ちょっと不思議なショートストーリー

@Yu-kame

第1話 翔也

 「わっ、やば!」

 流れの勢いは大したことないと、たかをくくっていた。澄んだ水が実際より川底を浅く見せていたのかもしれない。

 長い年月で丸くなった石の表面に、藻や苔が付き、滑りやすくなっていたのだろう。対岸に渡ろうと次の石に体重をかけた時だった。

 川の流れは思った以上に速く、川底は思った以上に遠かった。

「わぁ、ぷっ。ゆ、由香ー!」

 叫んだ声が届いたかどうかを確認する間も無く翔也は深みに運ばれていった。


「えっ?」

 バーベキューの準備でクーラーボックスから野菜を取り出そうとしていた由香の耳に翔也の悲鳴が聞こえた気がした。慌てて声のした方に振り返ったが、そこに翔也の姿はなかった。

「翔ー!」

 由香は大声で呼んでみたが、返事はない。代わりに川下に向かって流されていく人の手が見えた。

「誰かぁー、助けて。彼が流されちゃう。」


 人混みを避けて、わざわざ遠出してきたのだ。ライフガードがいるような川ではない。それでも100メートルほど上流でバーベキューを始めていた家族が由香の悲鳴に気づき駆け寄って来てくれた。

 川下にいた初老の釣り人は流されていく翔也に気づいたが、流れの速さにすぐに見失ってしまったようだった。


 水を飲まないように気遣いながらも、だんだんと水中に引き込まれる時間が長くなり、意識が遠のいていくようだった。

『このまま死ぬのかな。こんな遠い川まで来なけりゃよかったな』

 考える力も、気力も薄れていく中、突然翔也の頭の中に響いてきた声があった。

〔助けてあげるよ、僕が〕

『え?誰?』

 自分が声を出して答えているのか、それとも頭の中で返事しているのか。ちゃんと意識があるのか、ないのかさえ、もうわからなくなっていた。

〔僕はね、君の龍だよ〕

『俺の龍?』

〔そう。君の守護龍〕

『⁇』

〔最近の君は全く僕には気づいてくれなかったけど、僕はずっと近くにいたんだ〕

『近くに? ずっと?』

〔うん。君の小さい頃からずっとだよ〕

『そうなの。気づかなくて悪かったね』

 何故こんな会話を、こんな状況でしているのか。それも龍と。

〔ずっと前。君がまだ本当に小さかった頃住んでいた街に小さな川があったんだ。僕はそこにいたの〕

『俺が小さい頃?以前は親父の仕事の都合で、引っ越しが多かったから覚えてないや』

 翔也がそう言うと、クスッと、ちょっと笑ったような声がした。

〔君は本当に小さかったから、覚えてなくても仕方ないかなって思ってる。君がベビーカーから降ろしてもらえるのは公園に着いてからだったしね〕

『そんなに前なんだね。その頃住んでた街、思い出したよ。確か小学校四年生くらいまでは住んでたよ。でも川なんてあったかなぁ』

〔あの川はね、君に出会ってすぐの頃、宅地開発で埋められちゃったの。本当に小さい川だったしね。そしたら天龍様が君の守護龍にしてくれたんだ〕

 龍はちょっと嬉しそうにフフって笑った。

『どうして俺だったの?』

〔君が最初に僕を見つけてくれたからだよ〕

『俺が?』

〔そう。僕がその川にやってきた小鳥と遊んでたのを君はじーっと見てた。僕がその視線に気づいて君を見つめたら、小さい君は手をたたいて喜んでくれたんだ〕

『そんな事があったんだ。でももしかしたら小鳥の方を見ていたのかもしれない』

〔僕も最初はそう思ってた。でも君の方に近づいて行ったら、思いっきり両手を伸ばして、僕に触ろうとしたの。それで顔を近づけてみたら‥〕

 そこで龍はまたフフッて笑った。

『そしたら?それからどうなったの?』

 もう川に流されているっていう感覚は無かった。

〔君は小さな手を伸ばして、思いっきり僕のヒゲを掴んで引っ張ったんだ。まさか人間の子供に触れられるとは思ってなかったからびっくりしたよ〕

『俺が?掴んだの?』

〔それだけじゃない。びっくりしすぎてちょっとの間、固まってしまった僕の顎にも触ったんだ。顎はね、僕たち龍の一番弱い所だからね〕

『君たち龍の弱点?知らなかったよ』

 龍はまた少し笑ったようだった。


 翔也が川に落ちて直ぐに警察に連絡したものの、街からかなり離れていたこともあり、小一時間してもまだ到着していない。騒ぎを知り集まって来てくれた人達は由香の肩を抱き、きっと大丈夫だよ、と慰めの言葉をかけてくれている。しかしこの先の急流のことを知る誰もが半ば諦めていた。


 そんな川岸の状況を想像もしていない翔也はまだ龍との会話を続けていた。川に流されている感覚など、とおに無くなっていた。


『それからもずっと近くにいたの?』

〔君が幼稚園に入る頃までは、あの公園に来るたびに僕の事を探してくれてたよ。だから僕も君の側にいられた。それからしばらくして宅地開発で川が埋められたんだ〕

『ふーん、そうか。そんな川があったなんて本当に知らなかったよ。じゃあ川がなくなったら、龍ってどうなるの?』

〔実は僕も他にどんな道があったのかはよくわからないんだ。でも川がなくなった日に、天龍様がわざわざ来てくださって、これからどうしたいかって聞いてくれたの。僕は迷わなかったよ。君の側に、君の守護龍になりたいってすぐ返事したんだ〕

 龍はちょっと嬉しそうに、えへへって笑った。

〔それからはずっと君の事を見守ってきた。小学生になって友達たくさん出来たことや、ちょっと好きだった女の子のこと。君が悩んだりしていた時は、僕は君の助けになりたくて普段より近くで寄り添ってたんだよ〕

『近くに龍がいたなんて。全然、思いもしなかったよ。そのあと何回も引っ越ししたけど、川が近くになくても大丈夫なの?』

〔僕たち龍がいるのは、川の側だけじゃないよ。龍は流れのある所なら住みやすいんだ。だから僕は君の運命っていう流れの中に暮らしているのさ〕

『すごいな。じゃあ龍はいろいろな所にいるんだな』


 すごいって言われて、龍は嬉しそうだった。

〔だからね、君の運命、まだ終わらせないよ。君を守るために出来る限りのことをするって決めてるから、僕〕

『ありがとう。俺もなんだか嬉しくなってきたよ。気持ちいいな。眠い・・。あ、君の名前、まだ聞いてなかったな』

〔僕の名前?僕の名前はね…〕

 返事を聞く前に翔也は眠りに落ちていた。


 次に翔也が目を覚ましたのは、川が急流を越えて少しゆっくりした流れになった中洲の上だった。夏の終わりに近い、綺麗な青空が広がっていた。

 ぼんやりとした頭で、状況を把握しようと試みた。長い夢を見ていたような心地よい目覚めだった。

 その時、遠くで誰かを呼ぶ拡声器の音が聞こえた。どうも自分を呼んでいるようだ。とたんに水に濡れた身体に、冷たいという感覚が戻り、同時に川に流された事を思い出した。拡声器の声がだんだん近づいてくる。


「由香に心配かけたな。泣いてるよな、きっと」

〔君たちの子供に、きっと君は僕の名前を付けてくれることになるよ。大丈夫、これからもずっと一緒だよ〕

 なんだかとても懐かしい声が聞こえた気がして、涙が溢れそうになった。


 中洲に打ち上げられたようになっていた翔也を岸まで連れ帰ってくれた消防団員、駆けつけてくれた人々、救急車の隊員、皆んなが口々に奇跡だと言っていた。由香だけが何も言わず、泣きはらした顔で翔也の手を握りしめていた。翔也にはその手の暖かさがとても愛おしく、また懐かしかった。

「ごめん、由香」

「ばか。死んじゃったと思ったよ」

 また泣き出しそうになるのを必死で堪えて、小さな声を絞り出しているようだった。翔也は重ねられていた由香の手をそっと握り返すと、

「流されながら、夢を見てた。由香と俺、それと俺たちの息子がいた。叶えたいと思ったよ」

「ばか」

 由香はそれ以上言葉を続ける事が出来ず、大粒の涙で泣いているのか、笑っているのかわからない顔になっていた。

 その時、耳元で何かがフフッって笑ったような気がして、気づいたら翔也の目にも涙が溢れてきていた。








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