは、本当だった。
――でも、わざわざ魔物化する可能性もあるのに、マヤト君はリンゴを食べるだろうか。
――こんな時に、マヤト君が他人を不幸にする魔法を作るわけがない。
――これしか方法がない。
チサは、マヤトの前に向き直り、マヤトと同じように膝をついた。
背後には、魔物が近づいて、背中が無防備になっても構わなかった。
チサは奥歯で頬の内側を噛み、そして、反対側の歯でと思いっきり舌を噛んだ。
顔をゆがめている間にも、生暖かく鉄臭い血が口の中にどんどん溜まっていく。
チサは、すっと、顔をマヤトに近づけた。
自分の鼻がぶつからないように、顔を少し傾けてマヤトの口に自分の唇を重ねた。
口から口へ、血を送りこんだ。
唇からマヤトの震え、苦しみ、痛みが伝わってくる。
でも、そこは暖かかった。
どのくらいそうしていたのか自分でもわからない。
ほんの数秒だったのか、一分くらいだったのか。
時が止まっていたようにも思えた。
ふわっと、マヤトの唇が離れた。
自分の顔が熱くなっていた。
それでも、マヤトの顔を見た。
微笑んでいた。
「ありがとう。君がくれた魔法だ」
マヤトがそう言うと、何事もなかったかのように立ちあがって両の手の平を胸の前で合わせた。
「ホワイト・ハート 」
マヤトが唱えた。
マヤトを中心に、青白い光の魔法陣が広がって行く。
どこまで広がって行くのかわからない魔法陣に、魔物は動きを止めた。
そして、マヤトとチサは大きな影に覆われ、チサは頭上を見上げた。
四つ足の動物の腹が見えた。横から確認すると、立派な角の生えた真っ白な動物が一頭いた。
「鹿? 白い鹿……」
マヤトは、静かにうなずいた。
そのマヤトには、もう黒い羽はなく、灰色の煙も出ていなかった。
「その魔法は、私が……私が見つけた魔法だ。世界を救う魔法を」
魔物がマヤトの魔力の壁に抵抗するように吠えた。
「魔法で世界が救えるなら、とっくに良くなっている。でも、魔法は人を幸せにしてくれる」
マヤトがチサに手を伸ばすと、チサの両腕を拘束していた魔法が弾けて消えた。
チサは、マヤトの手に吸い寄せられるように手を繋いだ。この時すでにチサの口の中の痛みはなくなっていた。噛み切った傷口もマヤトの魔法で癒えていた。
そして、マヤトは、もう片方の手を魔物に向けた。
「聖魔法・ホーリー」
マヤトの声が響き渡ると、
魔物の上空に数珠のようにつながった白い光の玉が輪を作るように出現する。
マヤトの手が振りおろされると、その光の輪が降下しながら円を描くようにグルグルと回転して魔物を取り囲んだ。まるで無数の泡に包みこまれたように魔物は見えなくなってしまった。
地面から真っ白な光の柱が天まで伸び、その光の中から魔物の咆哮が響きわたる。
白球と光の柱の隙間から黒い光が、方方に向かって拡散し、ゆっくり途切れて消えていった。
そして、白い光の玉と光の柱もゆっくりと消え、魔物の姿もいなくなっていた。
マヤトは腕を下ろすと魔法陣は消え、同時に崩れるように倒れそうになった。
チサは、マヤトを抱きしめた。
「お疲れ様」
2
魔物がいた場所には、裸のマリッサとヘンリーが横たわっていた。チサとマヤトは、自分のローブを二人にかけた。
元の姿に戻った二人の胸が上下に動いていることを確認できたチサは、自分の胸をおさえて大きく息を吐いた。
「マヤト、無理しやがって」
サトシが上城の肩を借りながらやってきた。
「サトシこそ、四賢者になると言っていたが、大したことなかったな」
マヤトは目を細めて言った。でも、口角は上がっていた。
「……だな」
サトシが言うと、二人は見つめ合って、一瞬間をあけて、二人は笑った。
「あれは」
上城は、上に向けて指を差した。
枝葉の一部が、緑色の葉と茶色の枝になっているのが見えた。
「あそこは、二人がいた場所だね。聖魔法が、木の一部を浄化したんだね」
上城がチサとマヤトを見て言う。
しかし、周囲の赤がだんだんと正常になった箇所をもとに染め直していく。
「あぁ……」
あっという間に、浄化されていた部分は元に戻ってしまう。
「魔法だけでは、本当に世界を救うことはできないみたいだね」
――きっと私の血を全部使ったところで、なんにもならなかったんだと思う。
遠くに飛ばされてしまっていたシュナイダーの体は、見るも無残な姿だった。ローブはボロボロに破れて、竜巻きの力がどれほどのものだったのかを伝えていた。
どんなに強力な回復魔法を使っても、息を吹き返すことはないほどだった。
全員が、この場を守ろうと勇士を見せた賢者に手を合わせた。
木の生えた赤い球は、脈を打っていた。
一回一回強く力を振り絞っているようにもチサには思えた。
「前人類の時代に、一部の人たちが自分だけの幸せを保持しようとした結果、星全体を破壊する行為があり、人類は滅亡の危機、星が破局する寸前だったそうだ」
リチャードが言った。
「それは、いつのことですか?」
チサは聞いた。
「ちょうど新人類として魔法を使うことのできる初代賢者がいた頃だから、百年ほど前」
――それから私たちは、今にも死んでしまいそうなところに住んでいたんだ。
チサはもう一度、赤い球と木を見上げた。
それは、人々の住む星の命。賢者がそれを守っていたのだった。
「皮肉にも、破局が進む中で、我々新人類が生まれたと言う話だ。魔法歴史にはないここだけの話だから、言わないでな」
「それじゃ、前人類は魔法が使えなかった?」
リチャードは静かにうなずくだけだった。
チサには、魔法が使えないことが信じられなかった。魔物化してマギア・ロストすることは、特殊な状態かと思っていたが、魔法が使えることのほうが特殊だった時代もあったことに驚いた。
「初代三賢者によって、星を保護することに成功して、幸い我々も保護を継続できている」
「魔法限界は、破局の進む星を保護する魔法だったのか」
上城がつぶやいた。
「そうさ。その魔法限界の上に、魔法で作った世界があるだけだ。星の上にあるものはどれも魔法さ」
「え、そしてたら、太陽や月は?」
チサはまた聞いた。
「よくわからないけど、魔法じゃないんだろうね。誰も太陽や月を維持する魔法を発動していないからね」
魔法でなければ、いったいなんだと言うのか、チサの頭の中は混乱していた。
「近く、新しい賢者が選出されるだろう」
「また一人、優秀な魔法使いが姿を消したと、騒ぎになるんだろうな」
上城は苦笑いをした。
賢者に選ばれることは、人々にとっての夢であった。しかし、全人類の命をあずかる大役を背負うことでもあった。
もし、それを初めから知っていたら、誰も賢者を目指さないのかもしれない。
チサは、サトシを見た。
「サトシ」
「心配無用だ。チサの指名は裏切らない。クラスで誰よりも早く賢者になってみせるよ」
「ふん、
上城がサトシに言った。でも、上城は、とても嬉しそうな表情をして、サトシの肩を支えていた。
「上城、そろそろここから出て行ったほうがいい。賢者が一人いなくなれば、ここに役人がくる」
「そうだね。戻ろうか」
上城がうながすと、絨毯のある場所へ向かった。
ヨーコも意識が戻っていた。
絨毯の上に、みんなが乗ると、リチャードが絨毯を触りながら魔力を送りこむ。
「たぶん、平気だ。ただ、ジーニアス・パレスを出たら、どうなるかわからない。あとは頼んだぞ、ツトム」
上城はうなずいた。
「リチャード」
「なんだ」
「すまなかった。本当は、俺が賢者になる予定だったのを」
「悪いが俺が先に、賢者になったんだ。そこのところ、忘れるなよ」
リチャードは笑みを見せ、両手から魔力を放った。
絨毯がふわりと浮き、波打った。
「あぁ。リチャード、それじゃ、また」
二人はうなずきあった。
絨毯から光が溢れ出して、チサたちはその光に飲みこまれた。
空飛ぶ絨毯は、夕日が沈む海の上を飛んでいた。
風が耳元でびゅーびゅー言っていた。
絨毯の乗り心地は悪くなかった。
チサは、まさか、ここに来て魔法の絨毯に乗れるとは思ってもみなかった。
しだいに陸地が見えると、魔法都市トーキョーのビル群も見えはじめた。
マヤトだけは風を浴びながら、海の向こうに沈む太陽を黙って眺めていた。
3
三日後、新しい賢者が選ばれ、各魔法都市をあげて、世界中がお祭りになった。
上城ツトムは、一週間かけて世界の魔法都市に顔見せに回っている。その間は、どこもお祭りが続いていた。
なぜ、ここに来て新しい賢者が堂々顔を出すようになったのか、その真意はわからない。
しかし、優秀な魔法使いが姿を消すという悪い噂話を払拭したかったのではないかと、チサは悟った。賢者の真実は明らかにされないまでも、顔を見せるということは、賢者の仕事に余裕がもたらされたのではないかと思う。
完全に星が救われるには、まだ先のことだろうが、少しは良いほうに向かっているのだろう。
それでも賢者はこれからもずっと必要とされる。今後も優秀な魔法使いを育成し、人材を確保するための宣伝にもなっているのかもと感じた。
チサは、外の喧騒を避けるようにエアリスローザの司書室にいた。
魔歴研の活動報告をまとめている最中で、机に向かっていた。
課外活動をどこまで書くべきか、海底洞窟までにすべきか考えていた。
そこにドアが開いた。
チサは、ハッとしてすぐに振り向いた。サトシとヨーコだった。
「いやー、何度見てもビックリするなぁ」
壁にかかった絨毯を見てサトシが言った。
「本当にこの中を通ったとは思えないよね」
ヨーコが絨毯をなでた。
魔歴研には、新しくヨーコが入ることになった。
マリッサは、こっちに戻ってきてから意識を取り戻した。マギア・ロストにはなっておらず良かったが、役人に身柄を拘束されて以後、チサはマリッサの姿を見ることはなかった。
魔歴研の顧問は、仮でティーダになっている。
「本当に、ここに置いておいていいのかよ」
「いいんじゃない? あれからなにも起きないし、絨毯からはまったく魔力を感じられなくなっちゃったしね。それなのに、絨毯として形は維持されているのも不思議だけどね」
チサが言った。
「まさか、ジーニアス・パレスにつながる入り口が、学校のこんなところにあるとは誰も思わないだろうけど。今、開いてくれたら、賢者として俺が行くんだけどな」
サトシは、開けとドアを開ける動作を見せていた。
「なに言ってるの、サトシ。その時じゃないから、開かれないのよ」
ヨーコが言った。
「だな。精進します」
「チサ、どこまでまとめられたの?」
「それを相談したくて呼んだんだよ」
サトシとヨーコは、チサと向き合うように座った。
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