第二章 古き縁

旅立ち

「それで、ゼクス皇太子は、まだ帝都に戻っていないのか?」

 いらいらしたように、スワイン・ウェルデン公は、葉巻を灰皿にこすりつけた。執務室に置かれた机の上には、未処理の書類が束となっておかれており、スワイン自身は目を通す気は全くないようだ。

 ザルクは、内政にあまりにも無関心な父にうんざりとしながら、収支報告の数字の羅列を眺めていた。

「はい。帝都への街道から外れて、森に入っていかれたようで」

 白い頭をひたすらに下げながら、大臣のヴァークは報告する。

「確認はしておりませんが、おそらく、クアーナ公国に行かれたのではないでしょうか?」

 その言葉で、さらにスワインは不機嫌になる。

「ゼクス殿下は封印石をお調べだとおっしゃっていましたから、各公国を巡っておられるのでは……?」

 ヴァークの話に、スワインは訳が分からぬという顔をした。

「封印石なんぞ見てないで、さっさとオリビアを后に迎えればいいものを」

 ゼクスの后の最有力候補は、スワインの娘、オリビア公女であることは、周知の事実である。しかし、四つの公国のうち、ウェルデンを除く二つにも適齢期になる公女は存在し、帝都にいる皇族であるゼクスの従妹たちも后候補に名を連ねている。誰が見てもオリビアが一番美しいのは間違いないが、問題は、現在、ゼクスが誰にも興味を示していないことだ。

 武術修行をしたり、封魔の技を磨くためと称し、自ら封魔の現場に出向いたりと、いっこうに帝都に戻らない。しかも、皇帝がそれを容認しているから、始末におえない。

 帝都にいないことには、オリビアに色仕掛けをさせることもできないのだ。

 わざわざゼクス自らウェルデン公国にやってきたときには、ついにオリビア公女を迎え入れたいという申し出かと、スワインは色めき立った。

 しかしゼクスは、スワインの話をはぐらかし続け、封印石を見てあっという間に立ち去ってしまった。

「まさか、あの傷モノの公女に会いに行ったのではあるまいな」

 思い出したように、スワインは大声を出す。

「父上」

 ザルクは静かにたしなめた。

「クアーナ公は、ゼクス皇太子と仲が良いと聞きます。立ち寄っても不思議はないのでは?」

 ザルクの言葉に、スワインは顔を真っ赤にした。

「ラキサスの奴。まさか、お前を断っておきながら、皇太子に公女を売りつける気か!」

 父の単純思考の暴走に、ザルクはうんざりした。

「イリス公女の顔には、大きな傷があります。そして、何より彼女自身が魔物に取りつかれたように、封魔の現場に出入りしているとか。ゼクス皇太子がどんな意図でクアーナに行ったかはわかりませんが、そんな女性に心惹かれるとも思えません」

 言いながら、ザルクはクアーナ公国を訪れた日を思い出す。まだ、幼さの残る十六歳のイリスの左頬に、大きな傷が生々しかった。他の部分が美しいだけに、ザルクは彼女を正視することが出来なかった。その時点で、迷いがあったのは否定できない。

 しかし、傷だけを理由に、婚約破棄はしないとイリスに伝えた。父スワインの意向や、男として懐の深さを見せたいという意地もあったが、度重なる不幸にも下を向かぬ彼女自身の健気さに、心惹かれていたのも事実だ。

 断り切れぬと悟ったイリスは、封印石の間へ彼を連れて行った。その時見たものを、ザルクは父に話していない。話せばスワインは喜んでイリスとラキサスを失脚させ、クアーナ公国の乗っ取りを企てるに違いない。

 父に告げないと決めたのは、封印石で見た魔人の姿への恐怖と、イリスへの未練。そして、強欲な父への反発だった。

 父がイリスと自分を結び付けようとした裏には、大侵攻の英雄であるイリスは高い名声を得ていたからだ。さらに、顔に傷があるにもかかわらず嫁に迎え入れれば、ウェルデン公国は度量の深さを帝国中に示すことができる。

「イリス公女は、誰にも嫁(とつ)がない。嫁げるはずはない」

 ザルクは呟く。呟きながら、人好きのする顔をした皇太子の姿を思い浮かべ、心の奥底にふつふつと疑念が湧き上がるのを感じていた。



 エリアリナ公国はクアーナ公国領より北東にあり、帝都アリルからは真東にあたる。クアーナからエリアリナに行くには、深い谷を流れるレイナス川を船で下るか、山道である街道を辿る。川の水量が安定して穏やかな気候が続く今の時期は、船旅が快適である。キラキラした水面を滑るように、舟が進んでいく。乗っているのは、封魔士の格好をした男女四人。櫓を漕ぐ女性一人だけが、険しい顔をしていた。

 暖かい日差しの下、ややひんやりとした風が頬を撫でていく。

「エリアリナ公国が見えてきました」

 舟をこぎながら、女性の声の指し示す方角に、険しかった谷が開けはじめ、大きな街が見えてきた。

「姫様、本当に大丈夫なのですか?」

 櫓をこぎながらも、心配げに女封魔士は、イリスの顔を見る。

「大丈夫よ。エル。心配しないで」

 イリスは、微笑んだ。碧い瞳に迷いは見えない。

 この旅に先立って、イリスは銀の髪を暗い焦げ茶色に染めた。公女としてではなく、封魔士としてゼクスと行くという決意の静かな表明だ。髪の色を染めるという、ただそれだけの行為に込められた、イリスの心を思うと、ゼクスは胸が苦しくなる。

「ゼクス様、レキナール様。イリス様をくれぐれもよろしくお願いします」

 深々と、エルは頭を下げる。エルは、イリスの母方の従姉にあたり、イリスにとっては姉のような存在だという。ラキサス不在の折には、封印石を守る役目も、彼女が果たしている。イリスの秘密を知りながら支える、数少ない人物だ。

 ゼクスがイリスを共に連れていくと聞き、ラキサスはゼクスが思ったほど反対しなかった。長い間、公女であることで苦しんだイリスを開放してやりたいという気持ちと、ゼクスへの全面的な信頼、彼自身も封印石への疑問があったからであろう。

 最後まで強固に反対したのは、このエルであった。

 エルは、何よりもイリスを封印石の前に立たせることを心配している。

「無理は絶対させない。誓ってもいい」

 ゼクスの力強い言葉にエルは複雑に微笑む。それもまた、心配の一つだと言いたげでもある。

「本当は、私もご一緒できればいいのですが」

「ダメ。エルはクアーナ公国にも、兄さんにも必要なひとだもの」

 にっこりと、イリスは微笑む。びっくりするエルに、イリスは「わかっているわ」と、頷く。

「兄さんも、エルも、私に遠慮しすぎよ。二人が恋仲であることぐらい、ずっと前から知っていたわ」

「イリス様……」

「幸せになって。私の分も」

 イリスはエルに笑顔を向けた。

「イリス様、まさかお戻りにならないおつもりでは……?」

 エルの顔が不安に曇る。

「やーね。大丈夫。一度は、戻るつもりだから」

──一度は?

 ゼクスは声にならない問いかけをイリスに向ける。答えはなくとも、彼女の答えはわかっている。

 封印石を巡る旅が終われば、彼女は公女の籍を抜き、帝国を出ていくつもりなのだ。

「船着き場が見えてきました」

 レキナールが指をさす。いくつかの舟が係留されており、荷を下ろしている人足の姿も見えた。

「姫様、皆さま、吉報をお待ちしております」

 舟を桟橋につけ、エルは深々と頭を下げた。

「ラキサス殿に、よろしく伝えてくれ」

 ゼクスがそういうと、エルは黙って頭を下げる。ゼクスとレキナールが舟から降りると、イリスはエルと抱擁を交わした。

「姫様。どうか、諦めないでください……」

 か細い声で、囁くように訴えるエルにイリスが頷くのが見えた。

「ここからは、私の事は、イリーナと呼び捨てていただきます」

 舟から降り立つと、イリスはそう言った。

「レキナール様もですよ」

 念を押すように、イリスは冗談めかしてウインクした。

 レキナールによれば、イリスはレキナールの条件の一年より、さらに短い半年という期限付きで同行を承知したが、公女としてではなく、クアーナ公国所属の封魔士として扱うことを絶対条件に挙げた。万が一、ゼクスがイリスを伴って旅をしたなどということが世間に知れ、ゼクスの将来に影を落とすことがあってはならないと強く主張したらしい。

 ――俺の将来、か。

 しかるべき后を選び、帝位につく。それがゼクス自身に課せられた責務だとわかっている。イリスは自分の存在が、帝位や后選びの障害にならぬように、細心の注意を払ってくれているのだ。

 理解はできる。しかし、せつない。

 ゼクスの后候補と呼ばれる女性たちの中に、イリスの名はない。大侵攻さえなければ、当然イリスもゼクスの后候補に数えられたであろうし、美しさはオリビア公女と並んでも後れを取ることもなかったであろう。その想いは、心の奥底の大きな悔いを、更に深めるだけであった。

 ゼクスは髪を染めたイリスの左頬の傷を見つめた。

「ゼクス様、どうなされました?」

 黙り込んだゼクスを不審げに、レキナールが問う。

「いや、何でもない」

 ゼクスは首を振る。悔いているだけでは、何も始まらない。 

「それで、お城に向かわれるのですか?」

 にこやかに振り返ったイリスが、ゼクスに問いかけた。

「一応な。そのあとで、エリの遺跡へ行く」

「エリの遺跡?ルクセリナ帝国建国前にあったという王国の?」

「ああ。アレンティア女帝の生家とも言われているな」

 建国の母アレンティアには、謎が多い。加えて、彼女の夫については、更に謎だらけだ。一説には、魔人と対立関係にある、天界の天人という話もある。帝都にもたくさんの史跡が残っているが、エリアリナ公国のエリの遺跡は、もっとも有名だ。しかし現在の公国の中心からかなり外れた山奥に位置するため、めったに人が立ち入らず、遺跡は朽ちていくだけだという。

「エリの遺跡なら、ただ封印石を見るのとは違う情報が得られますね」

 レキナールが頷く。その言葉に納得しながらも、イリスは心配げに口をはさんだ。

「エリの遺跡はかなり山深いところにあると聞いておりますが」

「ああ。エリアリナ公に頼んで、誰かガイドをつけてもらおうと思っている。構わないか? イリス」

 ゼクスの言葉に、イリスは首を振った。

「殿下。イリーナとお呼びください」

「す、すまん」

 頭を下げるゼクスに、イリスは苦笑した。

「気を付けてください。ガイドの方に不審に思われます」

「私も気をつけなくては。しかし、公女様を呼び捨てするのは、やっぱり心苦しいです」

 レキナールの言葉に、イリスは声を立てて笑った。

「やめてください。もともと深窓の姫君じゃありませんし。野宿するのだって平気ですよ?」

「そういう問題ではないと思うのですが」

 レキナールの抗議はもっともなのだが、イリスはレキナールの真面目さをからかって楽しんでいるようだった。

「とりあえず、城へ行こう。エリアリナ公に面識は?」

「ないです。ジャイン大臣には一度お会いしたと思うけど……」

 大侵攻の後、父母の葬式に参列したはずだと、イリスは記憶をたどる。

「ジャイン殿は、今の時期はエリアリナ公の外遊に備えて帝都におられるはずです」

 ほっとしながらレキナールが告げると、何かを思い出したように、ゼクスの顔が歪んだ。

「ルパート公子は、どうしているか記憶にあるか?」

「さあ? 特に帝都で行事もありませんから、今は国元におられるのでは?」

 ゼクスはそれを聞いて、思わず顔をしかめた。

「どうしたのですか?」

 イリスの問いに答えず、ゼクスはイリスをただ見つめる。出会った時の美しい銀髪は、暗い焦げ茶色に変わっているものの、十分に人目を引く容姿だ。左頬の大きな傷も彼女の魅力を台無しにしてしまうようなものではない。封魔士の鎧姿は、あの青いドレスのような艶やかさはないものの、凛とした彼女によく似合っている。

 こほん。

 途方にくれるイリスに微笑み、レキナールが咳ばらいをした。

「ルパート公子は女たらしで有名でして。ゼクス様は、あなたを彼に見せたくないのですよ」

「レキ、余計なことを」

 ゼクスが抗議するのを、イリスはきょとんと見守り、そして、笑い出した。

「社交界で美しいご令嬢を何人も口説いているからと言って、女性なら誰でもいいわけじゃないと思いますよ。そんなにおモテになるなら、こんな傷のある女をわざわざ口説かないです。心配しすぎです……それに」

 言いかけて、イリスの顔が曇る。

「すまない。気を悪くしないでくれ」

 ゼクスは慌てて、詫びる。

「ルパートは俺の学友でね。悪い奴じゃない。むしろ優秀で、信頼のおける男だ。ただ、女性に誠実とは言えないが」

 容姿は俺よりいいし。と、呟くように付け足す。

「ひょっとして、ゼクス様の恋敵ですか?」

 くすり、と笑ってイリスが面白そうに聞く。ゼクスが自分に気を使っていることに気が付いたのか、ことさらに楽しそうな顔を作っている。そうしていると、いつもより幼く、まるで少女のような顔だ。

「そんなことはない。そういう問題じゃない」

 全力で否定するゼクスを、イリスは不思議そうに小首をかしげる。その小動物のようなしぐさに、ゼクスの鼓動が早くなった。理性が必死で止めていても、イリスに魅かれていく自分が止められず、思わず天を仰ぐ。

「どうなんです?レキナール様」

 いつになく少女のようなイリスの追及に明らかに狼狽をしながら、こほん。と、レキナールが咳ばらいをした。横目で、ちらりとゼクスの顔色をうかがいつつ、真面目な顔を作る。

「冗談は置いておいてですね、私とイリーナは、ルパート様とできるだけ顔を合わせない方が良いでしょう。ルパート様はラキサス公とも親しいですから」

「ああ。そうか。そうだな。俺も確かに似ていると思った」

 レキナールの冷静な指摘にゼクスは平静さを取り戻す。確かに、イリスはラキサスと面影が似ている。自分が初めて会った時の既視感を思い出した。

「そういうことなら、私も気を付けます」

 イリスも神妙に頷いた。

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