第一章 呪われた生

出会い

 風がないのに、木々がざわめいていた。常ならば聞こえるはずの鳥たちのさえずりはない。

「近いわ」

 イリスは左頬に手を触れる。刺すような鈍い痛みが続いている。首に下げた魔磁針を取り出し、その針の指し示す方角に眉をひそめた。

「峠の向こう……国境を越えてしまうかも」

 クアーナ公国からは、三つの大きな街道がのびているが、この街道は、ウェルデン公国につながっているものだ。同じルクセリナ帝国に属するとはいえ、親密とは言い難い関係にある。イリスの胸に苦いものが広がった。

 ――それでも、妖魔を放置するわけにはいかない。

 短い雑草が生え、ところどころ木の枝が張り出した山道を進むのは骨が折れた。そのひとつひとつが、この道を通る人の少なさを示し、ウェルデンとクアーナの冷え切った関係を物語っている。

 峠にたどり着くと、左頬の痛みが一層強くなった。

 イリスは眼下を見下ろした。木々の緑は色濃く、山の向こうまで続いている。

――強い。

 街道から外れた深い緑の中に大きな歪みが見える。

――この先はウェルデン領。

 放置しても、しなくても、ウェルデン公から苦情が届くのは間違いない。イリスはすっきりとしない想いを振り払うように、峠を駆け下り始めた。


 ゴォーという音とともに、火柱が天高く上る。

 焼け焦げる匂いとともに、間違えようもない、腐臭のような妖魔の体臭が鼻を突いた。次いで、爪のようなものと剣を交える音が、深い山中に響き渡る。

 ――ウェルデンの封魔隊?

 そんな考えが頭をかすめる。

 ウェルデンの封魔隊がこの国境沿いにやってくることはめったにないことだ。イリスは音のするほうへ走った。

 二人の男が異界のものと相対しているのが見えた。

 ――妖魔蟲!

 黒い甲冑のような羽、鋼鉄のように固いハサミのような大きな顎。身体は人間より一回り大きく、クワガタに似ていなくもない。知性はないが、非常に獰猛で危険極まりない奴だ。

 二人のうち、小柄な男のほうが、魔封じの刃で、妖魔蟲の大きな顎の執拗な攻撃を防いでいる。激しく攻め立てているわけではないが、確実にダメージを与えている。所属はわからぬが、間違いなく封魔の訓練を受けているであろう。年は二十代前半のようではあるが、戦いなれたものだけが持つ経験に裏付けられた動きだ。

「炎よ」

 その攻撃にタイミングを合わせ、長身の方の男の朗々とした声が響き渡る。

「天より使われし、蒼き炎よ」

 呪文から逃れようとしたのか、ギィギィと嫌な羽音がして、イリスの目前に黒い物体が飛び込んできた。

 イリスは咄嗟に転がるように身を伏せる。

「闇より出でし彼奴を焼き払え!」

 男の呪文が完成し、妖魔蟲の黒い身体に蒼い炎がまとわりつく。

 くわっと、妖魔蟲が口を開き、闇色の粘着質な液体を撒き散らした。

「──ッ」

 飛び散った液体が、白銀の刃を向けていた男の左腕を焼いた。男の顔が一瞬、苦痛にゆがんだが、怯む様子はない。

 炎に焼かれ、妖魔蟲は苦しみに猛り狂った。顎を大きく振り回し、木々の枝葉をなぎ倒していく。

「わが身に流れし聖なる血よ」

 剣を構えた男の唇が呪文を唱える。

 ――まだ、速い!

 イリスは、跳ね起きた。

 男の剣技が見事なのは間違いないが、妖魔蟲の身体は鋼鉄のように固い。炎で焼かれていても、少しも動きが衰えない。止めを刺すのは困難と思われた。

「銀の糸よ!」

 自らの髪を引き抜きながら、イリスは叫んだ。

「彼奴を捕縛せよ!」

 投げ捨てたイリスの銀の髪が、鈍く発光しながら妖魔蟲をからめとる。もとより、炎に巻かれている妖魔蟲であるから、捕縛の糸は長くはもたない。だが、一瞬の隙はできた。

「闇より出でし、彼奴等を骸とせん」

 呪文の完成と同時に、男の剣が迷うことなく、妖魔蟲の腹に突き立てられる。

 男の気合いとともに妖魔蟲の絶叫が響き、どぅと、倒れた。

 大地に静寂が戻り、空気が清浄に戻っていく。

「ゼクス様、お怪我は」

「心配するな、レキ。腕を少し焼かれたが、大事ない」

 駆け寄った男に、男は苦笑しながら答える。どちらも鍛え上げられた体躯で、激しい戦闘の後だというのに、疲れたようにみえない。小柄でゼクスと呼ばれた男のほうが、やや若い。端正な顔立ちに、強い意志を感じさせる大きな黒い瞳。封魔のために作られた輝石をはめ込んだ鎧──そこに、帝国皇族の証である竜の紋章が施されているのに気が付いた。

「殿下?」

 イリスは思わず姿勢を正す。

「助太刀、感謝します。ルクセリナ帝国皇太子のゼクスです」

 剣を鞘に戻し、ゼクスがイリスを見て、微笑しながら手を差し出す。

「いえ。余計なお節介を致しまして、申し訳ありません」

イリスは、ぎこちなく頭を下げ、差し出された手をおずおずと握り返す。

「まさか、ゼクス殿下とは……」

ゼクスは、ルクセリナ帝国の皇族で、封魔の技は皇族一と噂されている。

「貴女が捕縛してくれたおかげで、ずいぶん助かった。妖魔蟲は初めてだったので、苦戦しました。どうも名前ばかり有名になってしまってお恥ずかしい限りです」

 言いながらにっこりとゼクスは笑った。その笑顔の眩しさに、イリスはそっと左の頬に手を当てる。

「封魔隊副長のレキナールです。私の炎では、動きを止められなかった。本当に助かりました」

 レキナールは苦笑しながら頭を下げた。長身なのに、態度はずいぶん腰が低い。驕らない人柄の良さを感じさせた。

「先に、後始末をしておきます」

 言いながら、レキナールは陣を描く。妖魔の骸が、溶けるように描いた陣の中に吸い込まれた。

 妖魔の骸はこうして陣を描いて魔界に還すか、完全に焼いておかねば、次の妖魔を呼ぶと言われている。還しの陣といわれるその技は、地味だが非常に難しい。少しでもミスがあると、異界の門が開いてしまうことがあるからだ。レキナールの技はイリスが息をのむほど見事なものだった。

「本当に、出過ぎた真似を致しました」

 イリスは頭を下げた。一歩間違えば、二人のコンビネーションを崩しかねない行為だったかもしれない。

「貴女は、クアーナ公国の封魔士でしょうか?」

 ゼクスの言葉に頷きながら、イリスは国境を越えてしまったことを思い出した。事が公になれば、また兄ラキサスに迷惑をかけてしまうだろう。

「どうかウェルデン公にはご内密に。国境を越えたことが表沙汰になると、厄介なことになります」

「命がけで、妖魔と戦ったのに?」

 ゼクスが不思議そうに首をひねる。

「そこまで、両国の関係は悪くなっているのでしょうか?」

 心配そうに問いかけるレキナールに、イリスはほろ苦い笑顔で頷いた。

「五年前の魔族の大侵攻以来、ウェルデン公は、自国に現れる妖魔の全てがクアーナからやってきていると信じていらっしゃいます。それに……」

 言いかけ、イリスはやめた。イリスの視界に、ゼクスの腕が赤く焼かれているのが飛び込んできたからだ。

「殿下。早急に怪我の手当てをしないと、大変なことになります。ウェルデン公国の封魔小屋に戻られますか? 我がクアーナ公国の封魔小屋においで頂ければ、薬草も十分にありますけれど」

 その時になって初めて、イリスはゼクスがなぜこんなところにいるのだろうと、不審に思った。ここは、ウェルデンから帝都に戻る道ではない。

「ゼクス様、お言葉に甘えましょう。ウェルデンの封魔小屋は、たいして備えもないように見受けられました」

「確かにそうだ。本当に、ここで貴女に会えてよかった」

 ゼクスにそう言われ、思わず胸がドキリとする。イリスは、慌てて目をそらした。

「こちらです」

 二人に背を向け、山道を急ぐ。平静を保つために、深く息を吸った。

「クアーナ公国は、貴女のような若い女性の封魔士も多いのですか?」

レキナールが、珍しそうに問いかけてきた。

「他の国よりは多いと思います。我が国は、大侵攻で多くの封魔士を失いましたから、人手不足なので」

 封魔士に必要なのは、魔力である。封じの技そのものについては女性が男性より劣っているわけではない。ただ、現実を見れば、武術の心得がなければ、妖魔と戦うことは難しい。体力面の弱さを、封じ技以外の魔法のバリエーションで補わなければ、女性に封魔士を務めることは難しいのだ。

「もっとも、人手が足りないのは封魔士に限ったことではありませんけど」

 二人の男が口を閉ざした。その沈黙は、イリスの心を慮ってのことだと気づき、湿っぽい気持ちを振り払うように、イリスは笑った。

「生き残った者は、精一杯、出来ることをしています。お気遣いなく願います」

  イリスは峠を登りきると、山道の先に見える小さな青い屋根を指し示した。

「あれが、封魔小屋です。何もありませんが、お茶くらいはお出しできますよ」

  イリスの言葉に、ゼクスの腹が答えるように鳴り、三人は思わず声を上げて笑った。


 


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