つなげない手
歴代の皇族の婚儀の誓約書をたどると、アレンティアの名にたどり着いた。
よく見れば、夫の名の記述がない。しかも『在任中の愛』を誓うという一風変わった文言になっている。ゼクスは、眉をしかめた。
「イリス、これを見てくれ」
ゼクスはあらかじめ自分が用意していた帳面を開いて見せた。
歴代皇帝の任期と享年を記したものだ。
「あら」
イリスはびっくりしたように、アレンティアの記述を読んだ。
「これを見ると、女帝アレンティアは、建国後、たった二年で亡くなっているのね」
「ああ。次に帝位についたのは イケルナル。こっちは、長い。その次はザネイン。イケルナルの嫡子とある。だが、今、見てみたところ、イケルナルの婚儀の誓約書はない。しかも、皇妃について、その出自のかかれた書類等は公式にはいっさい残っていない」
「皇妃が誰かわからない? でもザネイン帝の母親ですよね?」
イリスは椅子をゼクスに寄せて座る。無意識にゼクスの手元をのぞきこむせいで、身体が触れるほどに近い。
ふわりとかおるイリスの香りに、ゼクスは軽く酔いそうになる。
「それに。アレンティアがそんなに早くに崩御したなんて、聞いたことはなかったですわ」
「そう。実は前から俺も疑問に思っていて……」
ゼクスは、少しだけ意識してイリスから身体を離した。
「公式の儀礼や催事などの書類を見る限り、ザネイン帝が即位して二年後に、イケルナル帝とその皇妃の合葬が行われたが、アレンティア帝の葬儀は行われていない」
「え? それは?」
イリスは意味がわからないと言った顔で、ゼクスを見上げる。
「たぶん……アレンティアの夫は、イケルナル帝なのではないだろうか。ようするに、アレンティアは、夫と帝位を交代した」
「そうだとしたら、なぜ、死んだことに?」
ゼクスはイリスの頬に手を伸ばす。
「これは推測だが。アレンティアは魔傷痕もちだ。実際、帝位についた時、魔人は倒していたのかもしれんが、死後、自分の『魂』を誰とも結びつけたくなかったのではないだろうか」
「でも、こんな書類だけで、どうこうなるものでは」
イリスは否定的に呟く。
「アルカイドが言っていた。『封印石についてアレンティアに教えた』と。つまり、天人の影である彼は、アレンティアと接触し、知恵を授けた」
あの時、アルカイドは、『天人も魔人も人の魂と交わり、生まれ直す』と言っていた。そして、イリスに対して『我のものになるならば、魔人から救う』とも言った。
「アレンティアは、自らの魂を『天人』に与える約束をしたのかもしれない」
ゼクスは天馬にまたがって青空へと消えた、アルカイドの姿を思い出す。
「天人は、魔人とは違う。周囲の人間を巻き込みはしないだろう。しかし、アレンティアは、万が一を考えて、書類上のつながりを断ち、おそらく名を変えて、夫に寄り添って生きたのではないだろうか」
ゼクスの言葉に、イリスは大きくため息をついた。
「アルカイドは、私と約束はしてくれませんでしたね」
ゼクスは、ゆっくりとイリスの頬の傷を指で触れる。
「人生を謳歌せよと、言っていた」
イリスは困ったように顔をしかめた。
「謳歌、と言われましても」
「イリスは、人生を諦めすぎている。君は、もっと望むべきだ」
ゼクスは指でゆっくりとイリスの唇に触れる。柔らかな感触とともに、小刻みな震えが伝わってきた。
「俺は……君を守りたい」
イリスの目が大きく見開かれ、同時に、はっとしたように椅子を飛びのいて、ゼクスに背を向けた。彼女は肩を震わせながら自分の頬をパチンと両手で叩いた。
「封印石の資料を捜しましょう」
大きく息を吸い込んで、イリスはそう呟き、書棚へと手を伸ばす。
「イリス」
「来ないでください」
思わず立ち上がったゼクスを、イリスは背を向けたまま制した。
「お願いです。ゼクス様に甘えるわけには参りません」
震える声で、しかし、はっきりとイリスは拒絶する。
「私のことを思って下さるのなら……どうか、ご自身を大切になさって」
ゼクスは、立ち尽くす。
彼女は常に孤独で。本当は誰かの手を求めている。ただ、それ以上に、そのことが誰かを不幸にするのではないかと怯えているのだ。
「イリス……」
本音を言えば、先のことなど、どうでも良いのだ。今、彼女に寄り添い、彼女の孤独を癒せるのであれば、将来の不幸など、今の彼女の不幸を見つめることにくらべればどうということはない。
自分が皇太子でなければ、と、ゼクスは思う。
「ゼクス様」
イリスがゆっくりと振り返った。
「私は、不幸ではありませんから」
何かを悟ったような淡い彼女の微笑みに、ゼクスの胸がキリリと痛んだ。
クアーナの公女がパーティに出席するという噂は、あっという間に帝都中に広がったらしい。
クアーナ公国の屋敷の前には、物見遊山な庶民が輪を作っている。
宮廷に出るときは、馬車で出かけたイリスであったが、それがかえって、ひとびとの好奇心をあおったことに気が付いていた。
「イリス様っ、さすがに、こんなに野次馬が多い中、おひとりでお出かけになるのはっ」
ジギルがカツカツと馬小屋へと歩いていくイリスの後を追いながら叫ぶ。
「あら、でも、みんな他に仕事があるでしょう? この公邸に余剰人員はいないのだから」
大侵攻で資金繰りが苦しかったため、公国としての『体裁』を整える以上のことは、本国はもちろん公邸もしていない。最近は、多少、余裕が生まれたとはいえ、他の公国に比べたら、ひとりひとりの仕事の負担は大きいはずである。
「そとの見物の人は、『醜き公女』を見たいだけよ。なら、見せてあげたら、満足して帰るわ」
イリスは面白そうに笑って、封魔士の制服をまとって、馬にまたがった。
「門を開けて、ジギル。魔術院に出かける時間よ」
イリスが、言い出したら退かないことを知っているジギルは大きくため息をつき、門番に門を開けるように告げに行った。
「どういうことだ?」
スワインは、不機嫌に眉を寄せた。
執務室の椅子にどっかりと腰を下ろしたスワインは、大使が持ってきた手紙の束を机の上に叩きつける。
ザルクは秘書用に置かれている小さな机に向かい、雑務を整理しながら、大使に同情を感じていた。
大使は、居心地が悪そうに口を開く。
「ですから、クアーナ公女も、帰還祝いのパーティに出席するということが原因なのではないかと」
スワインが招いた夕食会を辞退するという知らせが相次いでいる。
それは、大使の責任ではない。
「なぜ、クアーナの公女が出席すると、わしと食事が出来ないのだ?」
いらいらと、スワインはテーブルの端を指で叩く。
意味がわからないわけはあるまいに、と、ザルクは、そんな父をぼんやりと眺める。
「クアーナ公女は、先の大侵攻の英雄です。年齢も二十才。もともと大侵攻後は、皇太子妃の筆頭の呼び声も高かった女性です」
大使の言葉に、ザルクは、父がザルクとイリスの縁談を押した理由が自分の推測通りであったことを悟り、今さらながらにうんざりとした。
「クアーナ公女は顔に傷があって醜いとの理由で、忌避されておりましたが、封魔の実力は折り紙付き。しかも、ラキサス公とともにクアーナの内政を五年の間に立て直した手腕も評価され、高官たちのなかには、彼女を皇太子妃に推そうというものも多いのではないかと」
「何だと?」
スワインの怒りをなだめるかのように、「もちろん、高官のほとんどはオリビアさまこそが皇太子妃に相応しいとお考えだとは思います」と、慌てて大使は言い添えた。
「皇太子妃は、飾りじゃないと考えるなら、美醜は問題じゃない」
ザルクはぼそりと呟きながら、イリスの姿を思い出す。
傷があっても、イリスは美しかった。傷を恥じることなく、背を伸ばした彼女の生きざまは、さらに、美しい。身内のひいき目で見ても、皇太子妃に相応しいのは、オリビアよりイリスの方だ。『魔人』に魅入られてさえいなければ、の話ではあるが。
「もっとも、クアーナ公女は絶対に皇太子妃にはならない。なれるものならば、大侵攻のあと、すぐにでも婚約したはずだ」
ザルクはそう言って、立ち上がる。
「おい、ザルク」
スワインが何かを問いたそうな目で、ザルクを見たが、ザルクは何も答えずに、部屋を後にする。イリスの秘密をスワインが知れば、どうするか、簡単に想像がつく。
ザルクは、中庭に出て、空を仰ぐ。
『手に入ると言ったら?』
何者かの声が脳裏に響く。
『イリスは、お前の女だ』
――やめろ。
ザルクは頭を振る。鳴り響く甘美な誘惑を拒絶しながら、ザルクは自身の胸の奥にあるイリスへの想いを自覚する。そして、それは拒絶すれば拒絶するほど、大きく育っていくようだ。
――やめてくれ。
ザルクは大きくため息をつく。自分が自分でなくなるような、そんな感覚──そして、それは間違いなく破滅への道だと、ザルクは知っている。
しかし、閉じれば閉じるほど、それは大きくなっていくのであった。
「つまり、封印石というのは、魔を封じるというよりは、魔の侵攻を遅らせるというような意味合いでしかない」
ゼクスは会議に集まった面々を見まわしながら、そう告げた。
集まっているのは、今、帝都にいる封魔防衛の一線にたつ人間ばかりである。
イリスは緊張しながら周りを見まわす。自分がどうしてここにいるのか、不思議と思われないだろうかと、心配になる。
「実際に、魔を完全に封じようというのであれば、やはりラザナルの守りしかない」
「鏡石の封印石は無意味ということでしょうか?」
イリスとも親交のある、ルゼ将軍が手を上げた。
「鏡石は、おそらくは、人界の『生気』を送る機能に優れていると推定されます。平時であれば、有効なのではないかと思われます」
レキナールがゼクスの代わりに口を開いた。レキナールは丁寧に、天界と魔界、そして人界の関係を解説する。
「俺たちが得た調査の結論を言えば、魔の侵攻を遅らせるには、封印石は有効だ。奴らは『生気』を集めるためにやってくる。定期的に魔界に『生気』を送ってやれば、侵攻の回数は減る……しかし、それでも魔人は時折、こちらに渡ってくるであろう。それは、奴らが、我ら人の魂を使って『生まれ直す』からだ」
ゼクスは、まわりをみまわしながら、そう言った。
一瞬、目が合ったように思えて、イリスは慌てて視線を外す。
あの時。『守りたい』と言われて……浮き立つような気持を味わった。
同時に、その言葉の意味がゼクスの将来に影を落とすことにしかなりえない現実に、背筋が冷えた。絶対に、その手を取ってはならない相手だとイリスは自分に言い聞かせ……それでも、育っていく気持ちが止められない。
「それを止める手段は、たぶんない。だから、いざというとき被害を最小限にする方法を考えていくしかない」
「消極的ですな」
神経質そうな魔術院主席であるグラゾビという男が眉をしかめている。
「積極的な方法を答えろと言うなら、術の強化、封魔士の育成しかあるまい」
ゼクスは大きく息を吐いた。
「我が国は、封印石の強化研究を第一としてきた。それは間違ってはいない。しかし、他国に比べて、魔術の実践研究が遅れ気味なのも事実だ」
グラゾビが、ムッとしたように顔をしかめている。
「魔術院を責めるつもりはない。国策だったのだし、我が国の封印石の技術は他国の追従を許さぬものだ」
「……しかし、具体的には、どうなさるおつもりで?」
ルゼが口をはさんだ。
「結論的には、陛下の意見を仰ぐことになるが、俺としては、各地に、ラザナルの守りを施した避難所を作ることが、現実的だと思う」
「避難所ですか?」
ゼクスは、ルゼに頷いた。
「大侵攻があったとしても、帝国全土が一度に襲われることは考えにくい。ならば、民人がしのげる程度の避難所があれば、援軍が来るまで、封魔士としても防戦しやすいのではないだろうか」
「援軍……」
イリスがぽつりと呟く。
大侵攻のとき。クアーナに援軍がやってきたのは、魔人レザルが去った後であった。
援軍が遅かったわけではない。魔の進軍が早かったのだ。
「侵攻が防げない以上、それを上回る戦力が必要だ。だが、それを常に、各地に配備するのは不可能だ……」
ゼクスは言いながら息を吐く。
「大切なのは、魔の侵攻から、援軍が来るまでの時間の短縮と、その間の防衛力強化だな……その辺りをどうするべきか、各自、意見を聞きたい」
「魔術院としては、まず、ラザナルあたりに留学生を送るべきと意見させてもらいましょう」
グラゾビの言葉に、ゼクスは頷いている。
イリスは、手元にある書類に目を落とす。
『魔を止める手段はない』
その言葉は、これから先も、魔人の花嫁がどこかで選ばれるということだ。
――こんな思いをするのは、私だけでいいのに。
イリスは自らの頬にそっと手を当て傷の感触を確かめる。
『魔人にあらがいたければ、人生を楽しむがよい』
無茶な話だ、とイリスは唇を噛んだ。自らと係るひとを不幸にする生をどうやって楽しめと言うのだろう。
とはいえ。安易な死を選ぶことは、さらなる侵攻を生む。
孤独に生きるしかすべはないのだ。
ゼクスの顔を盗み見るように見ながら、イリスは小さくため息をついた。
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