第2話 1章・上

高校生活最後の夏休みの始めの朝。

父が死んだ。


新聞配達の音がかすかに街に響く白い時間帯に、姉の使っていたお気に入りのカップが、割れる、無機質な音が家の中を走り抜ける。

眼前には泣き崩れる母と、状況を理解できないといった様子の青ざめた姉がいて、視線をあげれば、マヌケな寝癖をつけた人形のような顔をした男が鏡に映る。


その男は、冷静に状況を見据えて、小さく咳払いをした後、自分のカップにコーヒーを注いでいる。

その男は、誰も手をつけてない朝食のトーストをかじっている。

その男は、付けっ放しになったテレビから淡々と流れる天気予報を見ている。

その男は、どうやら僕らしい。


病院からの電話によれば、父は通勤中にいきなり胸を押さえて倒れこみ、そのまま緊急搬送された病院で息を引き取ったそうだ。

なにやら難しい病名を聞かされた気がするが、一言一句覚えれなかった。


大急ぎで支度をして病院に向かうと、薄暗く薬品臭い受付に、作りこんだかのような厳しい顔をした医者が頭を下げて来た。


どうも病院という場所は、常に胸が重たくなるようで好きになれない。

誰もが、影の色を濃くして、どこか、遠くの何かを見るように、自分の名を呼ばれるその瞬間を待っていて、幾度となく繰り返したであろう診察を仕事として淡々と行う医者がいて、今も誰かの呼吸が止まっていて、今も誰かの腫瘍が取り除かれてる。


そんな無秩序で無機質な空気が渦巻いているこの空間は、誰かの体内にいるようで、息が詰まってくる。


息がつまるといえば、ここに来るまでのタクシーの中はまるで、僕ら誰一人として、生きていないかのように無音だった。

後ろに流れていく景色を目で追う事しかできないその異空間では、隣に座る姉の頬を静かに伝う涙と、髪がボサボサのまま肩を震わせる母の姿だけが現実で、運転手はどんな心境なのだろうか? そんな事ばかり考えていた。


眼鏡をかけた初老の医者は、目の下にできたクマを隠すように眼鏡上げながら、ここに至るまでの経緯を説明しているが、概ね電話で聞かされた通りで、違いがあるとすれば、ここに着いた時にはすでに死亡していた事ぐらいか。


つまり、父は遺言らしい事一つ言えずにこの世界から去ってしまったのだ。

死という概念をリアルに感じ取れない僕には、子や妻を思い返したであろう父の姿を想像しては、最後の瞬間に何を言うのだろうかイメージしてみるが、何も答えらしい答えは出なかった。


医者の話を聞き流しながら父の事を思い返す。

決して器用な人ではなかった。


小学生の頃、何を思ったのか運動嫌いの僕にグローブを買い与えて、外に出て野球でもしてこいと漠然な事を言われたことがある。

決して野球をしたいなんて言ったわけでもなく、そもそも運動すらしたくないので、僕はそれを放置して家で本を読んでいた。


どうやら、それが父には納得できなかったらしく、外で遊んでこないならこんな物は捨てると言って本を奪ってしまった。

何一つ理解できない行動に、ただ、呆然としていたが、このままではどうにもならないと思い、仕方なく新品のグローブを持って家を出ることにした。


特別仲の良い友達もいなければ、野球チームにも入ってないので、どうすればいいのかもわからず、ただ何と無く広い公園の広場をウロウロしていると、数人の同世代の子供がキャッチボールをしていたんだ。


それを漠然と見つめているの僕に気づいたのか、件の彼らの方から歩み寄って来た。

どうやら混ぜてくれるようで、初めてながらも気持ちが高揚したのを覚えている。


しかし、元来運動音痴な僕が、そのままうまくいくはずもなく、少年たちは次第に僕を煙たがり始めた。

何度めか分からないキャッチミスと、見当違いな暴投に耐えかねたのか、恐らくリーダー格であろう体格のいい少年が僕に歩み寄ると、力強く突き飛ばしてきたた。


それが皮切りのように、周りの子供達も冷めた目で後ろから見下ろしているのが見え、この群れでは自分は生きられないんだと悟ったんだ。

それから僕は遠くに飛んだ球を拾うだけの係で野球を日が暮れるまでやらされた。


擦りむいて傷だらけの足を引きずりながら家に帰ると、その姿を見た父は嬉しそうに近寄って、頭を撫でてきたっけ。

野球は楽しかっただろう? 俺も子供の頃はよく泥まみれになるまで遊んだ。やっぱり子供は外で遊ばないとダメだ。

そんな事を言って満足そうにしていた父を見ると、野球なんてつまらないとは言えなかった。


それから父がいる時は、グローブを持って家を出て、そのまま図書館に行って時間を潰して過ごす日々だった。

その行いに父が感づいているのかは分からなかったが、父はその事には触れないまま、満足そうにしてたと思う。


瞼を閉じて、コマ送りのように記憶を反芻して、瞼を開ける。

思い出の中の父はやっぱり器用ではなく、自分の辿った道以外の全てが気に入らない不器用な人間だった。


そうこうしてる間に医者の話は終わったらしく、廊下の角にある暗く寒い部屋に通される。

そこにはただ白い塊が横たえられていて、それが父の亡骸だと気づくのに時間を有した。


薄い布を一枚剥がすと、よく知ったはずの顔があったのだが、なぜだか僕には全く知らない誰かのように見え、確かに父の顔のはずなのに、それを欠けら程にも信じれない不思議な感覚に目眩を感じてしまう。


母も姉も声を荒げて涙を流し、あれこれと思いの丈を口にしているが、僕はなぜか胃の底がグルグルと渦巻いて、ひたりひたりとこみ上げる吐き気を抑えるのに必死だった。


それはこの部屋の温度や暗さのせいなのだろうか?

あらゆる人間がこの部屋に通され、それぞれの関係者の抜け殻を見ては、言葉にならない感情を吐露しているであろうこの部屋が、僕の五感すべてに何か不可解な電波を流し続けてるような、そんな居心地の悪さがあった。


その後はなんだかとてもいろんな事があった気がするけど、こみ上げる吐き気と、それに伴う頭痛に耐えている内に家にいた。

いつの間にか家の中は白と黒の幕で仕切られていて、喪服に着替えた僕らが何やら物々しい受付に座っているじゃないか。いつの間に僕は着替えたのだろう?


父の葬式はひっそりと、しかし、厳粛に行われた。

どんな交友関係で、どんな人がいるのかはよく分からないが、脳内で数えるには面倒で、大勢というには大げさな人数が一様に黒を身にまとって顔を合わせている。


姉さんも、母さんも、肉体だけが朝を迎えて動いているような、まだ意識は布団の中で優しい夢を見ているかのような、そんな様子で黒服の列に頭を下げていた。

それはとても、家族として至極真っ当な事なんだろう。

庭に落ちた菓子くずを運ぶ蟻の行列を眺めている僕よりはとても。


ふと、視線を上げると見慣れない参列者の中に、見覚えのある顔を見つけ、視点が定まる。

大きくも小さくもない体格に、ふんわりとした髪と大きな黒縁眼鏡にとても見覚えがあり、しばらく見つめていると、向こうもこちらを見つめ返し、歩み寄って声を出した。


「やぁ、彼方君。大きくなったね」


見覚えはあったけども、この人が誰なのか? その明確な証である名前を思い出せず、だけど無言でいるのも失礼なんだろうなぁ、なんて思いながら言葉に詰まってると、目の前の男は少し優しく、でも悲しそうに笑った。


「覚えてはくれてるのかな? 僕は君の父さんの弟…つまりは君の叔父である和幸だよ」


そうだ、彼は叔父である和幸さんだ。

親戚の集まりなどがあると、どうしても僕は誰とも話したくない気持ちになり、よく一人になれる場所を探しては、そこで時間が過ぎるのを待った。

そんな時なぜかこの和幸さんだけは話してても苦じゃなく、よく話しかけてくれたんだ。


「びっくりしたよ。本当に。あんまりにも急だったもんで、急いでこっちに戻ってきたんだ」


そう告げる彼の格好は確かに所々がちぐはぐで、急いで見繕ってきたかのような慌ただしさが見えた。

和幸さんはカメラマンで、世界のあらゆる場所で写真を撮っている為、この国にいる時間はあまり長くないのだそうだ。趣味である旅もできるから好都合だよと言いながら笑っていた気がする。


「でもね彼方くん、僕は今何て言葉を言えば良いのか正直分からない。僕自身今だに夢の中の出来事みたいに思えてならないんだよ。仕事でいろんなものを見てきたのに、身内の事となるとこんなにも現実感がないものなんだね」


そういう彼の表情は、言葉そのままに複雑だった。

思ってもない事が起きた衝撃と、目の前の甥を気遣う優しさと、ずっと側にあった何かを無くしてしまったような喪失感が入り混じったような。


この形式張った最後の時間の中で、僕らだけが取り残されたような…もしかしたらそんな気持ちなのかもしれない。

久しぶりの対面の膠着も晴れて行き、静かにゆっくりと、でも自然に、僕は口を開いていた。


「そうですね。僕もです。姉さん達はとても涙を流してました。でも正直僕にはそれが何の涙なのかもよく分からないぐらいなんです」


言葉にしてみると、今日初めて口を開いた気がして戸惑う。

紛れもなくこの体も、視界も、渦巻いてる吐き気も、皮膚をぞわぞわと這い回るような嫌悪感も自分のものなのに、それを全く別のコックピットからロボットを操縦してるかのような、そんな他人事のような感覚が張り付いて離れない。


認識してしまえば、余計にあらゆるものが質悪いビデオの映像のように粗末に感じて、自分の呼吸のリズムすら偽物の何かのような気がしてならなかった。

そんな感覚を取り払いたくて、無理やりにでも会話を続ける。


「叔父さん。僕はとても親不孝な人間なのかもしれないです。朝起きてから今までずっと、何にも感じ取れないんですよ。病院で医者の話を聞いてるときも、冷たくなった父を見た時も、こうやっていろんな人が父の為に泣いてる時でさえ、胃が気持ち悪いなぁなんて考えてるんです。本当に」


つまずく事なく淡々と流された言葉に、少しギョッとした和幸さんが何かを言おうとしたが、僕の一度開いた口は、ダムが決壊したかのように言葉を濁流として吐き出し続ける。


「ただ、何だかとても悲しい気持ちなんです。それは、ええ、そうなんですよ。人並みの悲しみがどれだけなのかは分からないですが、僕の心にもそれと類似した気持ちが渦巻いてます。こうして話してると尚更それを感じる。でもね、それが何の悲しみなのかよく分からないんです」


その勢いに自分ですら驚き、また誰か違う人間が僕として話してるような感覚に冷や汗が滲み、見てる景色が白黒になって行くような、あらゆる雑音が明確に聞き取れて耳を覆い尽くすような嫌悪感に脈が早まる。

この場所はこんなに暑かったけ?


「いや、彼方くんそれは違う。僕ら大人だって気持ちに整理がついてないんだから。僕も今日は涙も流せていない。それだって言うならば薄情だろ?」


少し焦燥した様子が漏れないように淡々とした、されどはっきりとした口調で和幸さんが話す。


「きっと、叔父さんは全てを受け取った先で、あらゆる物を見た上での整理がついてない状態なんですよ。理性や知性が感情にセーブをかけて、今、目の前の行動を速やかにこなそうとしているだけの状態。それとまた違うんです、きっと。僕はそれ以前の何か、違う、部分がどこかおかしいんだ」


「君はおかしくなんかないさ!そんな事はない!あまり深く考えすぎるべきじゃない…いや、それをできる状態じゃないんだよ。落ちつけてないだけなんだ」


「落ち着いてはいるんですよ。驚くほどに。こんな事があっても落ち着いているんですよ僕の心は。父が死んだというのに」


父が死んだ。そう言葉にしたら悲しさの正体が少しわかった。

父が死んだのにこんなにも当たり前に全てが進んでいく事に。

父が死んだ事を当たり前に悲しんで、ありのままに消費してしまう周りの人間に。

それら全てを含めた上で尚、何も感じれない自分に対して悲しかったんだ。


ガクッと世界が二転三転したように揺れて落ちる。

気がついたら僕の視界は地面に近い所にあり、自分が立っていられずにしゃがみこんでいた事を副次的に気づく。


慌てて近寄ってきた和幸さんは僕を支えて家の奥に連れて行ってくれ、何やら言葉をかけてくれていたが、よく分からなかった。

ただ、蝉の鳴き声がうるさくて、周りのあらゆる人の視線がこちらを向いていたのと、母さんが心配そうに何かを言っていた事だけは覚えている


その後も葬儀は進んでいき、気がつけばもう人はほとんどいなくなっていた。

ようやく吐き気がましになり、立つのも楽になったので、乾いてしかたなかった喉を潤す為にキッチンに行くと、和幸さんと母が話していた。


「彼方くん。体調はましになったかい?」


見れば和幸さんの顔はこの数時間で少し老けたように感じる。

よく見れば赤くなった目と、目尻に濡れた跡があり、僕が横になってる間に抑えられていた感情が涙となって出たんだろう。

人は、悲しみを一気に消化してしまう事で老いるのかもしれない。


「はい、すいませんでした。なんか急に立つのもしんどくなって。今は平気です。まだ少し気持ち悪いですが」


来賓用のお茶を流し込み、独特の渋みに脳が少しクリアになった気がした。

その様子を見ていた叔父さんは優しく微笑んで話を続ける。


「構わないよ、少し疲れてるのかもしれないね。僕も正直体のあちこちが重たいよ。昨日まで外国にいたしね」


居間を見れば、確かに誰かがいたような形跡と、入り混じった他人の匂いで、自宅なのに、どこかしれない人の家のように見えて、少し気持ち悪かった。

姉さんはその片ずけをしていて、あくせくと体を動かしているが、僕には真似できそうにない。


しばらく椅子に座って茶を飲んでいると、母と話していた和幸さんがこちらを向いて、言葉を投げかけた。


「そういえば彼方くん今は夏休みだよね? 何か予定なんかはあるのかい?」


あまり予想してなかった言葉に少し面食らいながらも、特に何かをする予定はないと告げると、少しこちらを伺うように話を続ける。


「それなら、しばらく僕の家にこないか? しばらく日本にいるんだけど、どうも仕事ばかりで味気ない生活でね、誰かいてくれるともう少し健康的に暮らせるんだがどうだい? 自然が多くて良い所だとは保証するよ。海が近くて、町も穏やかで、夏祭りなんかもあるしね」


その提案は少しも頭になかった事すぎてリアクションが遅れてしまい、随分と間の抜けた顔をしていたと思う。

返事もせぬまま母の顔を伺ってみるも、母は何やらぎこちない笑顔をしてるだけなので、僕のいない所で話は通っているのだろう。


「もちろん強制はしないよ。返事は後でも良いから考えておいて」


「いや、行きます。特に…やることもないので」


なぜだろうか? 二つ返事に近い感覚で答えていた。

それには逆に和幸さんが面食らっている。


「あ、あぁ!そうかい!わかったよ。なら明日の夜に一緒に行こう」


少しだけ和幸さんは嬉しそうで、母は安心そうな顔をしていた。

大人たちが僕の様子を見てどんな事を話していたのかはわからないし、この提案にどんな意図があるのかは知らない。

考え出せばきっと何かしら検討はつくのだろうが、そんな事はどうでも良い。


この時僕は別に海の近い場所で夏休みを過ごしたかったわけでもなく、その提案に心をときめかせるわけでもなかったわけで。


もしかしたら今、このありのままに過ぎる日々から逃げたかったのかもしれない。


いろんな事がありすぎて疲れた母の顔を見たくなかったのかもしれないし、そういう家族に何か心配された様子で僕を見ないで欲しかったのかもしれない。


きっと、いろんな理由があったのかもしれないけど、その時の僕は、ただ、なんとなく行く事を決めた。


理由なんて恐らくないんだ。



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さよならシーサイド ゆらぎ @mutyo666

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