妖魔蟲

 胸にどす黒いものが広がる。

 目の前に踊る男女の目に、間違いなく映る思慕の念。

 女は、誰のものにもなれぬと言ったのではなかったか。

 ザルクは、きらびやかな光の中、見つめ合う男女を凝視する。

 冷静な自分が、『これは茶番だ』と言っている。

 クアーナ公女に対する噂は、確かに酷いものだった。イリスが否定しなかったために、尾ひれがついて、大侵攻で痛めつけられたクアーナ公国の民そのものを貶めるようなものにもなっている。

 皇帝としては、クアーナ公国の領民を敵にするのは得策ではないし、封魔士というなくてはならない人材を守ると言う意味で、イリスを表舞台に引きずり出したのであろう。

 しかし……この周囲の祝福ムードが現実になることはあり得ないと、ザルクは知っている。

 もし、ゼクスが本気で皇太子妃としてイリスを迎えるつもりなのであれば、こんな回りくどいことはせず、いきなり婚約を発表するくらいの大胆さを見せるに違いない。

 そうしないのは、イリスはまだ『誰のものにもなれない』女なのだ。

 ゼクスがイリスの白い手に唇をおとす。

 ザルクは、口の中に血の味が広がるのを感じた。

 頭がズキズキと痛み始める。

 頬を染めたイリスの瞳に、ゼクスが映っている。思慕の念が透けて見える。

 ザルクは、昏い怒りに身体に満ちてくるのを感じた。

――イケナイ。

 ザルクの中で、何かが警告する。

 ザルクは、二人から目をそらし、会場を離れて中庭に出た。

 王宮の中庭は、ランプがあちこちに灯されている。咲き誇る花の香りが漂い、静かに風が吹いていた。 ところどころ、鏡石が庭石にはめこめられていて、ランプの光を反射しているため、足元は薄ぼんやりと照らされている。

 暗闇の中で背を伸ばし、誰の手もとらないといったイリス。しかし、本当は誰かの手を欲していることは、ザルクにもわかっていた。背を向けたのは自分。だから、彼女の心に、自分以外の男が住んでいることを責める権利がない事もわかっている。そもそも、ザルクとイリスは、婚約した期間があったわけでもなく、ただ『縁談』があっただけにすぎない仲だ。イリスが誰に心惹かれようと、ザルクに咎める権利はない。

 わかっている。わかっているのに。

 ずぶずぶとどす黒い何かが、ザルクの中を満たしていく。


『イリスは、お前のものだ』


 耳元で、何かが囁く。

 額が割れそうだ。

「ザルク! おい、どこだ!」

 ヒステリックなスワインの声が聞こえてきた。

 今回のパーティは、父の思惑とは全く違うものになって、さぞや不満であろう。

 頭痛がさらにひどくなる。

 スワインはどうやら、ザルクを見つけたらしく靴音を立てながらやってきた。

 見合いの話か。それとも、かつての『縁談』でイリスをモノにしなかったザルクへの恨みごとか。

 どちらにしろ、陰鬱な話だ。

 ザルクは痛む頭を押さえながら振り返る。

「お前はいったいこんなところで何をやっている?」

 不機嫌を絵にかいたようにスワインが口を開く。

「……頭が痛いのです。しばらく、一人にさせてもらえませんか?」

「サリーナ殿がお待ちだ。ご婦人を待たせるな」

 ザルクの言葉は聞き入れられず、いらいらと言葉を紡ぐ。

『壊してやろうか?』

 頭の中に、何かが囁く。

――壊す?

 それは、とても甘美な痺れをザルクにもたらした。

「おい、行くぞ、早くしろ」

 頭を抱えたままのザルクの身を案じることもしない父。

 いつだって、この男は、身勝手だ。今回の縁談だって、ザルクの幸せどころか、領民のためですらない。

 ひたすら、自身が権力へと近づくための布石なのだ。

 しかし、皇太子妃に『オリビア』が選ばれなければ、全てが霧散するだろう。

 くっくっくっと、ザルクは笑いがこみあげてきた。

 ゼクスがイリスにとらわれているのは、誰が見ても明らかだ。

 何もかもが滑稽だった。権力に固執するスワイン、その父にいいように利用されるだけの自分の人生も。

「屋敷に帰ります。あとはよろしいように」

「ザルク!」

 スワインの顔が怒気にそまり、立ち去ろうとするザルクの腕をつかんだ。

「離せ」

 ザルクの目が赤く光った。そして、腕を大きく振り、スワインを投げ飛ばした。

 ギャアっ

 スワインは悲鳴を上げた。ボキボキと、スワインの身体がのしかかった庭木が折れる音がしたが、ザルクは冷ややかな目で、それを見下ろす。

「アンタには、うんざりした。サヨナラ、父上」

 そして、ザルクはそのまま背を向けた。

 スワインの倒れた近くの庭石にはめ込まれた鏡石から、昏い闇が染み出るように滴り始める。

「待て! ザルク!」

 必死で呼ぶも、ザルクにその声はもはや届かなかった。

 じわじわと足元に瘴気が広がってくる。スワインの足にべとべととした何かがからまる。

 ひっ

 染み出た闇から、大きな影が姿を現した。

「助けてくれーーっ!」

 スワインは、恥も外聞も失い、大声で泣き叫んだ。



 ぞわり。

 賑やかなパーティ会場で、突然、イリスは背筋の毛が逆立つのを感じた。

 頬の傷が、キリキリと痛みはじめる。

 浮き立っていた心が一瞬で冷えて、イリスはぐるりと会場を見まわした。

「穴が」

 イリスは頬に手を当てながら叫び、庭園のほうへと走った。

 何事かと驚く人々をかき分け、テラスへとたどり着く。

「なっ」

 肩で息をしながら、イリスは目の前の光景に驚愕する。

「妖魔蟲」

 灯りに照らし出される黒い影は、シューシューと音を立てながら小山のように大きくなっていく。

「うわぁぁ」

 庭の中ほどの方から絶叫が聞こえてきた。

「下がっていろ、イリス!」

 イリスを追ってきたゼクスはそう言って、抜刀しながら庭園の方へと飛び出していった。

「光よ!」

 イリスは、空中に向かって叫ぶ。

「天に輝く、蒼き光よ――輝け!」

 イリスの伸ばした手の先に、青白い光球が放たれた。庭園が真昼のように明るくなる。

「イリス様っ!」

 警備をしていた封魔隊のレキナールが走り寄ってきた。あちらこちらで、絶叫がおこる。

「戦えないひとを中へ! 私はゼクス様の援護にいきます!」

 イリスは叫び、ドレスのまま庭へと飛び出す。

 庭の中ほどに、大きな芋虫のような妖魔蟲が口から黒い触手をのばして、何かを音を立てて食っている。

「くそっ」

 未だ開いている穴から、拳ほどの大きさの黒い羽虫が何匹も噴き出してきて、ゼクスの行く手を阻んでいた。

 剣で叩き落とすように払っても払っても、そいつらは次々に噴き出してくる。

「異界の門よ、閉じよ!」

 イリスの呪文に、穴が縮小をはじめた。

「炎よ!」

 イリスの背を追うようにして走ってきた、レキナールの朗々とした声が響き渡る。

「天より使われし、蒼き炎よ」

 一度は叩き落された羽虫が、耳障りな音を立てながらゼクスへと向かう。ゼクスは、剣でそれを払いながら、妖魔蟲へと接近した。べったりとした粘液に濡れた触手が、ゼクスへとのびる。

「闇より出でし彼奴らを焼き払え!」

 レキナールの呪文が完成し、あたりに火柱が立ち上った。焦げ臭い、異臭が辺りに漂う。

 ゼクスが触手を断ち切ると、そいつは、唾液とともに食っていたものをゼクスに向けて吐き出した。

 どさっ!

 ゼクスが紙一重でよけると、大きな重みのある何かが地面に落ちて、じゅっと唾液が地面を焼く。

「銀の糸よ!」

 イリスは、丁寧に結い上げられた髪から、無造作に自分の髪を引き抜いた。

「彼奴を捕縛せよ!」

 イリスの銀の髪がはらりと炎に巻かれている妖魔蟲の上におち、銀の光が妖魔蟲を縛り上げていく。

「わが身に流れし聖なる血よ」

 ゼクスの声が静かに響く。

「闇より出でし、彼奴等を骸とせん」

 ゼクスは、大きく飛んで、妖魔蟲の背に剣を突き立てる。

 ぎゃあああああ

 妖魔蟲の絶叫が庭園に響き渡り、激しい音を立てて体液が噴き出した。

 やがて。強烈な悪臭を漂わせながら、妖魔蟲は動かなくなり、イリスの灯した光も消え、夜の闇が戻ってくる。

 辺りは、シンと静かになった。

「ゼクス様!」

「レキナール、手を貸せ」

 ゼクスとレキナールは、触手が絡みついていたモノから、触手を丁寧にはがした。

 それは、着飾った男性のようだった。

 べっとりとした粘液にまみれ、あちこち毒液に焼かれて、変な方角に曲がった手足の一部が欠損していた。

「ウエルデン公爵ですね」

 レキナールが眉間にしわを寄せながら呟いた。

「ダメだ……死んでいる」

 あまりといえばあまりの惨状に、イリスは目をそむける。

「鏡石だ」

 ゼクスは足元で反射している庭石に目を落としながら呟く。

「イリス、魔人を感じるか?」

 ゼクスの問いに、イリスは「いえ」と答える。『見られている』ような感覚はなかった。

「しかし、封印石でもないのに」

「私のせいだわ」

 イリスが小さく呟く。

「イリス」

「……私が帝都に来たから」

 イリスの頬に涙が伝う。

 二人の男は、それを慰めることも、否定もできずに……ただ、見つめるだけだった。

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