第4話 葛藤
「マスター、とりあえずエール酒1パイント!あと鶏肉のソテー3人前と、ブルービーンズのポタージュも頼む! ミキは何にする?」
「私はワインと、魚のムニエルにシーザーサラダを。...その、二人前で」
「ライル、お前は?」
「...地獄酒を3パイント、あと牛肉とピラフの山盛り。以上...」
「いらっしゃいませ...っておお黒いの!!随分久しぶりじゃねえか、調子はどうだ?」
「まあボチボチってとこかな。マスターも変わりねえようだな。それより酒を早く頼む、もう俺達3人ノドがカラカラなんだよ!」
「わーかったよ!エールにワインに地獄酒だな!食事もすぐに用意させっからちょいと待ってな!..おーい、大食いのお客様ご到着だ、厨房急がせろよ!」
「あいよー!」
黄金の輝き亭1階食堂。その右奥、壁に沿ってL字型に広く並ぶバーカウンターに、周囲から見れば異様な出で立ちの黒マント3人が並んで座っていた。
ルカ達の背後に並ぶ円卓のテーブル席には、豪華なドレスとアクセサリーで着飾った貴婦人や、上等なシルクの一張羅を着込んだ紳士等、貴族とも思える格好をした者たちが、エ・ランテル内で最上級のホテルとも呼べる黄金の輝き亭で会食を楽しんでいた。
そこへ明らかに不審な黒づくめの3人組が押しかけて、バーカウンターに腰を下ろしたのである。
テーブルに座っている客達の話題は一変し、その黒マント達3人の話題で持ちきりとなった。
彼らの話す小声がルカ達3人の耳にも届くが、お構いなしといった様子で和気藹々と話し合っている。
そこへ中年ではあるが薄化粧をし、体格も引き締まった年齢を感じさせない美しい女性がやってきた。
右手には2杯の大ジョッキ、左手には薬指と小指で挟んだグラスを持ち、一本のワインボトルを握ってカウンターの前にドカン!と乱暴に置いた。
「はいよ、お待ち!...って、おやあんた、ルカちゃんじゃないかい?!よく来たねえ、何年ぶりだい?」
ルカ達の前に酒を持ってきた女性が驚愕の眼差しを向けながら、三人の前に注文どおりの酒を並べていく。
「女将さん久しぶり、かれこれ2年ぶりかな。それと"ちゃん"は止めてくれって前にも言ったろ? 俺の事は呼び捨てで...」
「そんなかわいい顔してバカ言ってんじゃないよ!それにしてもそうかい、あれから変わりないのかい?」
「あ、ああ。女将さんも元気そうだな」
「当たり前さね、これでもこの街1番の宿屋を仕切ってるんだ! あんた達その様子だと、またどっか旅して来たんだろう?後で話を聞かせておくれよ」
「ああそれなんだが、女将さんに土産があるんだ」
そう言うとルカはウェストバッグをまさぐり、青く光る2つのイヤリングを取り出して手のひらに乗せ、女将さんの前に差し出した。
「...すごい、きれい..。.な、何だいこれは?」
「南方の大陸で手に入れたイヤリングだ。強力な魔除けの効果がある」
「いいのかい?こんな高そうな物をもらって?」
「ただし、1つ条件がある」
「な、何だい?その条件って」
ルカは目の前で人差し指を立てると、女将さんの顔に不穏な表情が浮かんだ。
「いいか、寝るとき以外は必ずそのイヤリングを装着しろ。当然仕事の最中も、外に出る時もだ」
「ええと、わかったよ。宿代じゃなくて、それが条件かい?」
「ああ、宿代なんて一年分でも今すぐ払えるさ。それだけだ。さあ、そのイヤリングを着けてみせてくれ」
「い、今すぐかい?」
「そうだよ!ほら、ちゃっちゃと着ける!」
ルカに急かされて、恐る恐る手の平からイヤリングを受け取ると、女将さんは自分の両耳にイヤリングを装着した。その瞬間、女将さんの体を青・黒・白のオーラが順に、音もなく覆っていく。
「ル、ルカちゃん...これは??」
「着けてみてわかっただろ?それは魔法のアイテムだ。今後万が一、女将さんに降りかかるかもしれない危険から身を守ってくれるイヤリングだよ。常に身に着けろといったのは、それが理由だ。いいね?」
「..こんなのもうあたしの頭じゃついて行けないけど、分かったよ。でもこれを着けてると何か、不思議だけど体の底から力が湧いてくるようだよ」
「そういう効果だからね。女将さんには特別だ」
ルカは、ニヤけつつも女将さんに笑顔を向けた。
「...よーし、張り切ってくよ!!何だか知らないけど、動き回りたくて仕方がないよ! あんた達の食事もすぐに持ってくるから、ちょっと待ってな!」
それを言うが早し、女将さんはカウンター右奥にある厨房へと走り去って行った。
「さて、酒も来た事だし、いっちょやるか!」
「はい、ルカ様」
「いいから早く飲みたい」
「OKOK、ほんじゃ、カンパーイ!!」
2つの大ジョッキと一つのワイングラスが、割れんばかりの勢いで三人の中央にぶつかり合い、それぞれ一気に飲み干した。
「ぶっはー、うめえ!!マスター、エール酒おかわり!」
「あいよ!相変わらずいい飲みっぷりだな。メシが来るまでこれでもつまんでおけ」
そういうとマスターは、オリーブオイルに漬けたスモークサーモンの皿をルカ達の前に並べた。
「おー、いいねえ!サンキューマスター」
ルカがフォークを手にし、サーモンのひと切れを掬おうとする前に、先程よりも巨大なジョッキに注がれた小樽のようなエール酒がルカの前に叩きつけられた。
「その様子だ、どうせ飲むんだろう? 遠慮はいらねえ、ジャンジャン飲んでいけ」
「気が利くねえ、いただくよマスター」
ルカはフォークで掬ったサーモンを口の中に運び、舌鼓を打った。
「ん〜、新鮮!!ジューシー!」
それを聞いた左右にいるミキとライルは躊躇なく皿にフォークを伸ばし、口に運ぶ。その新鮮かつとろけるようなコクの深さに二人共うっとりとし、三人は合わせるように酒を流し込む。
「ル、ルカ様! このスモークサーモンとやらは反則でございます!もはやワインと共に食べろと言わんばかりの相乗効果でございます!」
「ミキ、馬鹿を申すな。この地獄酒にこそサーモンは至高のツマミ。貴様もこれで試してみろ」
「なっ..地獄酒などただ度数の強い酒は必要ない!そういうお前こそ、この香り高いワインを飲んでから意見を述べなさい!!」
そういうとミキは自分のワイングラスに並々と注ぎ、ライルの前にグラスを置いた。それをライルは一気に飲み干した。
「さあライル、正直に言ってご覧なさい!!」
「ん、んん!!この酸味と上品な香り、美味いと言わざるを得ない」
「次、そのままスモークサーモンを食べる!」
「よしわかった」
巨躯のライルがサーモンのひと切れにフォークを伸ばす間に、ミキはライルの飲み干したグラスにワインを注ぎ込む。そしてライルはオリーブオイルの染みたスモークサーモンを再度口に運ぶ。
「ん! うむこれは。地獄酒よりも鮮烈に味を感じるな」
「ならばそのままワインをもう一口含んで、感想を言いなさい。私の言いたいことがいやでも分かるはずよ」
ライルは言われるがまま、ゴクッとワインを一口飲んだ。
「おお、確かに合うな! このスモークサーモンとやらの味がより鮮明になり、サッパリと油のくどさも掻き消えるようだ」
「そうでしょう? ならばあなたもこれからはワイン党に...」
「ワインが美味いのは分かったが、パンチが足りない。やっぱり俺は地獄酒が好き」
「あああああああ!!これだから味オンチは!!」
ルカは二人の様子を若干冷めた表情で、微笑ましく眺めていた。(要するに、ワイン・焼酎論争だよなーこれ。まあ俺はどっちも好きだから分かるけど)
そこへ、マスターと女将さんが二人がかりで大量の料理を運んできた。
「へいお待ち! おう黒いの三人、料理も一杯あるし後ろのテーブル席いくつか空いてるから、そっちに移ったらどうだ?もう泊まりの予約は入れてもらってるんだし、遠慮はいらねえぜ?」
「いや、ありがとマスター。でもカウンターの方が落ち着くんだ、ここでいいよ」
「そうかい? 無理にとは言わねえが」
目の前にずらりと並べられた食事に、三人は手を付けていく。
「んんー、おいひい!!柔らかい! マスター、この鶏肉ソース変えた??」
「おうよ、よく気づいたな! そいつはヨーグルトに漬け込んで三日三晩寝かして、スパイスで下ごしらえしたあと丁寧に焼いて、うち特製のクリームソースをかけたもんだ。前よりもうまいだろ?」
「最高!!」
両隣を見ると、ミキもライルも無我夢中でほおばっている。食事の美味さと相まって、長旅の疲れが癒やされていく。マスターと女将さんも、3人の影が食事を平らげる様子を見て満足気だった。
二人は空いた皿を片付けるため、厨房に戻って行った。満腹になって一息ついた時、ミキが問いかけてきた。
「それにしてもルカ様、よろしかったのですか? 女将さんに渡した、あの
「まだ予備はある。お裾分けってやつだよ」
「ならよろしいのですが」
ルカが女将さんに渡したのは、遥か南方にあるエリュエンティウ周辺で戦ったドラゴンから手にしたレアアイテムだった。その効果は、【装備者のリジェネレート常時有効及び、呪詛・神聖・精神系魔法の耐性強化】という、正に伝説級と呼ぶに相応しいものだった。
アイテム名は、
「世話になった人には、当然の対価を払うべきだ。俺はいつでもそうしてきた。それはミキお前にも、ライルにも同じだ。そうだろう?」
「...深く感謝致します、ルカ様」
「この御恩、例えこの世が崩壊しようとも忘れませぬ、ルカ様」
その返事を聞いたルカは、カウンターに頬杖を付いて遠くを見つめた。
「...あのさあ」
「何でございましょう、ルカ様」
「如何様にもお申し付けください」
「いや、そういうんじゃないんだけどさ」
「何をお考えか、聞いてもよろしいですか?」
「うん...メシ、美味かったな」
「はい、最高に美味でございました」
「満腹であれど、肉とピラフの絶妙な食感が未だ忘れられませぬ」
「久々じゃない? 三人でこんなにゆっくりできたの」
ルカの目の前には、片付けを終えて戻ってきたマスターと女将さんが、気を使って控えてくれている。それを見て、ルカは小声で魔法を唱えた。
「
その瞬間、背後から来る宿泊客の騒音も含め、周囲からの音が断絶される。ルカ達三人とカウンター前方に向けて限定された空間が形成された。それどころか、この領域は攻性防壁の特性も併せ持つ。外部から探査系統の魔法を使用すれば、その術者は即死判定を受けるという恐るべきフィールドだった。
「ヒントはあったよ、でも確信には至らない、当たり前だけど。南も北も、あと東もか。それは同じだ。でもあいつらは間違いなく何かを隠している。それらを解くために、俺達はこの二年で再度確認を試みた。しかし状況はほとんど変わらなかった。となれば、こちらから積極的攻勢に打って出るしかない」
「...となれば、ルカ様」
「やはり...」
左右に座るミキとライルが、ルカを凝視する。
「ああ、俺達は何を成すべきか。それを考え、着実に行動に移すべきだと思う。二人の考えを聞きたい」
「私は、あなたに着いていきます。そしてあなたをお護りします。この自我は、全てあなたをお護りする為だけに存在しております」
「...右に同じ。死んでもあなたを守る。その為だけに、あなたによって創造された存在」
「...ありがとう。だがな、忘れるな。この命果てるとも、死して尚お前たちを護ると俺も約束する。...聞いてたよなマスター、それに女将さん」
「おう、何だ?」
「ええ、聞いてたよルカちゃん」
「今この場であんた達が聞いていたという記憶を、俺は消す事ができる。世の中には知らない方が幸せな事もある。美味い酒とメシには感謝するが、もし今聞いた事を誰かに漏らしそうだと少しでも思うなら、今のうちに言ってくれ」
そう言われたマスターと女将さんは顔を見合わせて、不敵な笑みを浮かべた。
「おいおい黒いの、何年この黄金の輝き亭をやってると思ってんだい?お客様の嫌がる事なんざ、こちとらただの一度だってした事はねえぜ?」
「そうだよルカちゃん、そんな心配しなくたって誰にも言ったりしないよ。よくは分からないけど、大変な旅だったんだろ? あんた達はここでゆっくり羽を伸ばせばいいのさ」
二人の優しさが、ルカにはとても眩しく見えた。
「...分かった、そうさせてもらうよ。疑って悪かったな」
「いいってことよ!それよりまだ飲んでくかい? 休むんなら部屋の準備はもう出来てるぜ。二人部屋と一人部屋でいいんだよな?」
「ああ、いやもう腹一杯で入んないや。先に部屋で休ませてもらうよ、ミキはどうする?」
「私もこれ以上お酒は入りませぬ故、ご一緒致します」
「ライルはまだ飲み足りねえんじゃねえか?いいぜ、ゆっくり飲んでても」
「はいルカ様、お言葉に甘えましてもう少し飲んでから部屋に入らせていただきます」
「OK、でも明日もあるからほどほどにな。部屋に戻ったら
「了解致しました」
ルカとミキはカウンターの席を立ち、ライルを残して2階客室の階段を登っていった。
その様子を他の宿泊客達が横目で追っていたが、姿が見えなくなると正面に向き直り、何事もなかったかのように会食を続けた。
「あー食った食った!」
アンティークな置物や装飾品が置かれた広い部屋に入るなりそう言うと、ルカは首元に止められたカフスボタンをパチンと外し、フード付きの黒いマントを脱いでベッドの上に放り投げた。しかしその下も更にフードを被っている。
よく見るとそのフードは長袖の上半身ジャケットと一体型になっており、防具の一部である事が見て取れた。ジャケットからパンツ・グローブ・ブーツに至るまで全身黒づくめの禍々しい風貌を持つ、厚手のレザーアーマーだった。
つや消しが施されているのか、その装備は室内の光を一切反射しようとせず、肩や腕・胸部・太腿の両サイドには、黒色のクロームメッキ加工されたような金属が格子上に細かく縫い付けられている。
またロングブーツの脛と爪先の部分には、同じくクローム色をした分厚いプレートが打ち付けられている。一見するとミドルアーマーのようでもあったが、ジャケットもズボンもルカの体にフィットしており、機動性と防御力を両立させたであろうそのデザインは、非常に洗練された無駄の無いフォルムだった。
次に武器とウェストバッグの吊り下げられた腰のレザーベルトを外し、先程脱いだマントの上へ乱暴に放り投げると、2対の武器が折り重なり、(ガチャン)という鈍い音を立てた。黒い金属製の鞘に収められたその武器は、一尺八寸ほどの長めな刀身と刃幅から察するに、ロングダガーと見受けられた。
ルカは小気味よい鼻歌を歌いながらレザーグローブを脱ぎ捨てると、レザージャケットの全面に幾重にも折り重なった、まるで凶悪な拘束具の如きチェストベルトを1つ1つ外していく。
隣のベッド横ではミキもマントを脱いでハンガーにかけ、装備と防具を外しにかかっている。その装備はルカと全く同じデザインをした、禍々しい漆黒のレザーアーマーだった。
ようやく拘束具を外し終えたルカは、一気にジャケットを脱いでまたもベッドに放り投げた。肌着にはこれもまた黒一色のYシャツを着込んでいる。ベッドに腰を下ろし、重厚そうな2足のロングブーツを脱ぐとベッドの脇に並べて再び立ち上がり、ジッパーを下ろしてレザーパンツを脱ぎおろした。
透き通るほど色が白く、引き締まった肢体が露わになり、ルカは長袖のYシャツに裸足、純白のパンツ一丁というあられも無い姿になった。
「あー、ようやっと開放された気分だぜ全く!武装したまま何日も過ごすと肩が凝っていけねえや」
「ルカ様、はしたないですよ!ほら、脱いだ物は全部ハンガーにかける!」
「へーいへい」
ルカは言われるままベッドから装備を手に取り、(パンパン)と汚れを叩きながらベッド脇にあるハンガーへかけていった。そしてベッドの上ががら空きになると、ルカはその上目掛けてダイブした。
「どーーーーん!!」
「ルカ様!もう...」
ベッド上でゴロゴロと回転する様子を見て、ジャケットのみを脱いだミキは困った顔でため息をついた。ミキは白色のTシャツを肌着に着ている。
「あー、あったけ〜。フカフカ〜気持ちいい」
「お気持ちは分かりますが、そのまま寝てはだめですよ。まずは先にお風呂!お湯に浸かって体を洗い流してからお休みください。いいですね? 部屋に備え付けのバスタブがありますから」
「ん〜、おーふーろー。...風呂?!」
それを聞いてハッとしたようにルカは飛び起きた。
ミキが呆れた顔で微笑を返している。
「ミキ、先にひとっ風呂浴びていいか?そういや3日くらい風呂入ってなかったし」
「ええ、もちろんですとも。疲れが取れますよ」
そう言うが早し、ルカは部屋の右奥にある脱衣所へ飛び込んでいった。
脱衣所の右手には化粧台があり、大きな姿見が設置されていた。その前で上着とパンツを脱ぎ捨て、籠の中へと放り込む。しかしその姿見の中に映ったのは全裸ではなく、これ以上ないほどキツく締められ、胸を押しつぶすための晒しを巻いたルカの姿だった。
複雑な面持ちでルカは鏡を見つめ、自分の胸に手を当てる。やがて首を横に振り、諦めたように背中へ手を回して晒しの結び目を解いた。
両手を使いグルグルとほどいていくと、キツく締められていた晒しが緩まり、スルリと一気に解け落ちる。
姿見に映ったのは、正真正銘女性だった。均整の取れた形の良い乳房を、引き締まった上半身と腰のくびれがより一層強調させ、足の細さと相まって美しく、しかし力強いプロポーションを投影していた。
ただ一つ、きつく巻きすぎた晒しのせいで右胸に一筋の痣が出来ている。ルカはその痣を指でそっとなぞった。次いで自分の顔を見る。肩にかからない程度まで伸びた、ざっくばらんなストレートの黒髪を目の前からどけて、自分の右頬を撫でる。
血のように赤く光る大きな目、小顔ながらスラリとした鋭角な鼻と顎、薄い唇、透き通るように青白い肌、そして両目の下に刻まれた幾何学な模様の赤いタトゥー。その整った顔は悪魔的に美しく、しかしまるで血の涙を流しているようにも見えた。
ルカは無意識に右手で胸を隠し、姿見から目を反らした。その目には、戸惑いの色が強く浮かび上がる。
そのまま何かを振り切るように浴室の扉を開けた。
中からの温かい湯気がルカの体を包む。
木で組まれた広いバスタブの縁に置いてある桶を手に取り、浴槽からお湯を汲んで勢いよく頭から被った。
もう一度お湯を汲み、今度は立ち上がって全身をゆっくりと流していく。
そしてバスタブの縁に桶を戻し、浴槽を跨いで片足を付けた。少し熱いが、じんわりと温かさが骨身に染みるようだった。そのままもう片方の足も入れて、浴槽に体を沈めていく。肩まで浸かると足を伸ばし、天井を仰いでゆっくりと深呼吸した。
「ふぅー...何だかなあ。風呂は好きなのに、入る度にいつもこれだよ」
誰に言うでもなくルカは独りごちて、目をつぶった。
浴槽の周囲から、僅かだが魔力の流れを感じ取った。
(...
そう心の中で呟いたルカは目を閉じたまま、湯気に包まれて頭の中が真っ白になっていくのを感じていた。
同時に睡魔も襲ってきて、意識の底へ落ちかけようとしていた時、ルカはハッと我に帰り目を見開いて、咄嗟に上半身を起こした。
「ってうおおおおい!!!ちょっと気を許すとこれだよくっそ!マジかよこれ...何だか日に日に...」
そこへ(コンコン)と、浴室と脱衣所を挟むドアからノックが響いた。
「ルカ様、よろしければ背中をお流し致します。ご一緒してもよろしいですか?」
ミキの声だった。ルカは取り乱した心を平静に保つべく胸に手を当て、ひと呼吸置いて返事を返した。
「あ、ああ、いいよー。入っといで」
「失礼致します」
扉が開くと、バスタオル一枚で前を隠したミキが静かに入ってきた。背中まで伸ばした艷やかな黒髪が顔にかかっている。その間から切れ長な赤い目が怪しく光っており、目の下にはルカと同じような紫色のタトゥーが刻まれている。体は引き締まっているがルカよりも豊満なバストを持ち、スラリと伸びた長い足はより一層魅力的なボディラインを強調していた。
バスタブに浸かりグッタリしているルカを見下ろして微笑を向け、桶を手に取ってお湯を2回、3回と流すと、タオルを畳みバスタブの縁に引っ掛けて、浴槽の中へと入ってきた。
「よろしいですか?」
「もちろん。このバスタブ広いから二人でも余裕だよ」
ルカは足を引っ込めて、ミキの足場を作る。
そこへゆっくりと足を付け、ミキも浴槽内へ体を沈めた。お互いに向かい合い、重ならないようにして二人共足を伸ばした。
「やはり湯船に浸かるのは良いものですね...体の芯から疲れが抜けていくようです」
「そうだな。他の街の宿屋じゃあ、シャワーだけだったり共同浴場だったりで、こうはいかなかったからな」
「この湯船にしても、魔法で温度を一定に保つよう工夫がされているようですし、さすがはエ・ランテル最高級の宿屋。細やかな気遣いですわ。ルカ様が気に入られるのも頷けます」
「メシも酒も美味いし部屋もきれいだし、文句のつけようがないってもんよ」
そう言って位置を取り直すため、ルカが上半身を起こした時だった。
「ル、ルカ様!!」
「わっ!!ちょ、どうしたミキ?!」
ミキは体を跳ね上げるようにして、ルカの胸元に飛び込んできた。背中まで伸びたミキの長い黒髪が覆いかぶさり、体を密着させてくる。
「ルカ様、この傷は一体?!」
そういうとミキは、ルカの右胸上部にある紫色に変色した箇所を指でなぞった。
あまりに急だったのでルカはドギマギしてしまったが、ミキが心配そうに撫でている箇所へ目を下ろすと、少し落ち着きを取り戻した。
「あ、ああこれね? ただの痣だから大丈夫だって。ほら、俺胸に晒し巻いてるじゃん?あれがキツ過ぎたみたいでさ、ハハ...」
「何とおいたわしやルカ様...今治して差し上げます。
ミキがルカの右胸に手を当てて唱えると、ルカの体全体が眩い光に包まれ、スウッと痣が消えていった。
「あ、ありがとうミキ。でもこんな痣程度、何もブーストしなくても...」
「いいえルカ様、他に何か手傷があったらどうするおつもりですか!私の大事な主人に傷が付くような事は許されません。念には念をでございます」
「そうか、わかったよ悪かった...」
「それでルカ様、他に痛む箇所はございませんか?見せてくださいまし!」
「ちょっちょおー!そんなとこに傷なんてないうはははは!!くすぐったいってミキいいい!いやーー!」
浴室にルカの絶叫が木霊した。ミキに上からのしかかられ、背中から脇の下、腰、臀部、太腿から脛、足の裏まで根掘り葉掘り調べつくされたルカは、湯船に浮いてグッタリしていた。
「結構です。どこも異常はないようですね、安心しました」
「はぁ、はぁ...勘弁してくれよもう」
「何を恥ずかしがっているのです? 私達は女同士。隠すものもございませんでしょうに」
「そりゃそうだけど、前から言ってるが俺は...」
「承知しております」
「う...うん」
ミキは毅然とした態度でそう言うと、再びルカと向かい合うように位置を直し、バスタブの背に寄りかかった。
「ルカ様、この世界へ我々が転移した直後、あなた様はずっと悩んでおられましたね。この世界の事、魔法の事、そして...その体の事も」
「...あの時はその、あまりの変化に気が動転していて...」
「あれから悠久の時を我らは共に過ごしてまいりました。その間、ルカ様は私に何度もご相談してくださいましたね? 先程私が浴室に入る前、何やら慌てていた様子。それはひょっとすると...」
ミキはルカの顔をじっと見つめた。これは嘘をつけそうもないと観念したルカは、正直に答えた。
「...ああ。多分ミキの想像通り、だよ」
そう言うとルカは頬を赤らめ、(チャプン)と湯船の中に顔を突っ込んだ。
「ルカ様......いいえ、ルカ・ブレイズ!!」
ミキは途端に険しい表情になり、主の名を呼び捨てにした。体を寄せて、湯面に顔を付けるルカの頭を両手で掴み、無理矢理に上へと持ち上げた。
「いいですかルカ。私の前で恥じることなど何もないのです。あなたは私のみならずライルにも、事情を全て打ち明けて下さいました。何よりこの世界に来る前から、現在も、私達に取ってルカ様はルカ様以外の何者でもないのです。それをどうかお忘れなきよう」
それを聞いてルカは呆気に取られていた。目の前には自分を見据えるミキの美しい顔がある。心に一筋の光が射したようだった。ふと気が付くと、ルカの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「ミキ、お...あ....あたし...は、もう...これ以上...抗い...切れない...」
今まで必死に抑え込み、耐え抜いてきたルカの堰がついに切れた。小刻みに震え、まるで救いを乞うような目でミキを見つめ、涙を流し続けた。
そのあまりにも悲痛な様子を見かねて、ミキはルカの顔を自分の胸元へ手繰り寄せて優しく抱き締めた。
「ルカ様。ああ、ルカ様...。私がこの世でただ一人主人と認める、愛しいお方....。何も心配は入りません。長い間ずっと、一人で戦っておられたのですね。ですが私達は、何が起ころうとあなた様の全てを受け入れます。そしてこれからもずっと一緒です。ですからどうか、胸を張ってくださいませ」
ミキの柔らかい胸に顔を埋めながらルカは無言で頷く。もっと温もりが欲しいと思ったルカは、ミキの背中に手を回すと更に強く抱き締め、声にならない嗚咽を上げながら泣き続けた。
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■魔法解説
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