クロス:ネクスト

せてぃ

Chapter.0

亡霊

第1話 クロス

 かつて「百万ドルの夜景」という言葉があった。美しい夜景を指したその言葉の『百万ドル』とは、初めてそう称された街明かりのひと月の消費電力を、当時の貨幣単位に換算した値だったという。

 ではいま、眼下に広がるこの街には、いったいどれほどの値が付くのだろうか。

 利益至上主義の象徴として、夜なおその明かりを消すことのないオフィス街。宵闇を恐れるようにして、寄り添いあうために扉を開ける歓楽街。静と動、陰と陽、異なる人造の光が混ざり合い、一つの生き物のように蠕動ぜんどうする街。あるべき都市計画もなく、発展の方向性も持たず、ただただ肥大だけを続けたこの街の夜景は、果たして夜景と言えるのか。満天の星空がそのまま大地になった。そんなロマンチックな旧世紀の形容などとは根本的に異なる、ただひたすら明るいだけの街。その電力消費を金銭に換算すれば、百万ドルの何千倍、何万倍もの金額になるだろう。その額面だけの価値が、果たしてこの街にあるのだろうか。それはこの街の全景を眺める人、それぞれの見解によるだろう。

 では、この客人たちは、どう考えるのだろうか。

 地上六十階に位置する執務室。そこから望む街の姿に背を向けたラジー・ジャラル・アル・マジフは、まだ紫煙を引く葉巻を灰皿に置いて、机の向こうに視線をやった。


「ですから、護衛のための武装は、強化すべきだと考えるのです」


 下等な民たちが通うネオン街の酒場程度なら、すっぽり収めることのできる広さの空間に、本革張りのソファとガラステーブルの応接セット。足元に敷き詰めた真紅のカーペットは、自身の執務机との色調を意識して、ラジー自身がオーダーした特注品だ。決して華美ではないが、それら三点だけでも『旧市街』に住むものたちならば、一生食うに困らない金額になる。

 よい仕事をするにはまず、よい環境を作ること。ラジーのモットーを忠実に体現させた執務室だった。それゆえ、このような類の客をソファに座らせることはおろか、カーペットの上に乗らせたことさえも忌々しく思えた。口の中に浮んだ苦味を飲み下し、ラジーは無言を返事にして客の言葉を促した。


「既に二人、『七同盟』の盟主が相次いで殺されておるのです。ラジー様にも……」


「その犯人の手がかりを知っている。お前はそう言ったはずだが?」


 街の明かり以外、光源を持たないこの部屋は、半ば闇に沈んでいた。応接セットは窓と反対の出入口寄りに置かれているので、ソファに腰掛ける二人の客の姿は、なおさら薄暗い。しかし機械工学博士を名乗った老人の姿は、彼が一語、口を開くたびに、不思議とはっきりと浮き上がってくるかのようだった。

 博士らしさを出したかったのか、纏った白衣はしかし薄汚れ、半ば禿げ上がった白髪はぼろぼろ。典型的な『非強化』の老人といったみすぼらしい姿だった。この機に自分の開発した『強化』パーツを売り込もうとでも思っているのか、絶えず喋り続けているが、身なりが身なりだ。『博士』という肩書きも、詐欺以外の響きを持たない。

 この街の、いや、この世界の権力の一角を担うラジーには、耐え難い下等生物の姿だった。言葉に明らかな嫌悪が混ざるのを意識したが、そんな気配を感じ取るだけの繊細さもないのであろう。「知っておりますとも」と続いた老人の口は止まることなく、ラジーの耳朶を聾し続ける。

 理由がなければ、死体にして引き取らせるところだ。もはや一刻も自分のオフィスに留まらせて置きたくないと訴える内心が、銃の所在を探させ、自分の両腕に目が向く。そこでどうにか感情を抑えたラジーは、極秘裏に進めたこの会談に強い後悔を抱いた。

 かつての仲間であり、いまは盟友。しかしその裏では、この街の覇権を争い、敵対する勢力でもある『七同盟』の一人が、車での移動中、何者かに襲われ命を落とした。『強化』の一勢力の長が、である。

 無論、彼の周囲には、常に十人単位の『強化』護衛が付いている。車での移動となれば、ダミーも含めて三台以上の高級車輌を使用するのが基本だ。しかしその護衛もろとも、彼は殺害された。犯人は一切痕跡を残さなかった。

 それが二週間前だ。襲撃者の見当は付かなかった。ラジー自身もそうであるように、ある一定以上の権力を有しているものにとっては、命を狙ってくる相手など、それこそ夜景の明かりの数に等しい。容疑者の多さが襲撃犯の特定を困難にしていた。ラジーを始め、残された『七同盟』とその組織の力をもってしても、誰も犯人につながる何かさえ見つけられずにいた。

 疑わしいものは幾人も上がり、実際に捕縛されたもの、あるいは殺害された男の組織に誅殺されたものも出た。だが、そのどれもが真犯人とは言い切れなかった。犯人が特定されない苛立ちは煮えたぎり、街全体が過熱している。そんな風に誰もが考え始めていた。

 そして二人目が殺された。二日前だ。やはり同じ『七同盟』の一人。ラジーにとっては幼馴染でもあったロベルトは、彼の組織最大のビジネスである、麻薬取引の交渉に出向いた先で殺された。やはり十数人の護衛と、今度は彼の交渉相手だった『強化』たちも含め、すべて何者かに刺殺されたのである。

『強化』を刺殺、などという真似が『非強化』に出来るはずもなく、残された五つの組織は、互いに全面戦争を叫び始めた。ついに吹きこぼれた疑心暗鬼の釜を冷ます術は、真犯人を捕まえ、吊し上げる外になくなっていた。ラジー自身も、一組織の長として、このまま犯人が特定されないのであれば、抗争がこの街を戦場に変えることもやむなし、と考えている部分があった。

 犯人の手がかりを知る人物の所在を掴んだ、と部下からの報告を受けたのは、昨日のことだ。

 殺されたロベルトと同様、麻薬売買を主に行ってきたラジーの組織は、海外の商談相手を多く抱える。下からの突き上げがあれば、敵対勢力との抗争も考えなければならないが、抗争に熱を上げる組織の不安定さ、野蛮さを、そうした商談相手たちに晒す愚は、出来ることならば冒したくない。生き馬の目を抜くビジネス世界のこと、そんな姿を見られれば、契約を解消されることも考えられる。世界経済の数パーセントを自由に動かせるほどの権力を持ちながら、そんなまっとうなビジネスマン然としたバランス感覚を、ラジーは失っていなかった。だからだろう。真犯人を見つけ出し、殺さずに捕縛することで、事態を早急に鎮めようと考えたのは。

 その意味では、少々急ぎ過ぎたのかもしれない。抑えきれなくなってきた苛立ちと共に、ラジーは思った。例え信憑性の高い情報の提供者だったとしても、何も自分がこんな下賤のものと直接会う必要はなかったのだ。確かに老人はラジー本人に会うことを希望し、本人でなければ話さないことを条件に出していたが、替え玉などいくらでもいる。

 だが、これで襲撃者を捕らえられるのであれば、ラジーの予定通りに事は運ぶ。自身の両腕、とりわけその内側に隠した武器に集中した意識を霧散させ、ビジネスマンとしての冷静さを取り戻したラジーは、いま一度老人に視線を向けた。その時だ。老人が正面のガラステーブルの上に何かを置いたのは。


「これを、ご存知ではありませんかな」


 直径二十五ミリ。厚さ最大箇所で二ミリ。『強化』されたラジーの目が、瞬時にして置かれた円形の物体の大きさを、数値にして脳に表示する。同時に銅とニッケルを主成分とすると思われるその銀色のメダルに掘り込まれた紋様も、ラジーにははっきりと読み取ることが出来た。出来てしまった。

 四辺の長さが均等の十字を中心に、その周囲に二回りほど小さい、同じ形の十字が四つ。銀に映える朱色で掘られたその色は、塗料か、それとも血の色か。一瞬にして十字から滲み出してくる血液を想像したラジーは、自分の腕が震えていることに遅れて気付いた。

 

 エルサレム・クロス。


 神も宗教も廃れて久しいこの街で、唯一、畏怖と敬意を持って扱われる宗教的紋様。そしてラジーにとっては、真に恐怖を抱かせる『敵』の紋章だった。

 そんなはずはない、と動揺を断ち切ろうとする内心に浮かび上がる疑念。確かにやつなら『強化』を、痕跡も残さずに刺殺することが出来る。間違いなく出来る。だがやつは……


「貴様、何が言いたい」


 老人からは何一つ手がかりを聞き出せていないが、不快感の限界だった。冷静さを欠いたラジーの思考は、かつて兵士であった頃の本能を呼び覚まし、右腕をソファに座った老人に向けた。途端、右腕の中、強化骨格の内側に装備された速射火器ユニットが起動し、ラジーの掌に闇よりもなお暗い影を持つ砲口が姿を現した。

 もっともらしい手がかりを持っていた。部下がそういった言葉を思い出したラジーは激情の内に舌打ちした。あのメダルは確かにもっともらしい。この客の始末が終わったら、あいつの頭も吹き飛ばしてやる。一瞬想像した部下の顔と、老人の顔を見比べて、ラジーは動きを止めた。

 それは目の前にいる老人の纏った気配が、先ほどまでの様子から一変していたから、だけではなかった。

 みすぼらしい身なりで阿呆のように言葉を紡ぐ、『非強化』の下賤。そのはずだった老人の目がすっと細められ、薄笑いと共にこちらに向けられていた。その半顔に、影が映っている。

 背後の窓から差し込む街の明かりで出来る影。自分のものとは違う、何者かの影。

 失念に気付いたのはその時だった。老人が口を開けば開くほど、彼の存在ははっきりとした輪郭を持った。それは同時に、同席した女の存在に幕をした。

 薄闇の中で押し黙り、前屈みの姿勢で黒く長い髪を垂らして老人の隣に腰掛けていた女。髪と同じ色の衣服を身に着け、髪に隠れた顔は、はっきりと確認することも出来なかった。ゆえに本当に女だったのか、それすらも定かではない何者か。

 老人の嘲笑と取れる笑みが、これまでの彼の行動をして、思惑通りだと嗤う。促されるように視線を老人の隣に向けたラジーに、そこにいたはずの女の姿を捉えることは出来なかった。闇そのもののように黒い姿が室内の薄闇に同化し、完全に喪失していた。ラジーは背筋に走る冷気を感じずにはいられなかった。

 老人の笑みが深みを増す。細められた視線が自分を通り越し、顔にかかった影の正体に向いていることに気付いたラジーは、絶叫と共に右腕を振り回した。銃口を覗かせたままの右腕が背後の影を捉えたかどうかはろくに確認せず、ラジーの意識は右腕の筋組織に引き金を引く電気信号を送った。

 一秒以下の時間で伝達した信号は、皮下潤滑剤と人工組織で強化された筋肉を動かし、内蔵した火器に銃火を上げさせた。フルオートで毎分八百発の発射が可能な内装機関銃が咆哮し、貪欲な鋼鉄の牙が影に喰らいつく。発射の衝撃を肘に装着した緩衝機関が受け止める感覚だけが強くラジーの身体を揺さぶったが、敵を撃ち砕く手ごたえは返らなかった。

 あいつは本当に影なのか。詮無い夢想が弾け、敵の影を透過した黒い牙が背後の窓を撃ち砕いた。その厚さに比例した重々しい破砕音が響くと、地上六十階の窓を叩き続けていた高空の風が、ビル全体からすればわずかな傷口でしかないその砕口に滑り込んだ。一瞬にして窓を微細の強化ガラス片に変えながら傷口を広げた強風に煽られ、室内にある比重の軽い物品が次々と宙に舞った。

 ラジーの叫びが聞こえたのか、隣室に控えた五人の『強化』護衛兵が執務室に走りこんできたのはその時だった。ラジーの戦士としての本能が、まずい、という戦慄になって弾け、散開の令を下したが、その時にはすでに遅かった。微細の強化ガラス片は、それ一つ一つが鋭利な刃物と化し、共に巻き上げられた物品がそれらを隠して風に乗り、窓の正面に位置する執務室の出入口に向かって飛翔していた。

 状況を確認する間もなく、両開きの扉を割って走り込んだ最初の三人が、凶暴な風の刃の餌食になった。耳を、指をそぎ落とされ、目を潰されて、全身を千々に引き裂かれると、人本来の赤い血液と、体内に埋め込んだ機械を稼動させる生体オイルが入り混じった、体液としか表現の利かない液体を周囲に撒き散らして倒れた。

 突然のことに何が起こったのかわからない残りの二人は、仲間の体液を浴びながら一瞬棒立ちになってしまった。その動かぬ人形を、視界の端から延びた影が包み込むのをラジーは見た。

 二人がその存在に気付いた時には既に遅かった。這うように低い姿勢で、十歩以上はある執務室の端から端を瞬く間に駆けた黒い影は、下から突き上げるようにして二人の『強化』兵士の顎に両の手を打ち出していた。その手に刃渡りにして二十センチを超える戦闘用ナイフが握り締められていたのは、強化されたラジーの目でも一瞬しか見ることができなかった。

 二人の顎骨を撃ち砕いたナイフはそのまま後頭部へと抜けた。人間であれば命に届く傷も、生体部品の交換や修理によって回復できる『強化』にとって、唯一絶対の死を意味する頭部の破壊を狙った一撃は、完璧な形で二人の命を断った。本当の人形と化した二人の身体は、女のナイフの勢いを受けて数センチ飛び上がると、盛大な音を立てて出入口の扉を粉砕し、床に転がって二度と動かなくなった。


 こいつだ。


 


 ラジーの思考が奇妙に揺らぐ。ごうごうと音を立てて吹き込む風を受け、黒い髪をなびかせた女は、こちらが動揺のあまり動けないのを知っているかのようにゆっくりと振り返って見せた。

 二人の盟友を襲い、殺害し、痕跡一つ残さずに消えた襲撃者はこいつだ。この手際からいって間違いない。だが……

 身の危険を感じたが、飛ばさずにいられなかった視線は、応接セットのガラステーブルを見ていた。その上に置かれた小さなメダル。血色で描かれたエルサレム・クロスを見やって、過去の映像を脳裏に呼び起こしたラジーは、改めて違和を確かにした。


 やはりあいつは死んでいる。


 ならばこの女は……?


 老人の嘲笑が口元に及ぶ気配があった。しまった、という思いが視線を戻させ、ラジーが正面を見据えたそこに、黒い女の姿はなかった。代わりに沸き上がった真上の気配に戦慄が走り、見上げた視界がラジーの見た最後の映像となった。

 纏った黒いコートを翻して飛来した女の姿は、覆いかぶさってくる闇そのものにも思えた。闇の中に鋭い光を反射させて輝く何かがあると気付き、それが身の丈に迫る片刃の剣であることがわかった時には、その鋭利な切っ先が、まっすぐ額を貫いていた。

『強化』の研究上、生物が持つ危険予測反応であり、生存のために必要不可欠であるとされ、残されたはずの痛覚だったが、死に至る痛みは伝えてはくれなかった。


「後五人だな、お前さんの復讐も」


 強烈な風鳴りが執務室を満たし、離れて行く女の足音をあいまいにした。しかし闇に閉ざされた視界の中で聞いた老人の声は、逆巻く強風の中で異様なほどはっきりと響いた。下賤と見下した老人の声音は勝ち誇っているようにも、どこか空疎な、超越的な位置から見下ろしているようにも聞こえ、ラジーは復讐という言葉を反芻した。

 ガラステーブルに置かれたエルサレム・クロスが導く二人の存在を、いま一度確かにして、復讐という言葉が意味するものを探ろうとしたが、考えを組み上げることも、声に出すことも、もうラジーには出来なかった。

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