4-2nd. ED 一人双厄
どこにでも見られる築十年前後の一般的な二階建て住宅内。ホール階段下で息を殺して気配を消すひとつの人影。
「目標のいる部屋までの距離、直線で約3メートル……か」
人影は、か細く浅く吐かれた息に擬態した目的を声に乗せて、上を見上げながら階段の一段目に足をそっと置く。ギュキッと、強化樹脂が僅かに軋む音がした。
「軽量化を図る必要があるな……」
後悔と祈りが入り混じった思いの中、気配を悟られないように空気と同化しながら無心で一段ずつ階段を登る。
「あら、姫奈ちゃんどうしたの?」
「あ。おばさん。へへへ……勝手にお邪魔してます」
人影の正体である姫奈は、ポリポリと頭をかきながらトシの母親に挨拶する。
─ へえ。そうなんですか!
二階のトシの部屋から漏れ聞こえるハツラツした女の声に二人は部屋の方角を見上げる。
「トシ君なら二階だけど……あたし、てっきり今来たのは姫奈ちゃんかとばかり思ってたんだけど」
「や、やっぱり女の子が来てるんですか、おばさん!?」
おっとり口調なトシの母親とは対象に姫奈はせっかちに訪ねる。
天馬から「トシの家に今から女が行くぞ」と腹の底から面白がる声で電話が掛かってきた姫奈は、下校途中に友人たちと楽しんでいたお洒落な店の限定スイーツを残して、帰路を急いできたのだ。
「……
「了解、ボス」
トシの母親に乗せられた姫奈は、親指を立てながら静かに階段を上がる。トシの部屋の前まで来ると、心と身体を完全無にしたステルス・ウーマンとなったつもりでそっと聞き耳をたてた。
■
姫奈が張り込みを続けて20分ほどが経過した。話の中で、部屋にいる少女は栖雲 透香という名で飛陽高校の一年でジャーナリズム部に所属、トシの取材中であるということを知る。
「あの種馬スケベめ。さては知ってたのに教えなかったな」
姫奈は小声で愚痴るが、それよりも気になるのは、トシがいつもより饒舌気味であることだった。話題の殆どがライズ・ノベルを始めとした小説に関することであり、好きな作品や作者、ジャンル、ノベライズの思い入れなど、多岐にわたる質問を手際よく導く。
栖雲が聞き上手というのもあるが、普段は自分にあまり見せない態度に姫奈は少しばかり嫉妬を覚える。
「野鐘先輩その指……大丈夫ですか?」
「うん。テーピングさえキチンとすれば痛くないし、ノベライズも問題ないよ」
「ちょっとお手を拝借……うわぁ、両手とも爪先の皮がコツコツしてますね」
「あ、あの女の皮を私の手で剥いでやりたい……」
姫奈はさらりと恐ろしい言葉を口にする。当然ながら喩え文句だが、そこからしばらく、彼女の脳内では悲劇、惨劇、愛憎劇による
「そ、そうなんですか……見たかったのに残念だな」
自身が魔王と化して世界を滅ぼすところまで妄想が捗ったところで姫奈は我に帰る。どうやら取材はまだ続いているようだが、そろそろ
「ところで、野鐘先輩はどうしてノベライズをやるんですか?書籍化したい理由とか、よかったら教えてください」
栖雲の質問に姫奈は動きを止める。その答えを知りたいのは彼女も同じだった。自分の名前を世に残したい者。己の筆力を試したい者など、書籍化を目指す理由は様々だが、トシが筆を握る理由を姫奈はまだ知らない。
「えっと……好きな人のため……かな?」
「おお!? まさかの爆弾発言が!で、誰ですか?」
誰なんですか。答えてください!?
姫奈も栖雲と同じく、壁越しにジャーナリズムに命を燃やしていた。
「えっと……その人はつまり……僕がライジング・ノベライズで全国に行けたら付き合ってくれるみたいなんだけど」
■
「あら、姫奈ちゃん。トシ君の様子はどうだった……って、大丈夫?」
涼しくなってきた夕暮れ時。庭の草むしりをするトシの母親は玄関から出てきた姫奈に声をかけるが、その様子は放心気味だった。
「問題なさそうです。あ、おばさん。これをトシに渡しておいてください」
姫奈は、ハッとしながらトシの母親に学生鞄を渡す。
「これトシ君のじゃない。どうして姫奈ちゃんが持ってるの?」
「トシの奴、天馬の鞄と間違えて持って帰っちゃったみたいなんです」
実は姫奈は天馬からの連絡を受けて猛ダッシュで帰宅する途中に一度会っていた。どうやら栖雲が不良に絡まれた時のどさくさで、鞄が入れ替わったらしい。
「自分の鞄は明日、スタジアムに持ってきてくれって、天馬が言ってました。それじゃ失礼します」
「わざわざ、ありがとう姫奈ちゃん。これからもトシを応援してあげてね。私は姫奈ちゃんを応援してるから」
色々と読まれている姫奈は、顔を赤く染めながら軽く一礼すると、そそくさとU字を描き隣の自宅へと入った。
玄関を閉めた姫奈は、ドアにもたれながら、抑えていた衝動をすべて放出するように大きく息を吐き出した。落ち着きを取り戻してからも、しばらくは心臓の鼓動は大きく弾んでいた。
■
「これが、あたいの実力……じゃなくて実録だよ!さあ、
自ら無遠慮にメディア陣のマイクを手に取り、カメラに向かって指を差す少女。胸元を開けるように着崩した制服と褐色の健康的な肌を見せながら、目標を力強く述べる様子がスタジアムのロビーに掲げられた大型ビジョンに映し出されていた。
『ライジング・ノベライズ、エリア予選決勝トーナメント第一戦。準決勝進出を決めたのは、
「凄いね。あの修陶さんって人。いつも朝食に白飯三合も食べてるなんて。そりゃ、お腹が空きそうな小説じゃ敵わないか」
「僕は、昼ご飯が殆ど食べられなかったな……」
ロビーの二階で手すりに肘を置きながら姫奈は午前のノベライズ映像を眺める。下を除くと飛陽高校、そしてトシのノベライズ相手校である、湧希高校の生徒たちが数十人ほど見かけられる。姫奈の背後のソファーに腰掛けるトシは落ち着きのない様子で返事をした。
「まだ、天馬とは連絡がつかないの?」
「うん……。電話は出ないし、メッセも既読すらない」
あと30分ほどでトシのノベライズが始まるのだが、天馬とは今朝から一度も連絡が取れていなかった。その静かな焦燥は、好物である売店のレモンアイスすら喉が通らないほどだ。
「どうしよう。いつも待ち合わせで遅刻ばかりしてるから、怒ったのかな」
「だから言ってるじゃん。時間ピッタリに来いって」
五分前行動という言葉が辞書にない、大同小異な二人はマイペースなやり取りをする。その心中では不安と心配の粟立ちが広がりながら時間だけが徐々に過ぎる。
「……そろそろ、控室に戻るね。もしも、天馬が来たらすぐに連絡して」
「うん、わかった。頑張れよトシ」
本当は控え室の近くまで、叶うのならば担当者としてトシの側にいたい姫奈だったが、天馬が来ると信じてロビーに根を張り見送る。その背中の寂しさは、如何に彼のノベライズにとって相棒が大きな存在かを表していた。
■
「野鐘先輩、大丈夫ですか?」
控室に向かう途中の通路でトシを待っていた者が声をかける。そこには両腕を後ろに組んで立つ、
「昨日は、ありがとうございました」
「あ。栖雲さん。天馬を知らないかい? 今日、午前中に取材するって言ってたよね?」
栖雲の顔を見るなり、トシは彼女の両肩を掴んで問う。なるべく平静を装ってはいるが、藁にもすがる思いだ。
「い、いいえ。私も今朝からこのスタジアムで待ってたんですけど、一角先輩とは会ってないんです。ひょっとして、来てないんですか?」
何も知らない様子に手掛かりが潰えたトシは、そっと栖雲の肩を離す。
「知らないならいいんだ」
「あれ、野鐘先輩。テーピングが少し雑じゃないですか?そんなんじゃ、ノベライズの時に剥がれちゃいます」
「ははは……そうかもね」
トシは栖雲に言われて不格好な指先を見る。ノベライズ前に天馬に巻き直してもらおうと思っていたとは言えず、軽く笑ってごまかす。
「ちょっと貸してください。私、こう見えて上手なんですよ」
栖雲は鞄からテーピング用のテープを取り出すと、ものの数分で細かい部分を上手く覆いつつ、丁寧なXサポートで関節に支障のないテーピングを完成させる。
「ありがとう。ところでどうして栖雲さんは私服なの?」
トシは栖雲のTシャツとズボンのスタイルに服装について訪ねた。
ライジング・ノベライズは学生競技であり、原則は制服で行うことが定められている。平日の試合であればスタジアムに来る生徒の応援者も同じことだ。
「実は、今日は学校サボって午前のノベライズから観に来てたんです。だからロビーにはなんだか居辛くて」
悪びれずに笑いながら舌を少し出す栖雲に、やれやれと言わんばかりに一度だけ大きく肩で息をする。
「それよりも野鐘先輩やつれてますよ。ちゃんとお昼ご飯食べました?」
「実はあまり食べてないんだ。天馬のことが気になって……」
「ダメですよ。ちゃんとカロリーは取らないと。そうだ、これだけでも飲んでください」
そう言うと栖雲は、鞄から手の平サイズで十秒ほどで胃に流せる、チューブ容器のゼリー飲料を取り出して、トシの手に握らせる。
「これ、差し入れのつもりで持ってきました。先輩の好きなレモン味です。天馬さんが来たときに元気じゃないと逆に心配かけちゃいますよ」
栖雲はトシの手を支えながら、二本指でゼリー飲料のキャップを捻り開封する。逆に注意されるのも何だか不条理だと思いながらも、トシはゼリーを一気に飲み干して、一息をついた時だった。
「こんにちは」
背後からの声にトシは振り向く。
そこには爽やかながらもミステリアスな笑顔を見せる一人の男がいた。
「あなたは……確か僕の今日の……」
「そうです。
鉤比良 龍彦。先日の選手紹介の映像によると、ライジング・ノベライズ初出場にして、ノベライズ歴は不明。ミステリー文芸を得意とするノベライザーとのことだ。
突然の対戦相手の来訪にうろたえるトシだが、鉤比良はニコニコしながら静かに右手を差し出した。
「君のキーボードを駆使したノベライズと活躍は拝見しましたよ。実に面白い。今日は正々堂々と勝負しましょう」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
トシは一瞬戸惑うが、ノベライズを前に紳士的な振る舞いを見せに来てくれた彼に、不安定な気持ちが少しばかり楽になり手を差し出して重ねるが……
「なんて、言うと思ったか、馬鹿がっ!」
「ぐぁっ!!!」
鉤比良の豹変した口調とともに、トシの手先に瞬間沸騰した熱と高圧電流を帯びたような激痛が走る。トシは反射的に鉤比良を振り払い、膝をつきながら苦悶の表情を浮かべる。
「な、何をする……あ!?」
「そんなに強く握ってないでしょう?」
負傷した身にとっては、岩をも砕く握力に匹敵する明らかに他意ある挨拶に怒りをあらわにするトシだったが、瞬時に元の丁寧口調に戻った鉤比良を見て言葉を詰まらせた。
「ふっふふ。本当に面白い奴だな」
再びドスの効いた声とともに先程までそこにあった爽やかな笑顔は消えて、代わりに鋭利な眼光を向けた別人がいた。
「お前は……」
「昨日は楽しいコントをありがとよ」
前髪を上げながら不適に笑うその男の額には、見覚えある十字傷の跡。昨日、下校途中でトシ、天馬、栖雲の三人に威圧的な態度で絡んできたあの不良だった。
「どうして、鉤比良さんが……それに……」
「まだ、わからないの? 」
にわかには信じがたいトシに馬鹿にした口調で問うのは栖雲だった。
鉤比良と同じく、態度は一変して可愛らしい態度と表情は消え去り、冷たげに言い放つ。
「お前は、俺と
「昨日は色んな情報をありがとね。の・が・ね・せ・ん・ぱ・い」
栖雲は小悪魔な微笑みを土台に唇に指を当てながらトシをからかう。
開いた口が塞がらないとはこの事だった。
「それにしても龍兄。まさかあの眼鏡君と鞄が入れ替わってるなんてね」
「透香がこいつからキーボードさえ取ってりゃ、わざわざ俺があいつの所に出向くこともなかったんだがな」
互いの成果を貶しながらも笑う、鉤比良と栖雲の口から出た名前にトシはようやく思考の金縛りから解かれる。
「天馬は、どうしたんだ!」
トシは喉を潰す声をあげる。天馬がこの場にいないこと、連絡が取れないことにこの男が関わっているのは明白だった。
「心配するな。このノベライズが無事に終わったら、ちゃんと帰してやるさ」
「
鉤比良の上から見下ろす視線と笑みに、言葉にならない感情が沸き上がる。
「何故、こんなことをするんだ!天馬はどこだ!」
「……俺はそんな風に友情ごっこに陶酔する野郎が一番嫌いでね」
謂れのない怨嗟を突きつける鉤比良に掴みかかろうとしたトシだったが、動きを見透かされたように躱されて空を切る。
「透香、そろそろ控室に戻るぞ。このまま、あと15分ほどしてノベライズ開始時に相手がいなけりゃ、それで交換条件は成立だ」
「ま、ノベライズが始まってもしばらくしたら、グッナイだけどね。さっきのゼリー、変な味はしませんでしたか?」
トシは咄嗟に頬と舌を動かして口内を確認する。
「余計なことを言うな。まあ、ノベライズ中に疲労や緊張で倒れるのはよくあることさ。薬は弱めにしておいてやった」
「……それじゃ」
目的を果たした鉤比良と栖雲はトシのもとから歩き去る。いや……栖雲は目を細めて憐憫の視線を送っていた。
こんなことになるなんて……。こんな形で終わるのか?
天馬の身の安全こそが一番だが、トシの頭の中で悔しさが唸りをあげる。みんなと重ねてきた様々なモノが、卑劣によって崩れ去ろうとする事に。
事情を話して、これから始まるノベライズを止めてもらうか。それとも、天馬を救出してもらうか。誰に?運営に?姫奈に?
不測の事態に最善の
「もう、どうにもならないのか!」
望まざる理不尽な棄権という、腐肉を噛み切る選択肢しかないと思ったその時だった。
「よう、野鐘。そんな所でうずくまってどうした?」
聞き覚えのある声にトシはゆっくりと顔をあげる。
そこにはかつて筆を交えたあの男がいた。上から見下ろしながらも、鉤比良とは違ってトシを案じ、そして再会を喜ぶ気持ちが込められていた。
「……
昨日の敵は今日の友。そして今日の友は一生の戦友となる。
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