第5話 あの子の復讐は、誰一人として逃がしはしない

「……最強という、その根拠は?」


 マッドサイエンティストの世迷いごと。そう取るには、グレイは正常でありすぎた。圧倒的な存在感を放つ老医師を前に、ミネルヴァは彼の言うところの破壊的衝動に身を任せる自分を抑え込んだ。ラジーの執務室に立ったときと同じ、冷静かつ冷酷に洞察する目を向け、改めて対峙し直したこちらに、よい質問だ、とでも言いたげなグレイは、それまでとは違うどこか満足したかのような笑みを作って見せた。


「精神の強靭さの違いだ。彼女は生まれついての〝ネクスト〟ではない。元々はただの『非強化』、それもまだ十代の少女だ。それが何を意味するかは……言わずともわかるな?」


『強化』が機械を用いて人体を作り変えるのに対し、〝ネクスト〟は後付けの装具やインプラント手術を行わず、人体本来に秘められた力を引き出し切ることで、これまでの人類を超える肉体を得る。それが〝ネクスト〟と呼ばれたものたちを生み出した研究の定義だったはずだ。ミネルヴァは十五年前の『crus.』との〝戦争〟を思い出していた。

 敵を知る必要があったミネルヴァは、そのときもいまと同じように自ら調査し、〝ネクスト〟の膨大な研究データを手にした。それらのデータはいま、ミネルヴァの脳の奥深くに記録として埋め込んである。ミネルヴァはその研究内容を脳内のアーカイブから拾い上げ、アクティブの状態にして、順を追って並べた。

 ネクスト計画の初期段階では、十代前半までの少年少女を無差別に集め、さまざまな実験が行われた。実験という言葉が示すとおり、行われたのは実際の人間を用いて行う生体実験、人体実験そのものだった。

『強化』の誕生によって、人間から失われた感覚がいくつかある。

 死から遠くなったことで、死を恐れなくなった。死後の世界の有無を問わなくなり、神への信仰が薄れた。人類は、そうしたハードたる肉体の変質により、ソフトというべき精神も大きく変化を遂げた。そうした変化の一つに、生体実験などの肉体改造に対する倫理観の欠如がある。

 自分だけではない、隣に並び立つ誰もが、体に機械を埋め込む、もしくは生身と機械部品とを入れ替えている世界。支配者層ではそれが当たり前になりつつあった段階から、手術や施術によって人体を弄繰り回すことに抵抗がなくなっていた。世界がこぞって『強化』への道を進む中で、その対抗策、超越論として競うように研究が進められたネクスト計画も、一定以上に欠落した倫理観の元で行われていた。

 副作用を考慮に入れていない新薬による筋肉、骨格の改造。潜在的に存在する恐怖心を克服するための洗脳施術。それらに耐え切れず、〝壊れて〟しまった〝素材〟は解剖に回され、何が足りなかったのか、なぜ耐え切れなかったのかを研究するため、肉片になるまで切り刻まれる。

 初期のネクスト計画の異常さは、ミネルヴァが手にした資料だけでも明確で、控え目に言っても大量殺人、ありていに表現してしまえば、倫理観を失い、精神を毒されたものたちによる、公然とした異常殺戮だった。

 肉体改造に対する倫理観が失われ、死という概念が遠のき始めた世界でも、ネクスト計画の異常性は徐々に危険視され始めた。別の視点から見れば、それほどに異常な研究が行われていたともいえる。『強化』と並ぶもう一つの進化の形として期待されながら、頓挫した計画は、負の人類史として闇に葬られ、人々の間に語られるはずのないものだった。プロフェッサー・グレイというこの男と、数人の研究者たちがいなければ。

 元々は機械工学博士であり、『強化』社会の創成期を代表する人物の一人に数えられるほどであったという。『強化』社会の機械工学博士として、人体に機械を埋め込む必要性から医学、生物学にも秀でていたこの老人を、誰もが天才と崇めたそうだ。だがそんな天才が早々に忘れさられたのは、彼が異端の天才と成り果てたからだ。

『強化』社会の発展から早々に身を引いたグレイは、ネクスト計画に加担。さらに頓挫したネクスト計画のすべてを引き継ぎ、極秘に計画の全データを手にしたグレイと数人の研究者たちは、計画を根本から見直し、初期の手段より穏やかかつ確実な方法で、初期以上の目的を達成させる方法を生み出した。


 十代でも遅い。


 それが、グレイたちが出した結論だった。


 人間を超える人間を作り出すのであれば、人間が人間の形を取るか取らないか、その時点で手を加えなければ遅すぎる。過去の悲劇が残した結論が、人間という種が持つ力を引き出し切る方法をグレイたちに定めさせた。


「後天的に人間の肉体を〝ネクスト〟へと進めるには無理がある。それが持論だっただろう?」


「それは違うぞ、ミネルヴァ・ハルク。浅い見識だ」


 命乞いなどには程遠い態度と視線を向ける老博士が纏った気配は、自らがこだわる教授という呼び名に相応しい。出来は悪いが、将来に大きく伸びる可能性を秘めた教え子を諭す声を出したグレイは、切れた口内に溜まった血を吐き出してから、言葉を続けた。


「肉体を〝ネクスト〟へと進めることは、幼年期から老年期まで、どの段階でも可能だ。ただ、人間の脆弱な精神が耐え切れんのだ。耐え切れず、完全な肉体を手にした時には壊れている。まっとうに動くことができんのだ。だからわたしは、人が人となる以前、精神が機能していない時点で、器を完成へと近づける方法を用いたのだ」


 それが、ネクスト計画を完成へと導いた。二人の〝ネクスト〟を生み、実際に『強化』社会を脅かしもした。ミネルヴァは細めた視線の向こうにグレイではなく、刀を持った男と、二挺の銃を構えた男、二人の〝ネクスト〟の影を見ていた。


「試験管で授精され、人工子宮で育てられた肉体が、新しい人類ねぇ……」


「本来、我々はもっと早く知らなければならなかったのだ。自分たち人間という種族の、生物としての脆弱さを。完成しすぎた精神、発達しすぎた五感で、我々はその脆弱さを補ってきた。身の危険からいち早く離れる、逃げることができるという才能によって、身を守ってきたのだ。だがそれが、生物としての肉体的発達を妨げ、人間という種族の可能性に妨げになってもいたのだ」


「〝ネクスト〟はそれを克服し、人間という種族の可能性を引き出しきった、生物としての完成形……あんたのいうところの最高傑作は、それになれたと?」


 無言が、グレイの返事だった。何も言わず、口元を笑みの形にしたその表情が、彼の全てを物語る。前二人と手法は違えど、辿り着くことのできた至高の〝作品〟。ミネルヴァを見返す瞳は人の親のような、誇らしげでありながらも、どこか案ずる空気を漂わせていた。


「そいつはいま、どこにいるんだい。そうまで言われれば、ぜひともお会いしたいじゃないか」


 胸元から新しい煙草を取り出し、指に挟むと、すかさず歩み寄った部下が火をつけた。紫煙の芳香がミネルヴァを包み、少なからず動揺している心をなだめてくれた。

 あの二人以上の潜在能力を持つ〝ネクスト〟。楽に始末はできない。そんな思いの裏づけのように蘇る過去の戦いの記憶は苦く、負わされた傷の痛みまでもミネルヴァに蘇らせた。幻の痛みを訴える体に吸い込んだ紫煙が、すばやく肺に達してくれたのは幸いだった。芳醇な香りになだめられ、表情に浮びかけた苦味がどうにか消えた。


「そう慌てることも、恐れることもない。いずれ現れる。デューイ、ロベルト、ラジー。あの子の復讐は、誰一人として逃がしはしない」


 口元に寄せられた手が、無様に揺れていた。嗜好の香りになだめられたはずの心が再び波打ち、機械を埋め込んだ肉体全身が、どくん、と一つ、大きく響いた鼓動に揺れた。


 復讐。


 グレイは確かに言った。復讐、と。


『七同盟』の一人となるまでも、そしてなった後も、裏の世界で力を振るい、そうすることで君臨し続けてきた自分が、誰からも恨まれないなどとは思わない。むしろそうして自分を恨む人間の数が、自分の力、強さの証だとさえ思う。

 だが、自らの命を危険に晒してまで肉体を改造し、その力がいかに強大だとしても、たった一人で強化の王七人を敵に回そうという復讐者とは、何者なのか。その復讐心とは、どれほどの深度なのか。垣間見えた闇の淵に、ミネルヴァは怖気すら覚えたが、それと同時に何かひっかかる思いを抱いた。

 復讐、〝ネクスト〟、プロフェッサー・グレイ。それらが結びつき生み出す、来栖耶麻人という〝ネクスト〟の影と、『crus.』という反『強化』組織。全てが結びつき、一つの形を作ったとき、脳裏を満たした闇の淵に、何かが浮かび上がるのをミネルヴァは見た。それは実態となって立ち上がった来栖耶麻人の影であり、その手に手を引かれた幼い子どもの姿だった。


 ミネルヴァの口から、吸い始めたばかりの細煙草が落ちた。


「……あの子ども」


「残念だがここにはいない。もうここに戻ることもないだろう」


 わかったようだな、とは口にしなかった。プロフェッサー・グレイは含んだ笑みを滲ませて、突然暴れ始めた。どこにそんな力があったのか、虚を突かれたとはいえ、『強化』であるミネルヴァの部下二人の拘束を振りほどき、グレイは自らの胸に両手を当てた。

 その手が薄汚れた白衣を舞い上げ、同時に身に着けたワイシャツまで引きちぎった。その下から現れたのは老人相応に年老いて降下した胸板、ではなかった。

 露わになった衣服の下には、何本もの長方形の物体が並んでいた。ベルトで固定されたそれらには、雷管らしき棒状の金属が刺さり、配線が一つ一つをつないでいる。


 C4プラスティック爆弾。


 ぐるりと一周、グレイの体に帯になって巻きついた旧世代の爆発物をミネルヴァが理解するよりも、グレイが次の一歩を踏み出すほうが早かった。片方の手が白衣のポケットから無線式の起爆スイッチを取り出し、次の一歩でミネルヴァに肉薄した。


 判断はコンマ以下の時間だった。一歩だけ退いたミネルヴァは、次の一歩で前進すると共に、〝力〟を開放した。


 スリットの入ったドレスが翻り、妖しいまでの艶を持った脚がその瞬間、まるで命を得たように唸りを上げた。比喩ではなく音を発した右足を一歩踏み出す。そこに全体重をかけると、その足を中心に半回転。音速に達する左回し蹴りが、ミネルヴァに飛びつこうとするグレイの胸板を撃った。


「我々は、貴様らに屈したりはせんぞ!」


 回し蹴りの膝を伸ばしきる直前、グレイの怒号が耳を打った。胸骨はその一撃で砕け、気管は押し潰されているはず。にもかかわらず響いた怒号の、あまりの憎悪の濃さにミネルヴァは戦慄した。だがその脚は力を緩めなかった。そのまま伸ばしきられた左膝は、蹴撃の威力を余すことなくグレイの体に伝道し、後方へ吹き飛ばした。

 宙を舞ったグレイの表情は見えなかった。だが、老人は笑っていた。『強化』最速にして最高の破壊力を持つミネルヴァの蹴撃を、『非強化』の体で受けた。本来ならば即死しているはずで、体を貫かれなかっただけでもいいほうと言ったところだ。

 だがそれでもグレイは笑っていた。高らかに。


 何を笑う?


 自らの研究を貫き、その結果としてついに最高の〝ネクスト〟を生み出すことができた自分の人生。その歓喜を笑うのか?


 それともその〝ネクスト〟に命を狙われた私たちの未来を嗤っているのか?


 ミネルヴァの思惟を受けたように笑いが止み、次の瞬間、宙に舞った老人の体が強烈な閃光とともに爆散した。

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