第6話 ミネルヴァ・ハルクという女

 ラジー・マジフは生粋の強襲形式『強化』だった。


『七同盟』で最初に殺害されたヤン・デューイと、二人目のロベルト・バント以外の五人は、いずれも戦闘に特化した強襲形式『強化』である。暗黙に七人の盟主とされているシン・フェルナスを除く、自分を含めた四人の力は拮抗していて、三すくみならぬ四すくみの状態を保っていたからこそ、『七同盟』は不思議なバランスを持って共通の敵であった『crus.』を滅ぼした後も存続されたのだ。


 それゆえに、ミネルヴァ・ハルクは納得がいかなかった。自分もやり合えば無傷とはいかない実力を持っていたはずのラジーが、一切の痕跡を残さずに殺された。しかも斬殺されたという現実は、少なくとも自分と互角か、それ以上の力を持った敵の存在を教えている。だがラジーが死んだ過程も、相手の手の内もわからないままでは、『強化』の死という、それだけで不自然な情報がより不自然で、不愉快な情報でありすぎた。


 結局、そいつは強いのか。


『強化』の魔女にとって、唯一絶対の価値観は、生物的優劣である。弱肉強食の理こそ、世界の絶対法であると考えるミネルヴァには、自分より強いものなど存在してはならない。自分より強いかもしれないものも存在してはならない。自分の力に匹敵する、得体の知れない襲撃者などは、決して許せるものではないし、力で屈服して見せなければならないものの筆頭だった。


 挙句、それが〝あの男〟の亡霊などという、戯言以下の仮説が立てられるようになれば、その憤懣ふんまんはなおさらである。調査を部下任せにする気にはなれず、情報だけ集めるよう指示したミネルヴァは、シンとの会合の後、すぐにを目指した。


 両開きの扉が破られた部屋の中は、調度品こそ散乱していたものの、そこで五人の『強化』兵士と『七同盟』の一人が殺されたにしては綺麗過ぎた。血の色をした最高級の絨毯を、赤いドレスを割って伸ばした足で踏みしめ、そういえば趣味のいい男だった、と思い出したミネルヴァは、手にした長煙草の灰を落とした。


 どれも一級品の家具、調度品が並ぶラジーの執務室を歩き、争った形跡らしきものを探す。ごうごうと吹き込む風が、調度品を散乱させた原因だろう。割られた窓から吹き込み続け、いまなお部屋にある品々をなぶり、かたかたと微震させている強風を受けて、舞い上がった髪を乱暴にかき上げたミネルヴァは、その窓の前まで歩いたところで立ち止まり、風を背に受ける形で執務室の内側に振り返った。


 争った形跡といえばその窓と、出入口の割られた扉くらいなものだ。階下でラジーの元部下たちが吐き捨てた言葉が確かであったことを理解し、ミネルヴァはまた煙草を吸った。


 同盟、といっても、水面下では商売敵として暗闘を続けていた相手が突然乗り込んできた。主を失ったとはいえ、未だ活動を続けている元部下たちに、その行為を容認する空気はなかった。だが、だからといって諦めるミネルヴァでもない。決めたことはやり通す魔女の強欲と剛直を、文字通りの腕力として発揮したミネルヴァは、数人の重傷者で納得をさせ、執務室への通行許可を取り付けた。


 見ても何もない。壊された扉と割られた窓。それだけだ。捨て台詞のように背中にかけられたラジーの元部下たちの言葉が思い起こされる。強い風にかき乱され、千々に消えてゆく紫煙のわずかな残り香を嗅ぎながら、ミネルヴァは鼻を鳴らした。


 何もない、と決め付けるのは、何もないことを前提として見ている人間の先入観だ。人が争った場所に、争った相手の痕跡が残らないことなどまずない。それがどんなに微小であったとしても、必ず残るはずなのだ。


 部下には恵まれなかったねぇ、と絨毯に視線を落として内心につぶやいたミネルヴァは、ラジーが倒れていたという場所の周辺から調べ始めた。


 六十階に位置する執務室は、地上から二百メートルを越える位置にある。高空と呼ぶことの出来る空を渡る風の力は、強風から暴風の域である。ゆったりと空間を取っている執務室であっても、避けることの叶わない空気の暴威に背を向けたミネルヴァは、見える景色を丹念に見つめた。


 額に刺傷を受け、その頭を窓に向けて倒れていたラジーは、正面から刃物による攻撃を受けたことになる。では、敵はどこから来たのか? ミネルヴァは死の直前のラジーの視覚に成り代わり、その瞬間を幻視した。


 正面には粉砕した両開きの扉。左手には応接セットのガラステーブルとソファ。ラジーの執務机の正面に位置するように据えられた応接セットの上に、『crus.』を示すメダルはおかれていたというが、敵はそこにはいなかった。誰かがそこにいたことは確かだが、ラジーを葬ったものではない。戦士の視覚が伝え、素早く一つ目の可能性を消したミネルヴァは、改めて正面に視線を戻す。


 扉は破られていた。では誰が破ったのか。その場に五人の『強化』兵士が倒れていたが、いずれも頭を廊下側に向け、うち三人の身体には無数のガラス片が突き刺さっていた。そのガラス片が割られた窓のものであったことは間違いない。このことは『強化』兵士は窓が割られる前に起こった争いの音を聞きつけて、執務室へ踏み込んだことを示している。


 つまり、敵は中にいたのだ。


 応接セットの傍ではない、この部屋のどこかに。


 どこだ、と思案したミネルヴァの意識は、自ずと背後を向いた。この窓はいつ破られたのか、とラジーに問う言葉が浮び、彼の身と一体になったミネルヴァの身体が、彼の動きをなぞる様に右腕を振り上げ、それを背後に向けるように半身をひねった。


 そうか。そこで戻ったミネルヴァ自身の意識が納得する。ラジーは襲撃者に背後を取られていた。ラジーほどの戦士の背中にどうやって回りこんだのか、どういった手法かはわからない。ただ間違いなく、この瞬間にラジーは反撃に転じている。窓が破られたのはその結果だ。


 それならば。


 考えるよりもミネルヴァの身体は先に動いていた。完全に身体を巨大な破口を開いた窓に向けると、その場に片膝をついてしゃがみこんだ。ラジーの身体があったその場所の絨毯を手で撫でる。そこに痕跡の可能性を見出したミネルヴァの手は、慎重に数回、動かされた。


 目当てのものは予想通り、暴風に飛ばされることなく、毛足の長い絨毯に埋もれてその場に留まり続けていた。右手の指でつまんだそれを持ち上げながら立ち上がったミネルヴァは、そのものに左手の指を添える。


 髪の毛だった。


 襲撃者が男にせよ女にせよ、突然武器を向けられて発砲されたのだ。激しく動いてそれを避ければ抜け落ちる、あるいは射撃の擦過で数本が切られて落ちる可能性はあった。


 髪の毛は、二十世紀からそうであるように、個人を特定する重要な因子のひとつだ。これを鑑定にかければ、持ち主が何者であるかの判定はつく。しかしそんな過程を踏まずとも、自分に必要な情報が得られることをミネルヴァは知っていた。


 右指で押さえた十センチ以上の長い髪を、左の指がなぞるように引っ張る。艶やかな黒い毛が一時緊張し、放すと窓からの風にさらされ、狂ったようになびいた。その手触り、つや、揺れる様。一見ただの髪の毛と同じそれはしかし、どの特徴をとってもミネルヴァには嫌と言うほどわかる特徴を持っていた。


 戦慄するミネルヴァの手の中で乱れ狂う髪の毛を一瞬、仄蒼い輝きが包むように見えた。そのたった一瞬の暗い輝きが、考える答えをより確実にするものとしてミネルヴァの網膜に焼きついた。


 遺伝子鑑定に回すまでもない。そう断じたミネルヴァは、つまんでいたせっかくの証拠を、汚らわしいもののように捨てた。暴風の虜となった襲撃者の痕跡は、部屋の中へ向けて飛び、見えなくなった。その軌跡を追うこともなく、胸元から携帯端末を取り出したミネルヴァは、すぐさま通話機能で部下を呼び出した。


 平伏する様子が手に取るようにわかる声の部下に、ミネルヴァは口早に用件を告げた。


 これだけわかれば十分だ。

 後はわたしが自ら乗り込んで……殺してやる。


「『旧市街』で、最近大量に薬物を取得している人間、企業、建物を調べな。……ああ、そうだ。合法、非合法問わずだ。幻覚作用の強い麻薬もな。……やつは、そこにいる」

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