第一章「落ちぶれ英雄と名ばかり女王」
第1話
夕暮れ時。
もうすぐ日が落ちるというのに、その道はまったく明かりが灯っていない。
いや、正確には四分の一だけの明かりがある。
道に並んでいる魔道灯が、四本に一本の割合だけ光を灯していた。本来であれば、道の先まで煌々と照らしているはずの街灯は、むしろ寂しさを称えるモニュメントと化している。
ボロ布……ではなく、薄汚れたローブを被った男が一人、そんな薄暗い道を歩いていた。何かを求めるようにフラフラと歩く男の目に止まったのは、一件の建物。その窓だけが、暗い道にキレイな光を放っていた。よく見れば、酒場の看板がある。
それを確認すると、男は少し早足になった。扉を開くと、数人の客と主人と思しき女性の姿が目に入る。
「いらっしゃい……なんだい、あんた。見ない顔だけど」
「……旅をしてる」
「このご時世に? ふーん、まあいいけどね。言っておくけど、ここは払いが先だよ! 金のないヤツに、くれてやるものなんてないからね!」
初対面の相手からいきなり悪態をつかれるが、男はまったく気にする様子を見せなかった。おもむろに懐をまさぐるが、なかなか望みのものを掴むことができない。
訝しむ女主人の視線も気にせず、男は必死に自分の胸元を探し回る。すると、急に安堵した表情を見せた。
「これで……食べられるだけ」
男が女主人に手渡したのは銅貨が三枚。
「これっぽっちかい……これじゃ、パンの切れっ端くらいしか食えやしないよ!」
「それでいい」
女主人は大きなため息を吐くと、男に席へとつくように促した。
男は席に近づくと、身を投げるように椅子に座る。
食事が出るまでの間、男は店内を見回す。
外から見れば、明るい光を放っているように見えた店内も、中から見れば薄暗い。せいぜいロウソクの火がある程度。
「ロウソクなんて、今どきめずらしい……」
いや、今どきだから……か。
男は思い直して、ロウソクから目を離す。
他の客の姿はわかるが、表情までは確認できない。わかるのは、彼らが店の常連であり、よそ者の自分を奇異な目で見つめているだろうことだけ。
「ほら、おまち」
男のテーブルに置かれたのは、パンが一切れと干し肉が一切れ、そして酒が一杯。
「これ……頼んでない」
「あんた、まともに食ってないだろ? そんなんで食いもんだけ入れたら、喉詰まらせて死んじまうよ! ここで死なれちゃかなわないからね!」
それだけ言うと、女主人はカウンターの向こう側に引っ込んでいく。その背中を見送ってから、男は食事に手を伸ばした。
まともな食べ物など、一体何日ぶりだろうか。
皿の上に置かれたものを一気に口へと放り込もうと考えたが、思い留まる。
「次……いつ食えるか」
つぶやくと、男はまずパンを持って、小さくかじる。決して美味しいとは言えない、パサパサした食感。だが、それさえ今の男にとっては心から喜びを覚えるものだった。
次に干し肉を噛む。薄い塩味に、革靴でも噛んでいるような歯ごたえだが、やはり極上のステーキでも食べているような気分になる。それらを安いぶどう酒と一緒に口に含んだ瞬間、男は扉が開く音を聞いた。
視界に飛び込んできたのは、あまりにも場違いなものだった。
弱々しいロウソクの明かりさえ、まるで輝く宝石のようにキラキラと反射させる金の髪をたなびかせる女。
深々とフードをかぶり、マントで容姿を隠していても、その長い金髪が彼女の出自を語っているようだった。
当然、その姿に意識を奪われたのは男だけではなく、座っていた客たちも陰鬱な顔をしていた女主人も、ポカーンと口を開いて見とれてしまう。
「えーと……あっ」
一瞬、男は金髪の女と目が合ったような気がした。もちろん、深く被ったフードと薄暗い部屋のせいで、実際に相手の目が見えるはずなかったが……。
「ちょっと、あんた。ここは酒場だよ? そんな、扉の前で突っ立ってもらっても困るんだけどね!」
女主人は、先ほど男に見せたのと変わらない態度で金髪の女に声をかけた。女は相手の声に反応し、わずかに見える口を大きく開く。
「これは失礼しました。えーと、どうすればよろしいのでしょうか?」
「どうすればって……あんた、何をふざけたこと言ってるんだい? 酒場なんだから、食いもんか飲みもんを注文するんだよ!」
「注文……とは?」
「はぁ!? 人をおちょくってんのかい! 金を払って欲しいものを頼めって言ってんだよ!」
金髪女の素っ頓狂な質問に、女主人は声を荒げた。しかし、当の本人はなぜ、相手が苛立っているのかがまるでわからない。
だが、女主人の言葉の意味は理解したようだ。
「お金! はい、持っていますよ。えーと、欲しいもの……ですか。それでは、このお店で一番良い食べ物とお酒をいただけますか?」
そう言うと、女主人の手の上に、一枚の硬貨を置く。
「あんた……ウチを舐めてんだろう。言っておくけどね、こんなボロだけど、酒だけは良いもの扱ってんだい。一番の品、そんな端金で売れるわけ……えっ!?」
女主人はまじまじと自分の手を見つめる。正確には、手の上に置かれた一枚のコイン。
「こいつは……金貨? しかも、ローデリア金貨じゃ……」
その一言を聞いて、酒場にいた客たちもどよめいた。当然である。
相場にもよるが、ローデリア金貨は男が支払ったドゥアナ銅貨の三千枚相当の価値がある。
「こちらでは足りませんか?」
「足りないってことはないけど……わ、わかったわ。一番いいお酒と食べ物だったね。用意してあげるけど、ちょっと待ってな。裏の倉庫にあるから……すぐ持って来るからね」
女主人はそのまま、カウンター奥の勝手口を出ていく。
すると、金髪の女は向きを変え、まっすぐに男のほうへと歩いてくる。テーブルの前に来ると、ゆっくりとお辞儀をした……マントの両裾を指でつまみながら。
「ご機嫌麗しゅう、マーカス様」
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