第3話

それから僕は、この店の前を通るのが楽しみになった。

母は疲れるとここに寄って夕飯を済ませ、不思議と疲れが取れる珈琲を味わうようになったからだ。

いつも不機嫌そうに無表情だった母の顔に笑顔が増えるようになり、僕のたわいもない話しにも耳を傾けてくれるようになった。

そんなある日、僕は突然保育園で高熱を出してしまった。

朝は熱はなかったのに、昼寝から覚めて検温をすると、四十度に近い熱を出していた。

当たり前の事だが、担任の先生達は大騒ぎとなった。

保育園の看護師さんが飛んで来て熱を計り、僕は手を取られて医務室にある小さなベッドに寝かされた。

頭が痛くてクラクラして、先生が母に電話をしているのが察せられたが、それが現実なのか夢なのか……。

心細くて母が恋しくて見ている夢なのか区別もつかないまま、僕は不安の中眠りについていた。


「こうちゃん……こうちゃん」


僕は先生の声を聞いて目を覚ました。


「おじさんが迎えに来てくれたわよ。良かったわねー」


先生のホッとした明るい声は、高熱で気弱になっていた僕を安心させるものだった。


「おじさん?」


「そう……。こうちゃんのママは、なかなかお仕事抜けられないから心配してたんだけど……よかったわ」


「さっ、こうちゃん帰ろう」


聞き覚えのある声の方を見ると、冨樫がいつもと同じように、爽やかな笑顔を浮かべて、僕のリュックを持ってベッドを覗き込むように言った。


「うん……」


僕はの意味すらわからずに頷いた。

冨樫は保育園を出る時から、僕を背負ってくれていた。

その背中はとても暖かいもので、そして不思議な良い香りが僕を包んで、再び深い眠りにつかせた。



気がつくと、僕はベッドに横になっていて、薄暗い部屋の天井が記憶にない物だった。


「冨樫さん、起きたよ」


がたいの良い男が、少しドアを開けて部屋を覗いていたのか、そう言っている声が聞こえた。


「あ……コタさんだ」


この喫茶店には、冨樫ととても親しげな琥太郎がいる。

華奢な冨樫とは正反対の、体格の良い大男だ。

無口だが僕には優しい。

偶に奥の猫の寝ている建物に、連れて行ってくれるのもコタさんだ。


「やあ……熱、下がったようだね」


冨樫は優しくソフトな声音で言いながら、部屋に入って来た。


「熱下がった?」


「ええ、我が家秘伝のお薬を飲んだからね」


「お薬飲んだの?」


「ええ、ここへ来て直ぐに……。良薬は口に苦しと言うけど、うちのは全然苦くないだ。大好きなジュースと一緒に、ごくごくって飲んじゃったよ。そうすると直ぐお熱は下がるんだ」


「ほんとう?」


「本当にだよ。僕もコタも飲んでるから解るんだ」


「へえー凄いんだね」


「凄いんだよ。だけど、みんなには内緒なんだ」


「なんで?」


「作るのに大変なお薬だからね。みんなにはあげられないからさ」


「……じゃあ、僕言わないよ」


「うん……そうだね」


冨樫が目元を細めた時母が慌ててやって来た。


「どうして光太郎がここに?」



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