第3話 女の戦い

 ミネルヴァ・ハルクは激昂していた。


 これほど感情が昂ったことは、かつてない。あの来栖耶麻人との戦いの中でさえ、なかった。


 だが、その頭は冷静さを失っていない。それがミネルヴァの強さだった。怒りや憎しみ、強烈な感情に晒されても、それに完全に流されてしまうことはない。

 

 地雷原に自ら足を進めたのも、そうした冷静さで自らの能力を測り、可能と判断してのことだ。ミネルヴァの目は正確に地雷の位置を見通し、脚は正確にその間を突いて、一つも爆発させることなく悪魔の花園を駆け抜けた。


 真正面に黒い影を捉えていた。ミネルヴァの予想通りだった。ドクター・グレイという後ろ盾を失った〝ネクスト〟がどこへ行くのか。ミネルヴァはかつて生活した場所に拠点を置くと考えた。だから部下に命じ、〝塔〟を見張らせたのだ。こんなに早く現れたことは予想外だったが、それ以外はすべて、ミネルヴァの冷静な洞察力が導き出した結果の通りになっていた。


 夕日に照らされ、本物の影が地面から立ち上がったかのように見える三人目の〝ネクスト〟の姿は、ミネルヴァの接近に気づいて跳躍した。通常の『非強化』では絶対になしえない、長距離ジャンプだった。陽光の中に仄かに青い光が立ち上る。


 閉鎖された〝塔〟の周囲には〝塔〟から崩れ落ちた残骸が広く散乱している。〝ネクスト〟は地雷原を避け、その上に降りるつもりのようだった。滞空時間の長い跳躍の中で姿勢を制御し、優雅ささえ感じさせる身の軽さで舞い降りる。


 逃がしゃしないよ。


 短く息を吐き、ミネルヴァも跳躍した。地雷と地雷の間のわずかな隙間に着地した脚の能力を解放した瞬間、紅いドレスに包まれた身体が高々と舞い上がった。一瞬遅れて、爆発が起き、連続して大きな爆発へと成長した。ミネルヴァの脚力に負けた地面が衝撃を伝導し、周囲の地雷すべてを爆発させたのだった。


 爆風を背中に受けながら、ミネルヴァは〝ネクスト〟が着地した辺りに身を翻した。影が見える。こちらを見上げ、まだ移動しようとしていない。


 闘争本能がミネルヴァに攻撃を命じる。右脚を振り上げ、左足を軸にして、全身を横倒しにして高速回転させながら、影に向かって一直線に降下した。


 影は残骸と残骸の間にいた。振り下ろされた右脚が、その影を捉えた。


 あまりの手ごたえのなさにミネルヴァは舌打ちした。瞬間、自分の脚が影をすり抜け、残骸の間に生まれた『強化』の人工大地を撃った。


 爆発、といっていい衝撃が辺り一面を吹き飛ばした。かつて〝塔〟を構成していた一部分だったコンクリート片が粉微塵に吹き飛び、中から現れた鉄材もろとも、四方八方へと飛び散った。先ほどの複数の地雷の炸裂に勝る半径でその破壊は起こった。


 見え透いた、あまりにも直線的過ぎる攻撃だった。それでも躱されたのは意外だった。ミネルヴァはわずかな驚きと確信を胸に、素早くその場を退く。攻撃後はどんな『強化』でも、『非強化』でも、最大の隙が生まれる。


「ミネルヴァ・ハルク」


 声は中性的だった。男にしては優しすぎる気もする。だが女にしては鋭すぎる。

ミネルヴァは残骸の上に着地すると、声の方に身体を向けた。


「脚を強化し、一撃で四トン強の蹴撃を繰り出すことのできる強襲型。接近格闘戦を得意とするファイタータイプ」

「あのくそじじいにそう教わったのかい?」


〝ネクスト〟と正対したミネルヴァは、改めて相手の姿を確認した。


 残骸の上に立つ線の細い影。整ってはいるが硬質プラスティックのように血色を欠いた顔。そして夕暮れに靡く長い黒髪。それらはすべて、旧世紀から伝わる伝説の死神の姿を思い起こさせた。


「威力はご覧のとおりさ。百聞より一見、百の知識より、一撃だろう?」

「だがその強さは、攻撃力の高さだけではない。お前の強さの本質は、誰よりも狡猾で、誰よりも冷静なこと。情報を精査し、絶対に勝てる方法を瞬時に割り出す、その頭の良さ」

「なかなか嬉しいことを言ってくれるねぇ。それもじじいの受け売りかい?」


 ミネルヴァはドレスのスリットから脚を覗かせた。紅いヒールに紅いドレス。その間から現れた色白の脚に、オレンジ色の夕日が反射して、この上もなく健康的な、それでいて魔性を秘めている女性の性的魅力が前面に押し出される。ミネルヴァはそれを自ら知っていた。


「そうさ、あたしはねぇ、元々は卑しい身の子供だったのさ。この身体とこの頭をすべて使わなければ、『七同盟』までのし上がることなんて、できやしなかった。だから利用できるものは何でも利用してやったのさ。この脚で使える男どもを魅了し、この脚で使えない男どもを排除して来た」


 脚を武器にしたのは、ミネルヴァが自ら仕掛けた、すべての権力者とすべての男どもに対する皮肉だった。


 ミネルヴァは元々娼婦の子だった。あるマフィア組織のボスとの間に生まれた子だが、取り上げられるはずもなく、母は壮絶な決意を持ってミネルヴァを産み落とした。だがミネルヴァを生んだ三年後、その母はあっさりと死んだ。

 

 その後、ミネルヴァを育てたのは、母が務めていた娼館の女たちだ。ただ、それが育てた、というに相応しいかどうかはわからない。ミネルヴァはまだ少女にもならないうちから、商品として大人の相手をさせられた。もしミネルヴァに商品としての価値がなければ、娼館から追い出され、路上で野垂れ死んでいたことだろう。そういう趣味のじじいどもも、この世の中にはいっぱいいるんだよ、と娼館の女主人は下卑た笑いを浮かべてミネルヴァを見下した。


 全てが変わったのは十四の時。娼館が謎の集団に襲われ、ミネルヴァを残して全員が死んだ。ひどい殺しようだった。何かを聞き出そうとか、何かを奪い取ろうとか、そういった目的が一切存在しない、ただ殺すことを目的とした完全なる殺しだった。


 血の海の中でミネルヴァは這い回った。生臭い鉄の匂いを嗅ぎながら、恐れ、泣き、叫び、涎糞尿を垂れ流し、それでもとにかく逃げ惑った。育った場所とはいえ、こんな饐えた臭いの立ち込める場所になど未練はなかったし、腐った女どもにも仲間意識を持ったこともなかった。だから殺してくれた連中には感謝した。しかし、自分も殺そうというのなら、話は別だった。逃げなければならない。こんな惨めな死に方だけはしたくない。母のように死にたくはない。ミネルヴァの手足を、その想いが動かしていた。


 だが最終的には追い詰められ、ミネルヴァはその殺人者たちに捕まった。しかし、不思議なことに、殺人者たちは自分を殺そうとはせず、どこかへ連れ出した。

辿り着いたのは、見たこともないほど巨大で、絢爛豪華な屋敷だった。


 中では老人が待っていた。ある犯罪組織の長を務める男だと彼は名乗った。同時に自分が父親であることも明かした。


 彼はもう長い命ではなかった。生きている間に何を為せたのか、それを探していたのだという。唯一できた子供がミネルヴァだったらしい。それを自分の近くにおいて、残り少ない人生を全うしたい。


 犯罪の世界に生きた男の罪滅ぼし。年老いて牙の抜けきったものの考えだ、とミネルヴァは感じた。激しい嫌悪感を覚えた。この男がいなければ、母が苦労することはなかったし、自分もこの世に生まれ、いらぬ苦労をさせられることもなかった。


 その時、ミネルヴァの中で何かが目覚めた。この状況とこれまで生きて来た時間を顧みて、導き出した答えは、報いる、ということだった。


 母の惨めすぎる人生に報いる。汚れた手垢にまみれ、饐えた臭いを発する自分の十四年間に報いる。これまでのあらゆる我慢、あらゆる悲壮に報いる。自分はその機会を与えられたのだ。ミネルヴァは瞬時にそれを理解し、次の一瞬で十年先までの自分の人生設計を組み立てた。


 いままですまなかった、と謝罪する男に抱き締められながら、まず手始めに、親とも思えぬ相手を親と呼んだ。


 冷静さと狡猾さ。十四のミネルヴァにはすでにその力があった。どうすれば相手が喜ぶのかを知っていた。どうすれば人より上に立てるのかを知っていた。暴力の使いどころ、性的魅力の出しどころを知っていた。


 だから三年後、十七の時に父親が亡くなり、すべての遺産を相続したミネルヴァは、誰にも邪魔されることなく組織の跡目を継いだ。無論、跡目争いは起こった。だがそのほとんどの男たちを文字通り身体で取り込み、従わぬものは暴力を持って屈服させた。


 ミネルヴァはそれだけでは止まらなかった。引き継いだ組織は、決して大きな組織ではなかった。むしろ裏の社会で言えば、下の部類だった。それを持ち前の冷静さと狡猾さで引き上げ、『強化』社会へ進んでいく時代の流れを読み、この犯罪組織の都、トーキョーの一部を手中に収めるまでの組織に仕上げた。


「男どもはみんな原始から進化しちゃあいないのさ。どいつもこいつも、愚かで卑しい、本能だけで生きている獣だ。いや、獣にも獣の掟があり、矜持がある。本能だけで生きている男どもはそれ以下だ。手玉に取るのは難しいことじゃない。あたしにはその能力と資格がある」


 あんたはどうなんだい。ミネルヴァは言外に突き付けた。自らの脚がこの上もなく美しく輝いて見えた。


「あんたも磨けば光ると思うけどねぇ。色白の、綺麗な肌をしてるじゃないか。どうだい? あたしのように世界の頂点を目指してみるかい?」

「必要ない。興味がない。わたしが欲しているのはたった一つ」


〝ネクスト〟の黒いコートが翻った。次の瞬間、何かが強い銀光を放った。


「この復讐の完結。それだけだ」


 中性的な声が、さらに低く、重く響いた。静かに言い放った〝ネクスト〟の右手に、魔法のように長い刃物が出現していた。銀色の光を放ったのは、陽光を反射させたあの刃だ。


 刃渡りは一メートル近くある。片刃の剣だ。しなやかに、わずかに反りのある刃は、陽光を受けて輝いている。そこにはいえしれぬ魅力がある。つい目を奪われてしまう美しさがある。あの武器は何と言っただろうか。確かこのトーキョーを首都のしていたかつての国に伝わる、古来の武器だ。いや、そんなことはどうでもいい。あの武器の本当の名など、どうでもいいのだ。ミネルヴァにとってあの武器を語るものは、もっとはっきりとしている。


「……得物まで同じとは、念が入ってるじゃないか、三人目」

「そうだ。同じ武器でお前たちを殺す。兄の無念をわたしが晴らす。それがわたしの復讐だ」


 あの長大な武器は、かつて来栖耶麻人の手にもあった。すべての『強化』が恐れを為す武器だ。事実、耶麻人と戦ったミネルヴァも、あの刃によって片足を切り飛ばされた経験がある。


「どうあってもあたしを殺そうっていうんだね、〝ネクスト〟」

「それがわたしの生きている意味だ。それ以外には……ない!」


 叫ぶように言葉を切った〝ネクスト〟は、突然身を翻し、高く跳んだ。その瞬間、女が立っていた残骸が爆音を上げて四散した。


 気づかれていたか。ミネルヴァは舌打ちした。だが、動きを止めることはなかった。すぐさま追撃のために自らの残骸を蹴って跳んだ。


 周囲には八人の部下が潜んでいた。いずれも優秀な強襲形式の『強化』である。彼らは音を立てずに女の周囲を取り囲み、攻撃の機会を窺っていた。ミネルヴァもそのための時間稼ぎと、女の注意を引くために、わざと長話をしていたのだった。


 ミネルヴァは空中で手を振った。部下にも追撃を命じる。『強化』の高性能な感覚が、八人の気配を捉え、それらが一斉に動き出すのを感じた。


 女は次々に残骸を蹴り、〝塔〟の方へ逃げて行く。その背中をミネルヴァは追った。


 逃がしはしない。ここで終わりにする。『crus.』も、来栖も、〝戦争〟も、〝ネクスト〟も。過去の亡霊はすべて、ここで蹴り潰してやる。


 終点がかつての拠点だなんて、上出来じゃないか。


 ミネルヴァは次の残骸を蹴り付け、さらに跳んだ。

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