真夜中の喫茶店・僕の部屋

婭麟

第1話

僕がまだ幼かった頃、父が若くして亡くなったので、母は僕を保育園に預けて、朝早くから夜遅くまで働いていた。

保育園の預かり時間は決まっていて、職場迄一時間以上かかっていたから、僕は保育園を一番乗りで登園し、一番遅く降園していた。

基本土日休みだっだが、仕事の都合で土曜日も母は仕事に出かけた。

幼い僕もさる事ながら、若い母でもとても疲れていただろうと思う。

その日は、明日は休みという金曜日だった。

毎日延長保育の最後まで残る僕は、年を追うごとに、少しずつ荒れていっていたのか……年頃だったのか……。

とにかく僕は、園でも又はというレッテルを貼られるようになっていた。


「こうちゃん」


先生が僕の名を大きな声で呼んだ所に、疲れた表情の母がやって来た。


「光太郎、またなんかやってたのね」


母が苦い表情で言った。


「ママ!」


僕は大喜びで母の腰にしがみつくが、母は素っ気なく身を翻して


「早く帰りのお支度して頂戴」


と言った。


五歳ともなると、自分の事は少しずつ自分でやるように言われる。

昼間着替えた洋服や使ったタオルを、背負って来たリュックの中にしまうのが、やっぱりめんどくさいし、母にやって貰いたい甘えもあるのだが、母は疲れているのか僕がやる迄ジッと待っている。

僕は甘えを許されぬ事を、母の表情から察して急いで支度に取りかかる。


もたもたしていると、さっき迄一緒に居た園児が、お母さんと楽しそうに話しをしながら降園して行ったのを見て


「さっさとしなさい」


母が声を荒げた。

慌ててリュックを背負い、バタバタと音を立てて走ると、また母に叱られた。


「まったく……」


不機嫌な表情のまま、母は保育園の先生に礼を言って僕の手をとった。


帰り道、母はずっと無言だ。

僕がいろいろと話しをするが、母は無言で聞いていて、そして偶に大きくため息を吐いた。

夜空には煌々と月が白く輝いている。


「今夜は下弦の月ですね。だけど本当に綺麗に光輝いてますねー」


坂を下りた辺りに来ると、不意に男に声をかけられて、母の無表情の顔が強張った。


「お帰りなさい。今お帰りですか?」


「………」


「……ああすみません。驚かせてしまいましたか?」


長身で細身の、狐顔で今流行りの塩顔の男が、子供の僕にもわかる程の爽やかな笑顔で言った。


「余りに綺麗な月なので眺めていた所、とてもお疲れなご様子に思わず声をおかけしてしまいました。宜しかったら、美味しい珈琲を一杯飲んで行かれませんか?」


「け……結構です。第一今珈琲なんか飲んだら眠れなくなるわ」


母は素っ気なく言うと、僕の手をきつく握って歩き去ろうとした。


「うちの珈琲は、眠れなくなるなんて事はありませんから、ご安心ください。……そうそう、うちのオムライスは、この界隈では美味しいと評判なんです、よかったら是非それも……」


「け……結構です……」


母が再度断ると、その男は一重の切れ長の瞳をジッと僕に向けて笑った。


「ボク……オムライスは好き?」


「うん、すき」


無防備な僕は、母の不安など知る由もなく無邪気に答えた。


「ほら……こうちゃんもこう言ってますよ」


「な、なんでこの子名前を?」


母の警戒心が益々増していく。


「さっきお母さんがそう呼んでましたから……」


「えっ?」


「今日はこうちゃんの好きなのオムライスを作りたいけど、とても疲れていると……」


「私そんな事……」


「呟いておいででしたよ……ごめんねって……」


母は無表情なまま男を凝視したが、そのまま男に促される様に、男が立っていた後ろにある喫茶店の中に入って行った。

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